1年夏の甲子園で西川遥輝は骨折しながら強行出場 放った大ファウルに末恐ろしい才能を感じた
プロ野球選手の甲子園奮戦記(14)〜西川遥輝(ヤクルト)
西川遥輝は智辯和歌山時代に4度の甲子園出場(1年夏、2年夏、3年春夏)を果たし、10試合を戦った。当時、西川の魅力に取りつかれていた私にとって、どの試合も懐かしいが、なかでも鮮烈な記憶として残っているのが2008年、西川の甲子園デビューとなった夏だ。
智辯和歌山では甲子園に4度出場した西川遥輝 photo by Sportiva
あの夏、県大会の段階からまだ見ぬ1年生のことが気になっていた。入学直後の春の和歌山大会で3試合連続を含む4本塁打。一躍"スーパー1年生"として話題になり、夏の和歌山大会での観戦を予定していた。
ところが、智辯和歌山の勝ち上がりをチェックするなかで、西川が試合に出ていないことがわかった。正確には、県大会初戦(2回戦)は出場するも、次戦までの間の打撃練習中に右手の有鈎骨を骨折。3回戦以降は出場できなかった。
チーム関係者に確認すると、智辯和歌山が甲子園に出場したとしても、夏の間の復帰は難しいだろうと言われていた。だから、甲子園初戦の済美(愛媛)との試合でベンチにその姿を確認した時も、出番があるとしても代走要員だろうと見ていた。
ところが2回戦の木更津総合(千葉)戦、西川は「9番・サード」でスタメン出場。場内のアナウンスを耳にした時、いろんなことが頭をよぎった。「劇的な回復?」「強行出場?」と。
試合後、高嶋仁監督(当時)に西川の起用について尋ねると、涼しい顔で言った。
「まだ骨は完全にひっついていないけど、私の判断ではなんとかプレーできる範囲だったんでね。足もあるし、しっかり守って、打席ではフォアボールを選んで走ってくれたらいい。そう思って使いました」
西川は期待に応え、初打席で三塁前にセーフティーバントを決め、三塁の守備も無難にこなし、チームの勝利に貢献した。ただ、打撃では明らかに右手を気にしながらもスイングが見られ、"強行出場"は明白だった。今の時代なら、ネットを中心に騒ぎになっていただろうが、高校野球を取り巻く環境も、世の中の空気も、今とはまるで違う16年前の話だ。
この夏のあと、あらためて高嶋監督にこの話題を向けた時には、少々のリップサービスも含んだ調子でこう言った。
「これまでも指が折れて試合に出た選手はおりました。それにあの子(西川)は、骨はよう折ったけど、ああ見えて、ええ根性持っとるんですよ」
繰り返すが、当時の話である。甘いマスクの裏に秘められた西川のハートの強さを感じさせるエピソードだ。
本人にも取材を重ねるなかで、何度かこの話題について詳しく聞くことがあった。
「ケガをした時は、正直、これで夏は無理って思いましたけど、甲子園で打席に立つと痛みはなかった。甲子園って、痛みを忘れさせるんですよ」
またある時には、こんなことも言っていた。
「骨折とわかった時は、お医者さんから『ここがちゃんとひっつかないと、骨盤から移植してこなあかんで』って、ちょっと脅かしっぽく言われて......それを高嶋先生も一緒に聞いていたはずなんです。でも『骨一本やったらOKや、いけるな』って(笑)。最初は自分でも『大丈夫か?』って思いましたけど、実際プレーできましたしね。元から故障に強いところはちょっと持っていたかもしれないです」
甲子園の打席では、右の手のひらにパットを当て、その上からテーピング。バットを握ると右手の小指側がグリップエンドに当たり痛みを感じたため、出っ張り部分に段差の少ない形状のバットをメーカーに協力してもらい用意した。
それでもまだ痛みがあり、最後は右手の小指と薬指をグリップエンドから外し、人差し指と中指の2本でバットを握った。
【今も脳裏に焼きついている大ファウル】その状態で、1年夏の甲子園は13打数6安打。なかでも、西川の魅力が存分に詰まっていたのが準々決勝の常葉菊川(静岡)戦だ。試合は壮絶な打撃戦の末に敗れたが、この一戦で西川は光り輝いた。
まず2回の第1打席。私を虜にしたと言ってもいい一発が始まりだった。一発と言っても、じつはファウル。しかしこのファウルが、今も鮮明に記憶している見事な打球だった。
相手右腕が投じた内角低めの球に、バットを体に巻きつけるように出し、インパクトのあとは伸びやかなフォロースルー。美しいフォームから放たれた打球は、大きな弧を描きライトスタンド中段へ......と、呆気にとられながら打球を追ったが、わずかにポールの右を通過しファウル。この華奢な体で、ケガを抱えながら、しかも1年夏の甲子園で......体のパワーではなく、技術で飛ばした西川のバッティングにひと目惚れした。
この試合、西川は"幻の一発"にとどまらず、あとの打席が見事だった。2打席目は木更津総合戦同様、絶妙なセーフティーバントを決め、2対13と敗色濃厚だった8回表の第4打席ではセンターオーバーの三塁打。右投手の力のある外角高めのストレートをバットのヘッドが立ったスイングから強烈に弾き返し、ライナーでセンターの上を超えていった。
さらにこの一打から智辯和歌山が4点を返し、めぐってきた9回の第5打席。今度は左腕のスライダーを左中間へ2打席連続の三塁打。しっかりと左腰を残し、ライナーで返したこの打球も見事だった。
試合は、智辯和歌山が8回、9回で8点を返し10対13まで追い上げたが、反撃及ばす敗戦。試合後、私の頭のなかは西川のことでいっぱいになっていた。
それからの2年、どこまで成長するのか期待していたが、順調な高校生活が待っていたわけではなかった。
2年時も6月の練習試合で、今度は左手の舟状骨を亀裂骨折。「3番・ライト」で戻ってきた2度目の甲子園もテーピングを巻き、特殊サポーターをはめながら3試合を戦い、12打数4安打。
3年時は春夏通算3試合に出場し、11打数2安打。初めて万全の体調で臨んだ3度目の夏はノーヒットに終わり、チームも初戦敗退。ここで西川の高校野球生活は終わった。
3年になってからは、NPBのスカウトと西川についての話をしたが、評価は総じて辛かった。感触としては、ドラフト中位あたりの指名が濃厚で、「伸びていない」「もっと打撃でアピールしてくれないと」と厳しい声が飛んだ。
それがドラフトでは、日本ハムが2位で指名。本人はもちろん、当時の日本ハムの関西担当スカウトまで驚いていたことを思い出す。
この指名を聞いた瞬間、私も驚いたが、あることが頭をよぎった。それは日本ハムの編成トップが、あの常葉菊川戦の活躍を目の当たりにし、最後までその力と可能性を信じたのではないかということだ。あくまで私の勝手な想像だが、西川の野球人生を左右したのではないかと思えるほど、常葉菊川戦でのバッティングは衝撃だった。
西川遥輝(にしかわ・はるき)/1992年4月16日、和歌山県生まれ。智辯和歌山では甲子園に4度出場。2010年のドラフトで日本ハムから2位で指名され入団。13年からレギュラーに定着し、14年に盗塁王のタイトルを獲得。17年は2度目の盗塁王、自身初のゴールデングラブ賞に輝いた。21年にはプロ野球史上30人目の300盗塁を達成。オフに日本ハムをノーテンダーFAとなり楽天へ移籍。23年は35試合の出場にとどまり、オフに戦力外通告を受けたが、ヤクルトが獲得を発表した