新総理・石破茂が「ダメダメ銀行員」だった時代の秘話が面白すぎる《緊急出版「保守政治家」を読み解く》

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自民党総裁に選出された石破茂氏が、総裁選出馬のタイミングで出版した最新刊「保守政治家 わが政策、わが天命」(講談社刊)が面白い。政策はもちろんのこと、明かされてこなかった自らの来歴を、赤裸々に明かしているのだ。同書から抜粋して紹介しよう。

終電前は焼き鳥屋で

1979年三井銀行に入ります。時代は80年代目前、高度経済成長期が終わり、安定成長期に入っていました。

初任給は8万円弱。週休1日(土曜は半休)。配属は日本橋本町支店で、千葉県松戸市にある社員寮を朝6時に出て、朝7時半に職場に入り、夜は残業につぐ残業という生活でした。午後11時より早く帰った記憶はあまりなく、ほとんど終電でした。

終電前の1時間ほどは毎晩のように職場の先輩に連れられて神田の「一番鶏」という焼き鳥屋で一杯飲む。当時はホッピーが売れていました。安くて早く酔えたんですね。

今思うと不思議ですが、日曜日に寮でゴロゴロしていると、早く月曜日にならないかなという気分になりました。仕事というより、一杯飲む雰囲気が楽しかったんでしょう。

ここでも、実は最初はとても苦労したんです。「お前ね、算盤ができなくてもいいとは言ったが、計算機ができなくていいと言った覚えはないぞ」と言われましてね。銀行員特有の、右手で伝票をめくりながら左手で計算機を使うという技術がなかなか身につかない。お札を両手でクジャクの羽のように開いて、数えるのもうまくできない。

どうやったら札勘定ができるようなるか

入ったその日にやめようと思いました。ただ、何もできないままやめるのはあまりにも悔しい、せめて札勘定と計算機ができるようになってからやめようと思い、来る日も来る日も朝7時半に職場に入り、本物の札ではないもので練習しました。

電卓も、今のようなスマートな電卓ではありませんでした。それこそ、足し算引き算しかできない歯車式と言われた古色蒼然とした計算機を使ってね。そうしたら入行2ヵ月後の6月の店内試験で、高卒大卒10人くらいいた新入社員の中で2番になることができました。それと同時にやめる気はまったく失せました。

そこからは、毎日が楽しかった。2ヵ月くらいは背広を着てこなくていいから倉庫の片づけをしろと言われました。当時はバブルが始まりかけており、特に銀行は景気が良かったし、勢いがありました。店を新築移転するとのことで、古い書類の片づけなどをやらされました。

次に出納係。これは皆やらされる、行内の全現金を管理する仕事です。大口の引き出し依頼に金庫から現金を出したり、ATMに現金を補充したり、15時になると集計作業に追われ、最終的に全体の集計が合わないと合うまで帰れない仕事です。これを半年くらいやったのかな。その後は窓口の社員の後ろでコンピュータの端末を叩く。これも半年くらいやりました。

この時代には、「モーレツぶり」を絵に描いたような経営者や上司が多くいたものです。営業時間が終わり、シャッターを下ろしたら、15時からは内部の業務が始まります。

企業回りなどもあるので、営業会議(「資金会議」と言っていました)は毎晩夜の9時頃から始まりました。今では信じられないかもしれませんが、当時はそれが普通だったのです。

「あそこにはまだカネがある」といった支店長

労組が職場事情の改善などを要求しようものならば返り討ちに遭います。ある支店長は「君たちが無能だからこんなに遅くまで働くことになるのだ。銀行としては逆に君たちに電気代と水道代を請求したい」と逆襲していました。

またある支店長は、資金会議中の夜11時頃にサッと会議室のカーテンを開けて「見ろ、隣の太陽神戸銀行にはまだ灯りがついている。あそこにはまだカネがあるのだ。あの店が潰れるまでやって、やって、やり抜くのだ」と檄を飛ばしていました。

その後、1990年に三井銀行と太陽神戸銀行は合併するのでご愛嬌の話にはなるのですが、当時は横並びの競争が激しくて、私の好きな小説で言えば、まるで山崎豊子さんの『華麗なる一族』(新潮社・上中下巻・1973年)に出てくる阪神銀行池田支店のような世界が本当に展開されていました。

厳しい上司の中には、本当に自分の出世しか考えていない人と、実は心の温かな人がいる。そんな見分けは自然とついてきたように思います。

たった4年しかいなかった銀行でしたが、優秀な人が本当にたくさんいて、どう見ても自分より頭いいな、決断力あるな、包容力あるなという人、この人なら凄い政治家になるなという人を何人か見てきました。

そういう人々を間近に見ながら、政治の世界のことも考えました。この優秀な人たちは、三井銀行の重役になることはあっても、政治家になることはないだろう。政治家の世界はそれだけ敷居が高い。自分はその人たちよりはるかに劣るのに、親が政治家であるがゆえに政治家になることがあるかもしれない。それは国家にとっていいことなのだろうか。そんな一種の負い目みたいなものを感じることもありました。

入社して3年目、1981年9月16日に父・二朗が亡くなり、私の人生が大きく変わります。

石破茂が明かした「大学同級生の女性に猛烈アタックした日」の衝撃顛末《緊急出版「保守政治家」の中身》につづく

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