平安神宮(写真:hanadekapapa / PIXTA)

NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたることになりそうだ。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第33回は、宮中での生活に嫌気がさした紫式部が取った行動を紹介する。

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出仕後すぐに実家に引きこもってしまう

「石の上にも三年」なんて諺を持ち出したら、化石扱いされるかもしれない。

限りのある人生だ。自分の意にそぐわない環境ならば、いち早く脱して、自分らしく生きられる道を模索したほうがよい……どちらかというと、そうした考えが支持される時代になった。

そんな空気のなかで、何かと嫌なことから逃避しがちな文豪たちを取り上げて、『逃げまくった文豪たち 嫌なことがあったら逃げたらいいよ』という本を書いたりもしたが、紫式部もまた慣れない宮仕えに嫌気がさすと、早々に退散している。

紫式部が、藤原道長の娘で、一条天皇の中宮である彰子のもとに出仕したのは、寛弘2(1005)年、あるいは、寛弘3(1006)年頃だとされている。

出仕して早々に憂鬱になってしまったようだ。「初めて内裏わたりを見るにも、物のあはれなれば」、つまり「初めて内裏で生活をするにあたって、物思いに耽ることがあり」という詞書のあとに、こんな和歌を詠んでいる。

「身のうさは 心のうちに したひきて いま九重に 思ひみだるる」

(わが身のつらい思いがいつまでも心の中についてきて、いま宮中で心が幾重にも思い乱れることだ)

続いて、「まだ、いとうひうひしきさまにて、古里にかへりて後」とあり、宮仕えに慣れないままに実家にいったん帰ったらしい。

そんなときに「ほのかに語らひける人に」、つまり、宮仕え中に少し会話をした人に対して、こんな和歌を送っている。

「閉ぢたりし 岩間の氷 うち解けば を絶えの水も 影見えじやは」

岩間を閉ざした氷が解ければ水に影が映るように、私に心を開いてくれない方々が打ち解けてくれれば、御所にお伺いしないはずがありません――。そんな意味になる。慣れない宮仕えでよほど嫌なことがあったのだろう。

出仕を催促されても簡単には応じなかった

元旦から数日が経つと、中宮から「春の祝歌を贈るように」と、式部のもとに要請があった。実家に退散してから、まだ出仕していなかった式部は、自分の家から次のような和歌を贈っている。

「み吉野は 春のけしきに かすめども 結ぼほれたる 雪の下草」

(吉野は春の景色にかすんでおりますが、雪に覆われて地にはりつく下草のように沈んだ気持ちでいます)


紫式部の歌にも登場する奈良県・吉野山(写真:mono / PIXTA)

ずいぶんとお祝いムードからはかけ離れた和歌を贈ったものだが、春が来てもまだ出仕する気にはなれない、自分の心情が反映されている。

3月になっても、依然として宮中に顔を出さないでいると、こんな歌が贈られてきた。

「憂きことを 思ひ乱れて 青柳の いとひさしくも なりにけるかな」

(嫌なことに思い悩まれて、里下がりが青柳のように長くなりましたね)

実家に帰ってから、もうずいぶん時が経ってしまっていますね……と、式部に宮仕えを促している。

それに対して、式部は「つれづれと ながめふる日は 青柳の いとど憂き世に 乱れてぞふる」と返答。

することもなく、長雨の降る今日のような日は物思いに耽って、いっそう辛くなる世の中に、柳の枝のように思い乱れて過ごしております……と、精神状態はますますよくないと伝えている。

さすがに度が過ぎているんじゃないかと、式部に「かばかり、思ひくしぬべき身を、いといたうも、上ずめくかな(ずいぶんと貴婦人ぶってるのね)」と批判してきた人もいたが、それでも式部の心は動かない。こんな和歌を詠んでいる。

「わりなしや 人こそ人と いはざらめ みづから身をや 思ひすつべき」

仕方がないことだ、あの人たちは私を世間並みの人だとは言わないだろうが、みずから我が身を見捨てることはできない――。

実家に逃げ込んだ状況から、頑として動かなかった式部。内田百輭の「イヤダカラ、イヤダ」を思わせる、この意思の強さがあったからこそ、式部は未曽有の長編物語を書き続けることができたのだろう。

「私は何もわからないです」作戦

それでも秋頃までには、式部は再び出仕するようになった。数カ月も実家に引きこもっていたことになるが、その間に自分の身の振り方を考えたらしい。

『紫式部日記』には、多数の女房たちと暮らしていれば言いたいこともあるけれども、「心得まじき人には、言ひて益なかるべし」つまり、「言ってもわからない人に言っても、何の得もない」と達観した胸中を明かしている。

そして「ほけ痴れたる人(ぼけて何もわからない人)」になりきったと、バカなフリをして周囲を欺くことに決めたのだという。

その効果はテキメンで、皆からは「かうは推しはからざりき(あなたがこんな人だとは思いませんでした)」といい意味で言われたようだ。

以前は式部に対して、みんなでこんなふうに思い込んでいたと打ち明けている。

「ひどく風流を気取っていて、近づきがたくてよそよそしい態度で、物語好きで由緒ありげに見せ、何かというと歌を詠み、人を人とも思わず、憎らしい顔で見下す人に違いない」

これには式部も「そこまで警戒されていたのか……」と内心、愕然としたことだろう。こんな好奇な視線に晒されたならば、式部がいきなり出仕できなくなったのも、無理はない。

やむなく「キャラ変」したことについては「人にかうおいらけものと見落とされにけるとは(人からこんなふうにおっとりとした性格だ、と見下されるようになったか)」と、式部としては忸怩たる思いもあった。

それでも「ただこれぞわが心(これこそが自分の本当の顔なのだ)」と言い聞かせることにしたという。復帰の裏には、並々ならぬ努力があった。

だが、そんな式部の「おっとりキャンペーン」を邪魔する人物もいた。

以前から式部を目の敵にしていたという左衛門の内侍は、『源氏物語』を書いている式部には『日本書紀』の教養があるんだと、殿上人にわざと言いふらして「日本書紀講師の女房様」というあだ名をつけて、イジっていたという。

屏風に書いてある漢文も読めないフリをした

本当に悪気があって言ったかどうかは判然としないが、少なくとも式部は迷惑だったらしい。「一」という漢字の横棒さえ引くことを控えて、屏風に書かれた漢文も読めないフリをしていたというから、徹底している。

けれども、中宮の彰子は、教養のある一条天皇に振り向いてもらおうと、式部から漢文を教えてもらいたがったようだ。式部に唐の詩人・白居易の『白氏文集』を読ませたりもしていた。

彰子のそんな思いは式部も無碍にはできなかったのだろう。人目に付かないところで、彰子にこっそりと『楽府』(新楽府)の2巻をテキストに講義を行うようになった。

式部からすれば、周囲にバレないかとヒヤヒヤしたに違いない。だが、同時に、自分を偽らなくても受け入れられる空間は心地よくもあったはず。

「漢文を学びたい」という彰子と対峙するときだけは、式部は自分らしくいられたのではないだろうか。
 

【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
『藤原道長「御堂関白記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫)
『藤原行成「権記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
源顕兼編、伊東玉美訳『古事談』 (ちくま学芸文庫)
桑原博史解説『新潮日本古典集成〈新装版〉 無名草子』 (新潮社)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
繁田信一『殴り合う貴族たち』(柏書房)
倉本一宏『藤原伊周・隆家』(ミネルヴァ書房)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)

(真山 知幸 : 著述家)