「モンスター2世」19歳・坂井優太 井上尚弥の言葉で覚悟を決めた父の二人三脚の世界王者への道
断固たる決意でプロボクシングの道を選んだ19歳の坂井優太 photo by Yamaguchi Hiroaki
プロボクサー・坂井優太インタビュー後編
周囲の期待どおり、バンタム級6回戦で圧巻の2回TKOで6月25日にプロデビューを飾った坂井優太。世界4団体スーパーバンタム級統一王者の井上尚弥が所属する大橋ボクシングジムの大型新人である。アマ戦績は52戦50勝(7RSC)2敗。高校6冠、世界ユース選手権優勝の実績を引っ提げ、鳴り物入りでプロ入り。『モンスター2世』と呼ばれる19歳の才能は、父親との二人三脚で育まれ、地元・兵庫の西宮香風高校で磨かれ始めていく。
前編「坂井優太が『打たせず打つ』のスタイルを確立させた少年時代」〉〉〉
【反骨心と謙虚さで世界ユース制覇】『モンスター2世』と呼ばれる3年前の話である。2021年、西宮香風高校に入学した1年生の坂井優太はインターハイ予選に向けて、粛々と準備を進めていた。周囲の前評判は、決して芳しいものではなかったという。
「全国大会ではなく、『地方大会で優勝できない』と言われていましたから」
ほとんどの公式戦が中止となった空白の1年。まだ何者でもなかったサウスポーはコロナ禍の自粛期間中、父親の伸克さんと地道に練習を重ね、大きく成長していた。近畿大会のバンタム級で優勝を飾ると、勢いそのままに全国制覇。地元のメディアにも取り上げられ、一躍脚光を浴びた。原動力となったのは反骨心である。
「いつも『あいつは弱い』と言われてきたので、見返してやるぞという思いはめちゃくちゃありました。それが僕の原点と言ってもいいくらいです」
幼少期から二人三脚で歩んできた父親とのトレーニングは高校でも継続し、1年時、2年時と夏のインターハイで2連覇を達成。国内のバンタム級では敵なし。ただ、2年時に2022年世界ユース選手権(スペイン・アリカンテ)54kg級への出場が決まると、また雑音が耳に入ってきた。
「坂井は外国人選手には勝てない」
厳しい声が聞こえてくるたびに「必ず乗り越えてやる」と自らに言い聞かせ、練習に打ち込んだ。そして、迎えた世界ユース選手権。父親には「ここで勝てば、人生が変わるぞ」とハッパをかけられ、海外の実力者たちが集まる世界大会で見事に金メダルを獲得。日本ボクシング史上3人目の快挙を成し遂げた。それまでは目の前の相手に勝つことだけを考えてきたが、大きな目標ができたという。
「夢はオリンピックの金メダルでした。世界ユースで優勝した時に、僕はアマチュアのほうが勝てる確率が高いと思ったので。あの時点では、プロへの転向はまったく考えていなかったんです」
かつては「弱い」と揶揄された男も、気づけば世代のトップランナー。圧倒的な結果を残して周囲を見返すことができたものの、謙虚さを忘れることはなかった。
「勝ち続ければ、自分は強いんだ、と思い込んでしまいますが、慢心が一番ダメ。たとえ僕よりも強かった選手を追い抜いたとしても、あえて何も言わないです。それが人間的にも大事なのかなと。それに『俺だったら勝てる』という思いが芽生えると、父がすぐに気づきますから。『そんな気持ちでいると負けてしまうぞ』って。やっぱり、わかるんですよね」
【井上尚弥からの言葉で覚悟を決めた】
坂井は1年前に井上尚弥からもらったグローブをずっと使い続けている
地に足をつけトップアマとして順調なキャリアを歩んでいた高校3年の夏前だった。思いもよらない人から声をかけられる。世界4団体統一王者の井上尚弥が所属する大橋ジムの大橋秀行会長である。いきなり具体的なオファーをもらったわけではない。最初は「今度、練習に来てみてください」という程度のもの。坂井もせっかくの申し出を無下に断らず、7月から9月にかけて兵庫から横浜のジムまで足を運んだという。
「その時、(井上)尚弥さんと一緒に練習させてもらったんです。僕がこれまで一度も感じたことのない空気感、雰囲気がありました。集中力が違いました。プロもいいかなと思い始めて、僕が迷っていると、尚弥さんから言われました。『覚悟を持って来ることができるのであれば来ればいい。もしも覚悟がないのであれば、やめたほうがいいよ』と。あの言葉を聞いて、プロに転向することを決めました」
坂井の覚悟とは言わずもがな。世界チャンピオンになることだ。
「そこは絶対です。そこにたどり着かないと、成功とは言えません」
当然、幼い頃からキャリアをともに歩んできた父親にも、プロ転向への意思を伝えた。
「父からは『まず1週間は考えろ』と言われました。人生を懸けることなので、しっかり時間をかけて答えを出しなさいと。その場ではうなずきましたが、僕の心はすでに決まっていました」
坂井のプロ入りは、父親の人生も左右することだった。伸克さんは父親でもあり、何があっても変わらず信頼を寄せてきたトレーナー。アマチュアで結果を残し続けていたこともあり、その関係を変えたくはなかった。
「僕はお願いする立場でした。ふたりでここまでやってきたので、プロでも選手とトレーナーとして一緒にやりたいって。僕が生半可な気持ちであれば、父の人生も狂ってしまいます。いろいろなものを背負って、プロ転向を決断しました。だから、僕は絶対に成功しないといけないんです。父親も『成功させる』と言ってくれているので、その思いにも応えたい」
高校卒業後は父子で上京し、ふたり暮らし。自営業の伸克さんは週4日、横浜のジムで息子のトレーナーを務め、残りの3日は兵庫に戻って仕事をこなす日々だ。いまも毎朝、公園でトレーニングに付き合い、夕方からはジムで指導している。ただ、基本的にミットを持つのは元ロンドン五輪代表の鈴木康弘トレーナー。静かに腕組みしながら息子のパンチと動きをチェックし、しばらくすると、別の選手のトレーニングにも目を向ける。
「私は午前中からずっと一緒ですから。ほかのトレーナーさんにも見てもらえれば、吸収できるものもまた違います。なるべく私の色に染まらないようにしたい。ミットの時間は、私自身もほかの選手たちを見て勉強しているんです。50歳を過ぎて体力的にしんどいですけど、一緒に新しいチャレンジできるのは幸せなこと」(父・伸克さん)
【父・伸克さんへの感謝と井上父子への憧憬】
父・伸克さん(右)との絆は、深いものがある photo by Yamaguchi Hiroaki
伸克さんは練習方法を独学で学び、英才教育を施したわけではない。むしろ、ボクシングを介して、息子とコミュニケーションを取ってきた。当初はオリンピアンを育成するつもりもなければ、ましてプロボクサーに育て上げるつもりもなかったという。
「ボクシングは教材のひとつでした。人間形成の一貫です。試合に勝つこと、負けることで学べることもありますから。僕が勧めたことをいまも続けているので、息子に必要とされるうちは付き合っていきたいですね」(父・伸克さん)
父の思いは、息子もひしひしと感じている。父子鷹の絆は強い。2歳の時に両親が離婚し、男手ひとつで育てられてきたのだ。子どもはひとりではない。3人姉弟。父は仕事を終えると、台所に立ち、栄養バランスを考えながら料理もつくってくれた。幸先よくプロキャリアをスタートさせた坂井は、昔を振り返れば、感謝しかないという。
「父ひとりで子ども3人を育てるのは大変だったと思います。普通の家のように愛情を注ぐのは難しかったかもしれないけど、ボクシングを通じて、父から多くのことを学びました。一緒に悔しい思いをしたし、うれしい思いもしてきたので。お互いが信じていれば、父子鷹でも問題ない。言葉では説明できない信頼関係がありますから」
理想の父子鷹は、間近で見ている。5月6日、熱狂の渦に包まれた東京ドームで井上尚弥と父の真吾さんがリング上で抱き合って喜ぶ姿には胸が熱くなった。
「僕らもあんなふうに成功をつかみたいなと思いました」
井上尚弥はまだ雲の上の存在ではあるが、いつまでもそのままでいるつもりはない。坂井はまっすぐと前を向き、はっきり言う。
「絶対に超えていきたい。超えられるかどうかわかりませんが、プロとして、その気持ちは持っていないとダメだと思っています」
野心を隠さない19歳の言葉には、力がこもる。1年前に井上から譲り受けた黒いグローブはすっかり使い込まれ、そろそろ替えどきのようだ。「これで、いつも練習しているので」とはにかんでいた。モンスターに、ただ憧れているだけではない。坂井親子の大きな挑戦は、まだ始まったばかりだ。
(終わり)
【Profile】坂井優太(さかい・ゆうた)/2005年5月27日生まれ、兵庫県出身。身長173cm。幼少期から父・伸克さんの手ほどきを受けながら独学でボクシングを始め、西宮香風高に入学すると1年目から2年連続インターハイ制覇など高校6冠、2年時には世界ユース選手権優勝を果し、トップアマとしての地位を築く。大橋ジムからの誘いをきっかけに、プロ入りを決断。2024年6月25日に2回TKOでプロデビューを果たした。
次戦は10月17日(木)、後楽園ホールにて「Lemino BOXING PHOENIX BATLLE 123」8回戦vs.対戦相手未定。