9月20日から26日は動物愛護週間。1万1000年前の遺跡から人と犬が一緒に埋葬された墓が発掘されるなど、古くから犬はただの家畜ではなく、大切な家族でありパートナーだったことがうかがい知れます。狼を祖先に持ち、狩猟犬や牧羊犬、番犬、盲導犬そしてペットとして――。今も多くの人々の心を捉え、癒し、魅了し続ける、犬たちを主役にしたエッセイと小説をご紹介します。

選・文=温水ゆかり 写真=shutterstock

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不自由だけれど、「生」があふれている。女ひとり、犬猫と生きる日々

『野犬の仔犬チトー』
著者:伊藤比呂美
出版社:光文社
発売日:2024年5月22日
価格:1,760円(税込)


【概要】

親を看取った、夫も見送った、子どもたちは独立した。根っこのない寂しさをひしひしと感じる六十代半ば。女ひとり、自然と寄り添い、犬猫と暮らす日々。生まれたり死んだり、咲いたり遊んだりする生きものたちの傍にいると、自分自身の「生きる」もしっかと受け止められる。そんな人生を楽しむ比呂美さんの家に、野犬の仔犬がやって来た。

 

 表紙で丸っこくなっている犬がチトー。イラストは伊藤比呂美画伯の手になる。雌なのに、口の周りが黒くておっさんじみている。あんまし可愛くない。が、読んでいるうちにその頑固さ、頑なさが逆に笑えて可愛くなってくる。

 もらうきっかけは、こうだった。仕事に煮詰まったときや手持ちぶさたのとき、動物愛護センターのHPをのぞくという「フシギな趣味」を持つ伊藤さんは、「保護犬猫」のページで暗い目つきでうずくまる、すさんだ表情の仔犬に目を留める。

 殺処分されるなら引き取ろうと思った。熊本の家には、カリフォルニアの家から連れてきたおとなしいジャーマン・シェパード(クレイマー)が一匹、阿蘇の森で水源を守る役目を果たす池守さんのところからもらってきた若い兄弟猫(メイとテイラー ご存じクイーンのメンバー名だ)が二匹、植物はいっぱい。

「伊藤動植物園」と看板を掲げたいほど動植物が溢れた家に、もう一匹犬が増えても、特段の支障はないように思えた。

 

譲り受けたのは、不信感120%の目をした野犬の仔犬

 とりあえず、保健所の担当者と電話で話す。野犬だというのは、そのときに知った。野犬とはなにか? 人に飼われているのは飼い犬、人間の生活圏を徘徊しているのは野良犬、人間とほとんど関わりを持たず、群れを作って山の中や林の中で生きているのが野犬だ。

 ちなみに野犬は、みんな日本犬みたいで口が黒く、仔犬は捕まるが、母犬は捕まらないという。

 車で隣の市の保健所に行くと、担当者は譲渡に及び腰だった。曰く、人馴れしていない、母犬から人間は怖いものだと教わっているなど。別の場所で捕獲されたもう一匹の野犬も見せられた。こちらのほうがまだ人に馴れそうですよ、と言われる。

 悩んだ。が、やはり二匹とも引き取るのは無理だった。2週間前に捕獲され、檻に閉じ込められて陽にも当たらず、排泄物を垂れ流したまま、“こわいこわい”とうずくまり、実際に見たら不信感120%の目でこちらを見返した最初の仔犬を譲り受けて帰宅する。

 これが2020年3月2日のこと。本書は2024年の3月直前までの「伊藤動植物園」のありさま(生態)を、日記形式で書く。

 さて、同世代や周縁世代の女性達に圧倒的に支持されている伊藤比呂美さんが、働き盛りのビジネスマン達に知られているとはあまり思えないので、簡単な人物紹介をします。

 伊藤さんは詩人である。80年代、女性詩ブームを牽引し、ポーランド文学者の恋人を追って戒厳令のワルシャワへ。帰国後入籍し、夫が大学人として職を得た熊本へ。二女を出産。両親も一人娘の家の近くに移住してくる。以後実家は東京から熊本に。

 1990年代は離婚で幕を開け(離婚後も同居という関係)、イギリス人画家と知り合い、三女をアメリカで出産。熊本の家庭を解散し、三児を連れてカリフォルニアに移住する。

 90年代後半に小説も書き始め、『ラニーニャ』などが芥川賞候補に。

 2000年代、説教節、古典の新訳、詩集、現代詩としての説教節などに取り組み、高見順賞や萩原朔太郎賞と詩の賞を立て続けに受賞。4年半闘病していた母を看取る。

 2010年代、熊本―カリフォルニアの遠距離介護を経て、2012年父を看取る。父の犬ルイを熊本からカリフォルニアへ“輸出”。カリフォルニアでの時間をほとんどともにした13歳の老犬ジャーマン・シェパード逝く。

 結婚、離婚、出産、育児、介護に看取りと、女のライフステージにまつわるモロモロを、濃く深く経験していることがおわかりいただけると思う。数々の著作の中でも、近年の『切腹考』(森鷗外とイギリス人夫の他界/2017年)、『犬心』(老犬ジャーマン・シェパードのタケを通して見つめた生と死/2013年)は傑作だと思う。

目は開いているが、なにも見ていない

 野犬のチトーがやって来た2020年というのは、コロナ禍。30歳近く年上だった英国人夫を数年前にカリフォルニアで看取り、米国在住の3人の娘たちも独立。早稲田大学文学学術院・文化構想学部教授を引き受けたことから(2018年4月〜2021年3月)熊本に本拠地を移していた。

 チトーという名は、『シートン動物記』の「かしこいコヨーテの話」からいただいた。人間に捕獲され、さんざんな目に遭うが、群れに戻り、人間の仕掛ける悪事に詳しい群れのリーダーになるコヨーテの名前である。

 チトーは頑固だった。ベッドの下の暗がりから出てこようとせず、餌を置いても食べない。放置して戻ると、食器はカラになっている。触わられる範囲には絶対入ってこないし、触ろうとすると、もの凄い勢いで逃げる、ただ先住犬のクレイマーにはなついた。

 困り果てたのは、リードを付けられないので散歩に連れ出せないことだった。犬のくせして散歩に出ない引きこもり犬。保健所で付けてもらったチトーの首輪に、いかにしてリードを取り付けるかが心痛の種になっていく。

 不用意に体ごと抱きかかえると、集合住宅中に響き渡る勢いでぎゃん泣きし、体を固まらせて動かなくなる。目は開いているが、なにも見ていない。

 その目は伊藤さんの記憶をつついた。「昔テレビで見た、ライオンに捕まったガゼルが、こんな目をしていた。いやもっと近いところで見た記憶がある」「うちの娘だ。10歳でアメリカに連れていった後、長い間適応できなかった」。

 学校の先生から電話があり、2時間かけてキャンプ場に着くと、そこで娘が固まっていたこともある。「こんなふうに固まって、その目が、こんなふうに、何も見ていなかったのを、母は見ていた」。あの目は二度と見たくない。

 チトーは犬用マットも猫ぶとんも毛布もタオルケットもスリッパもラグ、すべて粉々に噛み砕いた。そのうち経血を滴らせるようになり、クレイマーと後尾ごっこをする。リード装着問題に加え、去勢問題も浮上する。

 

「私は、チトーが死ぬまで、死ねません」

 と書いていると、まるでチトーの世話に明け暮れているかのようだが、伊藤教授は忙しい。授業で上京しなければならないし、コンビニで買ったかき揚げ丼を食べてお腹もくだせば、コロナワクチン接種の副反応で発熱もする。2022年はドイツの研究機関の招聘で三カ月間滞在する予定があった。

 本書で印象的なのは、飼い主がいないとき、動物たちに多くの手がさしのべられることである。愛犬教室の先生、同じ集合住宅の住人、泊まり込みでシッターを引き受けてくれる早稲田や熊本の大学生達。動物の世話を媒介に、ある種の助け合いコミュニティが形成されていくさまは、読んでいてすがすがしい。

「比呂美かーさん」が家に戻って来たときの、クレイマーのすがりつくようなむせび泣き、猫たちのはしゃぎよう、チトーのお帰り立ち舞など、擬人化を極力押さえた動きの描写はさすが詩人のもの。愛おしくてたまらなくなる。

 2023年は4回のアメリカ行。その中の一回でカリフォルニアに回り、コロナ禍で熊本に連れてこられなかった16歳のパピヨン犬ニコに会いに行く。ニコとの再会は感動的だ。老犬は目もあまり見えないはずなのに、伊藤さんが2メートルくらいに近づくと表情をぱっと輝かせ、手を差し出すとぴったりしがみついてくる。ニコはこの年の秋、長女一家に連れられて熊本へ。伊藤さんの6年越しの悲願達成だった。

 ニコが加わって「比呂美おかーさん+5匹の犬猫」になったいま、伊藤さんの頭を悩ませるのは自分になにかあったときだ。そもそも、なぜ子供達も独立した未亡人に、こんな多頭飼いの生活が必要なのか。

 伊藤さんはこう書く。独りになって、ああ、ラクだと思ったのもつかの間、「舌の根も乾かぬうちに世話の必要なものたちをわざわざ集めて、浮世の義理みたいなものを人工的につくり上げて、情で自分をがんじがらめにして、必死で世話しているのはなぜか。自分が、この浮世にどうにかこうにかひっかかって、生き抜くためなんではないか」

 人間は怖いもの、怖いときはじっと固まりなさい。森のおかあさんにそう教わったのだろうか。関係の質はだんだん濃くなるものの、根本の所では母の教えに忠実なチトーの振る舞いを見ていると、出来の悪い子ほど可愛いという人間社会の俗諺を思いだしてしまう。

 最後に残念なお知らせを。小成功や中成功、及び挫折を経て、チトーのリード装着にはまだ成功していない。伊藤宣言が力強い。「私は、チトーが死ぬまで、死ねません」

幼き日の犬との揺るぎない関係と、恋人との揺らぐ関係とが響き合う

『雷と走る』
著者:千早 茜
出版社:河出書房新社
発売日:2024年8月22日
価格:1,540円(税込)


【概要】

幼い頃海外で暮らしていたまどかは、番犬用の仔犬としてローデシアン・リッジバックの「虎」と出会った。唯一無二の相棒だったが、一家は帰国にあたり、犬を連れて行かない決断をして--。

 

 もう一冊の『雷と走る』の主人公「まどか」は、小学校に入学したばかりの年に、父の海外赴任で両親や弟とともにアフリカに渡る。ウィキペディアには、千早さんの父上は獣医師で、小学校1年生から4年生までザンビアのアメリカンスクールに通っていたとあるから、小説の中の素材は、ほぼ実録と思っていいのかもしれない。

 まどかの一家に用意されたのは、高級住宅街にある広大な屋敷だった、刑務所じみた陰気な塀に囲まれていたが、塀の内側は緑の蔦に覆われ、赤紫色のブーゲンビリアが咲きほこり、プールや果樹園があった、

 父に連れられ、街はずれの集落に、ガードドッグ(番犬)を求めに行く。痩せた母犬の回りで10匹近くの仔犬がころころ転げ回っていた。

 父は賢そうな仔犬を、弟の和は好奇心旺盛で活発そうな2匹を選んだ。敷地の広大さを考えると「もう一匹いてもいいね」と案内人の山川さんが言ったとき、まどかは母犬の向こうでうずくまっていた仔犬に目を留める。

 黒と茶のまだら模様のせいで石に見間違えていたその仔犬は、一番小さく、顔はしわしわ、目はしょぼしょぼ。「あの子弱ってるの?」と山川さんに聞くと、「これだけきょうだいが多いと餌も取り合いですからね」と言う。

 まどかはその子を選んだ。山川さんに「良いことをしましたね」と褒められる。もらい手がつかない犬はお金にならないから捨てられると言う。「番犬の素質がない犬は要りません」、ここは「役に立たない犬を飼う余裕なんてない人ばっかりなんです」

 塀の外に広がるひび割れた大地、使用人が4人いる塀の内側の楽園。そんな対比を捉えるにはまだ、まどかは幼なすぎた。捨てられるなんて可哀想と呟く。

 

雷のような逆毛を背負った「戦士の魂を持つ生き物」

 仔犬たちはローデシアン・リッジバックという犬種だった。ローデシア原産の猟犬と、ヨーロッパからの入植者が連れてきた大型警備犬のかけあわせで、背骨にそって逆毛があるのがこの犬種の特徴だった。

 現地の人々は「背中に蛇を負う犬」と呼ぶ。ライオン狩りに使われるほど勇敢で粘り強く、体力もある。「戦士の魂を持つ生き物」だと。

 まどかは餌を食べるときもきょうだい犬に押しのけられていた仔犬に、ライオンに匹敵するほど強くなってほしいとの願いをこめて「虎」と名付ける。

 虎は1年も経つと四肢がすらりと伸び、どの犬より肩の位置が高くなり、まだら模様はくっきりとして、名前の通り虎のようになる。

 まどかが庭にいる間、虎は常に視界に入るところにいた。プールで遊んでいるときは木陰で様子を見ていて、家の中に入ると、テラスでずっと出てくるのを待っている。客人があると、まどかをガードするように油断なく監視した。まどかに贈り物をするように、芝生に寝転んで本を読んでいるまどかの耳元に、腹から内臓をこぼれさせた蜥蜴をぽとりと落とし、尻尾を振ったりもする。

 道具を持った庭師が通りかかると警戒心から背骨の毛を逆立たせ、まどかは毛の立つその様を、先だってマンゴーの木に落ちて一瞬のうちに焼いた雷のようだと思う。

 食餌競争でも最劣位にいた虎が、うちなる野生に目覚めていく変貌ぶりが鮮烈だ。野生とは、なんとおかしがたく、まがまがしく、手の付けられない生命の奔流であることか。

 父が真っ先に選んだメスの「静」が出産し、中の数匹が虎毛だったことから虎の父親説が浮上するが、何と言っても圧倒的なのは、近所のアメリカンスクールの日本人同級生の家で虎が巻き起こした事件である。

 決して自分達で外出してはいけないと禁止されていたにもかかわらす、まどかと弟の和は抜け出して遊びに行く。門番の不手際もあって、虎ともう一匹が付いてきた。友人宅に入るやいなや、虎はその家の番犬ドーベルマンの喉に食らいつき、阿鼻叫喚の騒ぎを巻き起こす。そして2メートルはあるかと思われる塀を、やすやすとジャンプして逃げ去るのだ。

 夜中に侵入者があったときもそうだった。まどかは侵入者から虎を抱くが、虎は「雷が空を切り裂くように、背中の毛をばりばりと」立たせ、まどかを振り切って暗がりに飛び出していく。追いかけたまどかが見たのは、服も皮膚もずたずたに引き裂かれ、血まみれのまま震えて地面にうずくまる男の姿だった。

 野生のたくましさ、おぞましさ、美しさ……。

 帰国が決まったとき、犬たちは連れて帰れないという父に、まどかは抗議する。父は言う。じゃあまどかが決めていい。そのかわり「なにかあったときは」「おまえが責任を負いなさい」。虎の野生を日本で飼い馴らすことは無理だと分かった。まどかは10歳にして断念を知る。

犬とは心友になれるのに、どうして男とはなれないのだろう

 この小説の構造上の特徴は、まどかと虎の揺るぎない関係が、32歳になったまどかと恋人の揺らぐ関係と響き合うことだろう。回想部分と現在がメビウスの帯のようにシームレスに繋がり、確信のある愛と、確信のない愛の対比を浮かび上がらせる。

 恋人の博人とは、自然に子供ができるようなことがあったら籍を入れようという話になっていた。しかしまどかはピルを服用していた。博人にそれを見とがめられる。自分の体を自分で管理してどうしていけないのと思うと同時に、なぜピルを飲んでいるのかという問いに言葉で答えなくては、自分の感じていることはないことになってしまう、とも思う。

 まどかが絞り出した言葉はこうだった。「自信がなくて」。博人は問い返す。なんの自信?「自分以外の誰かを守り抜く自信」。子供をつくりたくないという気持ちをパラフレーズすれば、そんな言葉になった。

 ピルに傷つき、頭を冷やし、反省の弁を持って再びやってくる博人の“寛容さ”は、恋愛における男性の善意と鈍感さのよき見本のようでもある。博人の優しさはどこかズレている。まどかはそれが分かった上で、この恋愛を続けようとしている。

 人間同士の愛とはこういうものだとの諦念があるのだろうか。消極的な恋愛しかしてこなかったまどかは、愛がどんなものかわからない。わかるのは虎こそが「私が所有した唯一の愛だった」ということだけだ。

 犬とは心友になれるのに、どうして男とはなれないのだろう。前者が濁りのない忠誠心に基づく絶対愛であるのに対し、後者は相手の感情や反応によって土台が揺らぐ相対愛だからではないか。そんなことを思う。

 

※「概要」は出版社公式サイトほかから抜粋。

筆者:温水 ゆかり