セーブ制度導入50年〜プロ野球ブルペン史
佐藤道郎が初代セーブ王に輝くまで(後編)

前編:佐藤道郎は「8時半の男」の記録を抜くためだけに登板はこちら>>

 日本のプロ野球でセーブ制度が始動するのは1974年。MLBに倣ったものだが、その起源は米球界内にはあったわけではない。すでに投手の分業化が確立していた50年代末、ひとりの救援投手の活躍をきっかけに、マスコミが独自に創り出した評価基準がセーブだった。

 マスコミとは、1886年に創刊したアメリカ最古のスポーツ専門誌『スポーティングニュース』。この権威あるメディアが1960年、"救援投手に光明を......"という主旨でセーブのルールを提唱。61年からはセーブに救援勝利を加算した数字をセーブポイントとして、MLBの両リーグ1位を最優秀救援投手として表彰している。

 こうした流れがあり、MLBの野球規則に正式採用されたのは69年で、公式記録にセーブの欄が設けられた。その頃には日本でも認知され始め、投手たちが「セーブ」と口にするようになっていた。南海(現・ソフトバンク)の抑え投手だった佐藤道郎もそのひとりで、マスコミにセーブ導入を訴えていたという。


マウンド上で話し合う佐藤道郎(写真左)と野村克也 photo by Sankei Visual

【制度導入前からセーブは認識されていた】

「もう散々言ったよ。マスコミの人、新聞記者にも。セーブっていうのをつくってくれって。アメリカにあるんなら、日本にもつくってほしいって。だってオレら、ただ働きなんやからと」

 時に72年。日本でも先にマスコミが動いた。スポーツ紙のなかで報知新聞が毎試合、独自の解釈に基づいて、セーブが与えられる投手の名前を発表する。紙面上では、Saveの頭文字の「S」で示された。実際、同年はリリーフ専任になった中日の星野仙一が「僕のような救援専門の投手は白星には恵まれないので、セーブを目標に投げていく」と言っている。

 すなわち正式に制度が導入される以前から、マスコミと選手間にセーブは存在した。それぐらい、現場ではなくてはならない記録と受け止められていた。当時、パ・リーグ記録部長の千葉功は、野球雑誌の連載で<救援投手を評価しよう>と題した記事を執筆。<救援投手が浮かばれない最たる例>として、冒頭で佐藤の「ただ働き」を取り上げている。

 72年6月21日の南海対近鉄戦。南海・先発の江本孟紀は2回までに4点の援護を得るも、5回まで投げて7安打3失点で1点差。6回から佐藤に交代すると、南海は6回裏に4点を追加する。この援護も大きく、佐藤はひとりで4イニングを1安打無失点に抑えて南海が勝利。江本は勝利投手になった半面、何もない佐藤が<あまりに気の毒ではないか>と千葉は書いている。

 そのうえで千葉は、同年、江本以前に5回で勝利投手になったケースを紹介。さらには佐藤にセーブがついた試合を示し、7月5日時点でセ・パ両リーグの<セーブを記録した投手たち>を列挙。<救援専門の投手は損な立場>として、<「セーブ」によって、救援投手を正当に評価しよう>という一文で記事を結んだ。

【3試合連続サヨナラ本塁打】

 だが翌73年のルール採用はなく、変わらず投げ続けた佐藤はリーグ最多の60試合に登板。先発は2試合でも130回1/3を投げて規定投球回に到達したが、防御率は3.18でリーグ11位。なおかつ11勝12敗とプロ入り初の負け越しとなったなか、12敗のうち3敗はありえないような抑え失敗によるものだった。3試合連続でサヨナラ本塁打を浴びたのだ。

 まず、5月30日のロッテ戦(ダブルヘッダー第2試合)で1点リードの9回裏、代打の榊親一に逆転3ラン。1日置いた6月1日、阪急(現・オリックス)戦で4対4の9回裏、福本豊にソロ。翌2日も阪急戦、ダブルヘッダー第1試合では7対7の延長11回裏、長池徳二にソロ。2試合続いた時点で、佐藤自身も起用する監督兼捕手の野村克也も、及び腰になったのではないか。

「いやもう全然。また行く気でいたよ。当然、切り替えなきゃ。野村さんには『おまえ、二度あることは三度あるから、まあ気にすんな!』って言われて。談話もね、『ミチで打たれりゃしょうがない』と。で、3試合目は延長になって、オレの出番があって打たれたわけだけど、1試合目はツーアウトから右中間にフライが上がって、イージーフライをお見合いして二塁打のあとだよ。

 2試合目の福本はホームランなんて頭にない。ノースリーになったからフォアボールもヒットも一緒だと思って投げたら、カーンって。次の日に新聞見たら、プロ入って初めてノースリーから打ったって。で、3試合目はレフトにしか飛ばない長池さんがライトポール際だから。なんかもう、取り憑いちゃったね、あの時は。どれも信じられないことだもんなぁ」

 翌4日、「ミチ、行けるか?」と野村に聞かれた佐藤は、「今日、投げたくないです」と言った。じつは行く気でいたが、「チームに申し訳ないから」という理由で辞退したという。野村の談話と言葉、佐藤の心境から、監督と抑え投手との強い信頼関係がうかがえる。

 同年からパ・リーグは前期後期制となり、南海は前期優勝。後期優勝の阪急と対戦した5試合制のプレーオフは3勝2敗で制してリーグ優勝を果たし、2勝を挙げた佐藤がMVPとなった。これは信頼関係の現われと言えるだろうし、日本シリーズでは巨人に1勝4敗も、抑えを生かしての優勝は時代に先駆けたものだった。

 そして、74年1月10日。日本野球規則委員会で投手のセーブ規則の採用を決定。2月には最多セーブ投手の表彰が決まった。同年の佐藤はプロで初めて先発がなく、3年連続でリーグ最多となる68試合に登板。7勝8敗で初めてのセーブは13を数え、初代セーブ王になった。しかも、131回2/3で規定投球回に到達し、防御率1.91で2度目のタイトルを獲得した。

「野村さんに『初代だけは獲らしてください』ってお願いしてたの。『ずっとリリーフやってたんで』と言ったら『わかった』と。ただ、その74年は13セーブですよ。当初はね、セーブがつくのは1イニングで2点差だったから。今は3点差だけどね。だから当時、3点差でいくと、やっぱり『ただ働き』って言ってたぐらいだからね。何もないなって」

 セーブ制度はできたものの、ブルペンでの準備は変わりなかった。コーチからは「打たれたらいくぞ」と言われるばかりで、結果的に無駄なボールを投げることは何度もあった。それでも、ブルペンで用意している自分が監督の安心材料になっていると思えば、文句は言えなかった。

「だから契約更改の時、当然、セーブのことは言ったけど、ブルペンで無駄ボールをどれだけ投げてるかってことも言ったし、監督がホッとするんだから安心料くださいとも言った(笑)。ただ、セーブができても、南海はAクラスに入らないとあんまり給料上げてくれなかったから」

 76年、16セーブで2度目のタイトルを獲った佐藤だったが、その年、阪神から江夏豊が加入。同年の江夏は先発中心に36試合に登板するも、6勝12敗9セーブという成績に終わった。左腕の血行障害などの故障に持病の心臓疾患もあって、翌77年5月、江夏はリリーフに転向することになる。むろん監督の野村が決めたことだったが、佐藤の胸中はどうだったのか。

「いやもう、オレは先発したくてしょうがなかったの。最多セーブ獲ってもね、給料そんなに上がらないんだもん。やっぱり当時はまだ、先発で2ケタ勝利ってのが一番で。だから監督室に呼ばれてさ、『ミチ、おまえ先発したいって言ってたよな。江夏、長いイニング投げられそうもないんで、抑えにする』って言われて、もう大喜び。で、その年、12勝したのかな」

 初代セーブ王は、あくまで先発を目指していた──。77年、38登板で20試合に先発した佐藤は12勝10敗。202回2/3を投げて防御率3.46という成績を残した。が、78年は不振に陥り、オフに大洋に移籍。再びリリーフ専任となったが、右肩を故障した80年限りで現役を引退した。

 実働11年で通算500試合登板と、短くも太い投手人生だった。引退後はロッテ、中日、近鉄で投手コーチを歴任し、2004年から06年までは中日で二軍監督を務めた。

「コーチの時も二軍監督の時も、合言葉があった。『低く低く投げたらー、ピッチャーはー、給料が高く高くなるー』っての(笑)。オレみたいに球遅くても、低く投げたら抑えられるんやから。あとは、サヨナラヒット打たれたヤツに、『何しょぼくれてんだぁ、オレは3試合連続だよ。まだ1試合だ、くよくよすんな』って言えた。それで少しは気がラクになったと思うんだよね」

(文中敬称略)