宇野勝が驚愕した江川卓のピッチング 「ストレートとカーブしか投げないのに、計算して三振を奪っていた」
連載 怪物・江川卓伝〜宇野勝が振り返る伝説の一戦(後編)
前編:9回4点を追いつかれた江川卓は宇野勝に「騙すなよ」と言ったはこちら>>
1987年に立浪和義が入団してくるまで、中日のショートと言えば宇野勝だった。84年に遊撃手として史上初の本塁打王を獲得し、翌年も41本のホームランを放つなど、現役18年間で通算338本塁打のスラッガーである。
最多勝2回、最優秀防御率など数々のタイトルを獲った江川卓 photo by Sankei Visual
「タツ(立浪)が入ってきてから、セカンドをやって、外野にも行ったじゃないですか。ひとつ感じたのは、外野の人には悪いけど、内野から外野に行くと、ものすごく暇なんですよ。だからゲームに入っている感覚がなくて......。その点、ショートはボール回しもありますし、飛んでくる回数も多い。ショートでホームラン王を獲れたのはすごいとか言われますけど、僕はある程度忙しいほうが、ゲームに入っていける感覚はありました」
宇野と話していると、いい意味で鈍感力というか、天性の大らかさを感じさせる。これが愛すべきスターの性分なのだろう。
80年代前半の中日は野武士軍団と言われるほど、地方球団には似つかわしいほど魅力的な選手が揃っていた。
"孤高のリーディングヒッター"田尾安志、"不死鳥" 谷沢健一、"魅惑の強肩"平野謙、"一休さん"中尾孝義......。投手では、"燃える男"星野仙一、"150キロの申し子"小松辰雄、"元祖速球王"鈴木孝政、"元祖オリエンタル・エクスプレス"郭源治など、個性の強い選手が集まっていた。
「(鈴木)孝政さんのデビュー時や、小松なんかも150キロ以上出ていて速かったけど、江川さんの速さはスピードガンでどうこうって感覚ではなかったですね。要するに、初速と終速の差がほとんど変わらないピッチャー。デビュー当時の僕は下位打線だったので、140キロそこそこで抑えられちゃうんです。正直、ほかのピッチャーも含めて『速いな』って感じたことはないんです。何回も対戦すれば、目も体も慣れてきて、そこまで速いというのは感じない。ただ江川さんは、速さよりも初速と終速の差がないからベース付近で伸びてくる。実際はありえないんですが、ホップしてくるような感じ。ほかのピッチャーにはない軌道のボールだから、バットに当たらないんです」
では、速いピッチャーは誰かという質問に、宇野は「うーん」と答えに窮した。初対決で速いと感じることはあっても、対戦を重ねるにつれ目が慣れて速さを感じなくなるというのだ。だから、毎年コンスタントに20本以上のホームランを打つことができたのだろう。スピードに関して「驚いたピッチャーはいない」と語ったが、それでも江川のストレートだけは別物だったと断言する。
「江川さんは真っすぐとカーブしか投げないんですけど、計算して三振を取っていたと思います。要するに、『高めのボールをここに投げておけば空振りするだろう』というイメージがあって、実際そこに投げて空振りさせるんですから。江川さん以外で、そんな芸当ができるピッチャーなんて、見たことないですね。速いストレートを意識するあまり、カーブが来ると手が出ない。それでカウントを稼がれて、最後は高めのストレートに手が出て空振りってパターンですね」
江川に対して、打者は当然ストレート待ちでいる。江川と対戦する以上、最初からカーブ狙いで打席に入らない。いや、入れないのだ。そんな打者心理を知ってか、江川はカーブでカウントを整え、追い込んだところでストレート待ちの打者に対し、高めのストレートを振らせて三振を奪う。これが江川の"ロマン"である。
【三振パターンを確立していた】「江川さんが先発の時、よくミーティングで『真っすぐとカーブしかないんだ。だから、これがこうでこうだ!』って指示されるのですが、そのとおりにできない。たった2種類しかないんですが、江川さんは三振のパターンを確立していた。初球は真っすぐのアウトロー、次にカーブ、そして最後はインハイのストレートで空振り三振です。カーブにしてもカウントを取るのと、空振りを取る2種類があり、キレもすばらしかった。みんな投球パターンはわかっているんです。それでも最後、インハイが来ると手が出ちゃうわけです。攻略できないんですよね。そんなピッチャーって、そうはいないですよね。別格です」
百戦錬磨の猛者が集うプロ野球の世界において、ストレートとわかっていても打てないことがいまだに信じられない。これまで対戦してきたなかで、速いと思った投手はひとりもいなかったと言いきった宇野でも、江川のストレートだけは脱帽せざるを得なかった。
「僕は守備を見てもわかるように、気が抜けているというか、集中力が足りないところはたしかにありました。江川さんの場合は、気が抜けているんではなく、抜いているんです。9回を投げきるために力を温存するというか、やや力の劣るバッターに対しては全力でいかない。200勝するようなピッチャーって、ランナーのいない場面での下位打線には力を入れないじゃないですか。逆に、上位から下位まで全力で投げるピッチャーって勝てないんじゃないかって、そんな気がします。江川さんの場合、そのメリハリがとくに大きかったように思えます」
宇野は江川から放った10本のホームランをほとんど覚えていない。しかし82年9月28日、巨人との天王山初戦、9回一死満塁で江川のストレートをものの見事に弾き返した打席だけは、はっきり覚えている。9回4点差を追いつき、延長10回でサヨナラ勝ちし中日優勝への大きなカギとなった試合。見上げると初秋の夜空にくっきり浮かんだ月が、スタンドにいる人々の興奮した心を優しく照らしていたのだった。
(文中敬称略)
江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している