微笑みの鬼軍曹〜関根潤三伝
証言者:若菜喜晴(前編)


83年のシーズン途中、アメリカから帰国し大洋に入団した若菜嘉晴 photo by Sankei Visual

【急転直下でアメリカから帰国】

 1983(昭和58)年6月──。若菜嘉晴はアメリカにいた。前年オフ、彼の私生活を問題視した阪神タイガースは若菜の解雇を決めた。その後、メッツ傘下3Aのタイドウォーター・タイズに入団するが、監督を務める元巨人のデービー・ジョンソンから、若手育成の指導役を任され、83年シーズンはコーチ兼任としての日々を送っていた。

 この時、関根潤三は56歳。横浜大洋ホエールズ監督に就任して2年目のシーズンを過ごしていた。この年の大洋は、捕手の人材難に苦しんでいた。プロ3年目、24歳の市川和正への期待は大きかったが、正捕手となるにはまだ力不足で、ベテランの辻恭彦、加藤俊夫、福嶋久晃を起用していたものの、若手捕手の育成は急務だった。そんな時のことである。

「タイガースを辞めてアメリカにいた時、阪神の球団代表だった岡崎(義人)さんから電話をもらって、『大洋さんから話があるんだけど』と言われました。そして、そのすぐあとに深澤さんから電話がかかってきたんです......」

 若菜が語る「深澤さん」とは、ニッポン放送のアナウンサー・深澤弘である。

「......僕もよく理解していないんですけど、深澤さんのいるところには長嶋(茂雄)さんがいる。この時の大洋は関根さんが監督だったけど、『長嶋監督までのつなぎだ』という見方をされていたし、実際にそうだったようです。当時の大洋はキャッチャーの高齢化が問題となっていて、オーナー、関根監督、そして長嶋さんと深澤さんとで、『若菜を獲得したらどうだろう?』という話になり、その時に長嶋さんが、『彼はいいキャッチャーだ』と勧めてくれたそうです。それで、6月の終わりに帰国することになりました」

 関根の自著『若いヤツの育て方』(日本実業出版社)によると、監督初年度となる82年シーズン。阪神との一戦において、「若菜のおかげで負けた試合がずいぶんあった」と感じていたという。この本には、阪神時代の若菜についてこんな一節がある。

 こちらの手のうちを読むのが実に上手な男で、何度作戦を見破られたかわからない。

 それも勝負どころの肝心な作戦をことごとく潰された。若菜のおかげで負けた試合がずいぶんあったに違いない。私にとって彼は、まさに「小憎らしいヤツ」だった。

 チーム事情を考慮すると、当時29歳の若菜ほどの適任はいなかった。関根にとって、若菜は喉から手が出るほどの存在だったのだ。

【移籍後、不動のレギュラー捕手に】

 さらに、前掲書からの引用を続けたい。若菜の獲得に当たって、次期監督候補と目されていた長嶋が、どのような役割を果たしたかについての言及である。

 私は、球団と交渉をもつかたわら、長島茂雄君にも状況を説明しておいた。この時期、長嶋君の大洋入りはほぼ決まりかけていたからだ。
「今度、若菜を獲ることにしたよ」
「彼はいいキャッチャーですから、絶対に戦力になりますよ」
 長嶋君はそういって、我がことのように喜んでくれた(原文ママ)。

 こうして83年7月、若菜の大洋入りが決まり、ここから「監督と選手」として、関根との関係が始まることになったのである。

「当時の大洋は、非常に和気あいあいとしている雰囲気のいいチームでした。山下大輔さん、高木由一さんが率先して僕のことを受け入れてくれて、すぐに溶け込むことができました。それは『関根さんがつくり出したムードなんだろう』、そんな感じがしましたね。すごく雰囲気のいいチームだったけど、逆に言えば、戦う集団ではなく仲良し集団で、『だから勝てないんだ』ということなんでしょうけどね(苦笑)」

 投手陣の軸であり、精神的支柱でもあった遠藤一彦、斉藤明夫(=齊藤明雄)とは公私ともに濃密な時間を過ごした。「強肩強打のキャッチャー」として期待されて入団し、着々とチーム内における居場所を築いていた。そこには関根の存在も大きかったという。

「関根さんはある程度は選手に任せてくれるスタンスでした。ピッチャーが打たれ始めると、監督がベンチから出てくるんです。でも、僕も斉藤も目も合わせずに知らん顔をする。すると、マウンドに来ることなく、そのままベンチに戻っていくんです。『あいつらにはあいつらなりに考えていることがあるんだろう』と考えてくれる監督でした」

 投手交代のタイミングに関しても、若菜はしばしば相談されたという。

「関根さんからは何度も、『どうする、代えどきか?』って聞かれました。いろいろな監督の下でプレーしてきましたけど、そんなのは関根さんだけでした。のちに僕は、ダイエーホークス時代の王(貞治)監督の下でコーチを務めますけど、王さんはすべて自分で判断していました。関根さんのように選手目線で判断するケースは珍しいですね」

【センターラインを強化したチーム】

 入団からしばらくして、若菜は理解する。なぜ、関根は自分を獲得してくれたのか? そして、関根が描いていたチームづくりとは何か? 若菜が解説する。

「関根さんはセンターラインをしっかりと固めたチームつくりをしたかったんだと思います。そのために、まずは高木豊をセカンドに抜擢した。そうすれば、山下大ちゃんとの二遊間が固まります。そして、センターには屋鋪(要)がいる。そうなると、手薄なのはキャッチャーです。市川が育つにはまだ時間がかかる。当時、僕は30歳になる頃でしたから、投手陣とも年齢が近い。経験もある。若いキャッチャーが育つまでのつなぎとして、ちょうどいい存在だったのではないでしょうか」

 そして、若菜は続ける。

「そんなチームづくりをしたうえで、長嶋さんに託したかったんだと思います」

 関根が大洋の監督を務めたのは82年から84年の3年間である。そのうち、若菜は83年途中、そして84年をともに過ごした。関根が大洋に遺したものは、一体、何だったのか? そんな質問を投げかけると、質問には答えずに若菜は言った。

「関根さんがもう少し監督を続けていたら、大洋は面白いチームになっていたと思いますよ......」

 その真意を聞いた。

「関根さんのあとに長嶋さんが監督になっていたとしたら、さらに面白かったでしょうね。ある程度、関根監督時代に戦力は整っていましたから。高木豊に加藤博一[進田4]さん、そして屋鋪要がいて、田代(富雄)もまだ若かった。関根さんの後任の近藤(貞雄)監督にもお世話になったけど、近藤さんは自分が目立つことを好むタイプでした。でも、関根さんは土台づくりの監督で、決して自分は表に出ない。関根さんがつくった土台の上に、長嶋さんが監督を務めていたら......。大洋はすごく面白いチームになっていましたよ」

 結果的に、大洋において「長嶋監督」は実現せず、近藤貞雄が関根のあとを継いだ。この間、若菜は不動のレギュラーとして試合に出続けた。ひょっとしたら、そのままアメリカで選手生命を終えていたかもしれなかった若菜に、再起のチャンスを与えてくれたのが関根だった。84年オフ、その恩人はチームを去った。若菜と関根との接点は、わずか1シーズン半で終焉を迎えたのである。

(文中敬称略)

後編につづく>>


若菜嘉晴(わかな・よしはる)/1953年12月5日、福岡県出身。柳川商から71年ドラフト4位で西鉄ライオンズに入団。 6年目の77年にレギュラーをつかむと、同年オールスターにも出場。強肩と強気なインサイドワークを武器に活躍した。 79年に田淵幸一、真弓明信らとの2対4の大型トレードで阪神に移籍。82年に自由契約となり、米マイナーリーグのコーチ兼任で在籍。83年のシーズン途中に帰国し、大洋に入団。89年に無償トレードで日本ハムに移籍。91年に現役を引退し、97年からはダイエー(現・ソフトバンク)のコーチに就任し、城島健司らと育てた。現在は解説者として活躍