【夏の甲子園】大谷翔平、菊池雄星を育てた指揮官も認める花巻東・藤原凛人のポテンシャル
昨年、花巻東の佐々木麟太郎(スタンフォード大進学)の取材に行くたびに、佐々木洋監督や流石裕之部長が「すごいポテンシャルを持っている選手なんですよ」と褒めていた2年生がいた。
藤原凛人(りんと)。身長183センチ、体重80キロ、左投左打。投手としても打者としても潜在能力が高い原石だという。
花巻東を巣立った顔ぶれを思えば、「すごいポテンシャル」の期待は否が応でも高まってしまう。それ以来、藤原の動向を注視するようになった。
ところが、藤原は故障が相次ぎ、思うように実績を挙げられずにいた。高校最後の夏は岩手大会を制して甲子園に出場し、「5番・ライト」で先発出場。だが、藤原にとっての甲子園デビューは苦いものになってしまう。
今後は投手としてプロを目指すと語った花巻東・藤原凛人 photo by Ohtomo Yoshiyuki
1回裏に迎えた二死一、二塁のチャンスでは、空振り三振。その後も藤原は精彩を欠き、3打席連続三振を喫する。最終打席は5点ビハインドの9回裏二死無走者で回ってきた。藤原はボールを強く弾き返したものの、打球はセカンドの守備範囲内。ヘッドスライディングで藤原の高校最後の夏は幕を下ろした。
試合後、会見場にやってきた花巻東の選手たちのなかで、藤原は涙も見せなかった。天井の一点を見つめ、何か物思いにふけっているようだった。
声をかけ、どんなことを考えていたのか聞いてみた。藤原は真っすぐにこちらを見つめ、丁寧に答えてくれた。
「自分は県大会でチームに迷惑をかけて、甲子園に連れてきてもらった立場なのでなんとか貢献したかったんです。でも、最後まで迷惑をかけてしまって、本当に申し訳ない気持ちで......」
みるみるうちに声が震え、大きな瞳は真っ赤になっていった。
高校最後の夏も藤原は万全にはほど遠い状態だった。岩手大会準決勝を前に肺炎にかかり、決勝後には入院している。なんとか甲子園には間に合ったが、佐々木監督は「本調子じゃなかったんでしょうね」と藤原をかばった。
藤原は花巻市で生まれ育った、地元中の地元の選手である。藤原にとって花巻東という高校は特別な場所だった。
「小さい頃、犬の散歩で野球部のグラウンドの近くを通っていました。グラウンドは活気があって、見ていてワクワクする憧れの高校でした」
将来は菊池雄星(アストロズ)のような大投手になりたい。そんな思いを抱いて、藤原は花巻東の門を叩いている。
同学年には今夏に最速150キロを計測した速球派右腕の小松龍一や、ゲームメイク能力が高い技巧派左腕の葛西陸がいた。だが、佐々木監督は藤原を高く評価していた。
「将来性は藤原が一番あると思います。この代の柱になると思っていました」
【キラキラした高校生活ではなかった】だが、前述のとおり相次ぐ故障もあって、藤原は高校生活のなかで豊かな才能を開花させることができなかった。藤原は高校野球生活を振り返り、こう語った。
「こういう形で終わって、監督さんや仲間たちに申し訳ないです。自分に甘さがあったと感じます。これを糧にするしかないなと」
花巻東での時間はどんなものだったのか。そう聞くと、藤原はこう答えた。
「3年間うまくいかなくて、自分が高校に入った時に思い描いていたキラキラした高校生活ではなかったんですけど......。でも、花巻東でいろんな経験をさせてもらって、人間的に成長させてもらいました」
今後は大学に進学して、野球を続ける予定だ。これからは投手として本格的にプロを目指していくという。
「まだ体をうまく使って投げられていないので、そこを磨いていけば出力は上がってくると思います。いつかは雄星さんみたいに、クロスファイアーでバッターを差せるようなピッチャーになりたいです」
試合中、甲子園のマウンドに立つことはかなわなかった。それでも、公式練習でマウンドを踏みしめ、ボールを投げることができたという。
「マウンドに立った時、周りがパーッと開けて、あらためて甲子園は広いなと感じました。自分の投げたボールをキャッチャーが捕った時、『パン!』という音が響いて、とにかく気持ちがよかったですね」
消化不良の高校生活と言ってしまえば、それまでかもしれない。だが、のちに「必要な3年間だった」と振り返る時間になるはずだ。
偉大な先例もある。今季ルーキーながら19ホールドと活躍する西舘勇陽(巨人)は、高校3年夏の甲子園は打ち込まれて初戦敗退を味わっている。その後、西舘は中央大での4年間を経て、ドラフト1位指名を勝ち取るほどの投手に成長した。
最後に佐々木監督は、思いを込めてこんなメッセージを送った。
「藤原はここがゴールの選手じゃないことだけは間違いありません。この先、まだまだ可能性を秘めている選手ですから、大学に行っても期待し続けたいですね」
野手として三振、三振、三振、ニゴロ。
それは黒歴史ではない。いつか「藤原凛人の伝説」として、2024年の夏が語られる日が来る可能性は十分にある。