佐藤道郎は「8時半の男」の記録を抜くためだけに登板 まさかの2被本塁打も最優秀防御率のタイトル獲得
セーブ制度導入50年〜プロ野球ブルペン史
佐藤道郎が初代セーブ王に輝くまで(前編)
「8時半の男」と呼ばれて一躍スターとなり、抑え投手の草分け的な存在となった巨人の宮田征典。病気の影響により、年間通しての活躍は20勝を挙げた1965年限りだったが、現役を引退した69年オフ、宮田の後継者とも言える投手がプロ入りを果たす。11月のドラフトで南海(現・ソフトバンク)が1位指名した右腕、日本大の佐藤道郎である。
日大三高から東都大学野球の日大に進んだ佐藤は、4年時に春季・秋季連続で8勝を挙げ、秋には5完封も達成。即戦力の評価を得て入団すると、70年のシーズン、プロ1年目からリリーフを中心にリーグ最多の55試合に登板。いきなりチームトップの18勝を挙げる。そのうち16勝が救援勝利で、先発では2勝だった。
しかも、当時のリリーフは1回限定ではなく、2回、3回と投げてロングもあった。それゆえ規定投球回に達し、144回2/3を投げた佐藤は防御率1位のタイトルも獲得。当然のようにパ・リーグ新人王に輝いたのだが、宮田とはどんな関係だったのか。のちの74年にセーブ制度が導入された時、"初代セーブ王"となった佐藤に聞く。
プロ1年目、18勝を挙げ、最優秀防御率のタイトルを獲得した佐藤道郎 photo by Sankei Visual
「宮田さんは日大の先輩だったからね。1年目の最後、10月にね、野村(克也)監督が宮田さんの記録を持ち出してきたの。交代完了。試合途中から登板して、最後まで投げると付く。その日本記録を宮田さんが持っていて、今、交代完了46で並んでると。『ミチ、おまえ、あと1試合投げたら新記録だ』って言うわけ」
宮田は佐藤より8つ年上の先輩。日大で一緒にプレーしてはいないが、当然「8時半の男」は知っていて、野村に言われてその気になった。野村は同年からプレーイングマネージャー、監督兼正捕手になっていた。
じつは10月14日の阪急(現・オリックス)戦、18勝目を挙げた佐藤は、まだチームが4試合を残していたなかで「明日からオフ」と野村に言われていた。にもかかわらず、同22日、日本記録を更新すべく、ロッテとのシーズン最終戦で登板することになったのだ。
「オフって言われたんで、もう1週間ぐらいピッチングやってないわけ。だから『ひとりに投げるだけでいいですか?』って監督に聞いたら、『それはわざとらしいから1イニング投げや』って(笑)。それで8回、ポンポンと2アウトとったんだけど、アルトマンと有藤(通世)さんに連続ホームラン、打たれたのよ。グラブ叩きつけてさ。防御率のタイトル、パーになったと思って......」
試合前まで佐藤の防御率は1.94だった。次打者の山崎裕之を三振に打ちとり、南海は0対3で敗戦。交代完了の新記録はつくったが、佐藤は試合後のロッカーでもグラブを叩きつけた。それでも結局、防御率は2.048で、2位につけていた近鉄・佐々木宏一郎の2.054をわずかに上回って1位。先輩・宮田を超えたいと、記録のためだけの登板で「1点台を逃した」形だ。
「で、そのあと、雑誌の企画で宮田さんと対談したの、築地の料亭で。雑誌社の人が『何か先輩の宮田さんに質問ないですか?』って言うから、『ウチのオヤジが巨人ファンで』っていう話から始めて。テレビ見てると宮田さんがいつも8時半頃に出てきて、マウンドでスパイクの紐を結わいたりして、すごく間(ま)のいいピッチャーだっていう話をオヤジから聞いてたの。
だから、それを聞いたのね。『宮田さんは間のいい投手ということを学生の時から聞いてました』って。そしたらね、『オレも佐藤くんみたいにポンポン投げたかったんだけど、心臓がドキドキするんでね。それで息つくために、紐が緩んでないのにわざと直したりしてたんだ。それが見る人にとっては間がいいと』。『あ、そうだったんですか!』って」
宮田には心臓疾患の持病があり、必然的にインターバルが長くなっていた。が、そもそも心臓疾患があって先発完投が難しいため、宮田はリリーフ要員になったのだった。では、なぜ佐藤は1年目からリリーフ中心で投げることになったのか。
【プロ野球選手を実感した球宴出場】「オレが入った時の南海は杉浦忠さん、皆川睦雄さんの大スターがふたりおられて、さらに三浦清弘さん、渡辺泰輔さんがいて、左のマッシー村上(雅則)もいてね、先発陣にいいピッチャーが多かったのよ。だからもう、中継ぎでも何でもいいからね、一軍で試合に出たかったんですよ」
同年、セ・リーグでは大洋(現・DeNA)の小谷正勝がリーグ最多の53試合登板。先発は6試合のみで、チームでは前例のない抑え専門の投手が誕生した。これは監督の別当薫が近鉄を率いた当時、久保征弘を抑えで生かした実績を踏まえた起用だった。小谷は翌71年も活躍して「12球団一のリリーフ男」と呼ばれるのだが、同業の佐藤にとって、意識する存在だったのだろうか。
「小谷さん、もちろん知ってるけど、当時はまったく意識しなかったね。他球団の人がどうこうより、オレが入った頃の南海は寮がひとつしかなくてさ。朝から夕方まで練習して、泥だらけになって帰ってきた二軍の連中がボコボコに殴られてるのを見て、二軍だけには行きたくねぇ、ということで一生懸命やったわけ。
そしたら監督推薦でオールスターに選ばれて、王(貞治)さん、長嶋(茂雄)さんと対決した時に、『ああ、オレはプロ野球に入ったんだ』と思った。大阪球場で9回に登板して、王さんを三振、長嶋さんをセカンドフライか、それだけは覚えているんですよ。王さんは一本足で立ってビクともしない人、長嶋さんは何か落ち着かない人だな、っていう印象だったね」
新人ながらONも抑えた佐藤だが、真っすぐはとくに速いわけではなく、最も自信がある変化球はスライダーという投手。それでも、グラブを持つ左手を高く上げる「脅かしフォーム」でボールを隠し、バッターの体感スピードを上げていた。加えて、野村の巧みなリードで投球の幅が広がり、もともとの度胸のよさもあり、ピンチでの火消し役に向いていた。
「ただね、オレが新人王を獲れたのは、上田卓三がいたから。三池工業のエースで、甲子園で優勝した左ピッチャー。その上田が中継ぎですごくいい仕事をしてくれて、オレ、出番があったのよ。先発が序盤に崩れても、あいつが抑えてくれているうちに打線が点を取って、出番がくる。たしか、ロングで6回とか7回、上田が投げたあと、オレが出ていって勝ったことも二度あったし」
抑えの前に投げる中継ぎの重要性については、巨人の宮田が20勝した時も同様だった。とくにベテランの北川芳男が「つなぎ」で大きな役割を果たしたと、監督の川上哲治も認めていた。現在のセットアッパーにもつながる部分はありそうだ。佐藤の前に投げた上田はその70年、キャリアハイの44試合登板で3勝2敗、116回を投げて防御率3.18という成績を残した。
翌71年、佐藤の登板数は39試合に減少。投球回数は93回2/3で規定未満だったなか、球界OBの評論家たちはマスコミ上で名リリーフ待望論を展開。そのひとり、河村英文(元西鉄ほか)は宮田と佐藤の名を挙げ、打力優勢の時代に勝つためには「救援型の強力な投手」を擁した継投策が不可欠と説いた。徐々に、先発完投がすべてではないという流れになっていた。
そのなかで72年の佐藤は一気に登板数を増やし、リーグ最多の64試合に登板。11試合連続登板のパ・リーグ記録もつくりつつ、先発は2試合ながら154回を投げて規定投球回に到達。9勝3敗という成績で最高勝率のタイトルを獲得した。
一方で佐藤には、かねて気になっている記録があった。アメリカにはあって、日本にはまだない、セーブという記録だった。
(文中敬称略)