アラン・ドロンの娘、アヌーシュカのInstagramより

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「電話に出ず、嫌な予感がして…」

 フランスを代表する俳優のアラン・ドロン(88)は、同じ映画界で働いた日本人女性のヒロミ・ロランさん(67)を長年にわたってパートナーとしてきた。が、ドロンの子たちはそれを認めず、法的手段を講じて彼女を父親のもとから追い出した。当のヒロミさんが、初めて騒動の真相を明かす【前中後編の中編】

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【写真を見る】ラブラブな様子で身を寄せ合うドロンとヒロミさん

 前編「『食事会に私だけ招待されず…』 アロン・ドロンと事実婚だったヒロミさんが明かす、子どもたちからの非道な仕打ち」では、2019年、脳血管障害でドロンが倒れた際の様子や、ヒロミさんとドロンの子どもたちの“すきま風”について報じた。

アラン・ドロンの娘、アヌーシュカのInstagramより

 ヒロミさんの配慮やドロンの気遣いとは裏腹に、ヒロミさんと子どもたちのあつれきは深まっていった。23年の7月5日。ドロンは次男のアラン=ファビアン(30)から携帯電話に「ルボを返したいが車がない。ヒロミを迎えに寄越してほしい」とのショートメッセージを受け取った。ルボとはドロンの愛犬で、ドロンがスイスで定期健診を受ける間、アラン=ファビアンが自ら申し出て預かっていたのである。彼の自宅はドロンの邸宅があるドゥシーから25キロほど離れたモンタルジという町にあった。

「約束の時間は午後4時。アランと“ジュ・テーム”と言葉を交わし、キスをして分かれ、車で出発しました。アラン=ファビアンのアパルトマンには30分ほどで到着しましたが、呼び鈴を鳴らしても応答がない。ルボも見当たらず、アラン=ファビアンは電話にも出ません。やむなくアランに電話をすると、なぜかこちらも通じない。嫌な予感がして、すぐにドゥシーに引き返しました」

“あなたをここには入れるなと命じられている”

 ドゥシーに戻ると、敷地の入り口の門には固く鎖が巻きつけてあった。ヒロミさんは電子キーを持っていたものの、これでは門は開かない。しかも、脇には見慣れない屈強そうな男が立っている。いったい、何があったのか。

「男は長男のアントニー(59)が雇ったガードマンでした。彼は私に“ムッシュ・ドロンの子どもたちから、あなたをここには入れるなと命じられている”と高圧的な口調で言いました」

 とはいえ、ドゥシーはヒロミさんの住まいでもある。

「門は三つあるので、そのどこかから入ろうと思いました。ところが、すべて同じようにロックされていた。やむなくガードマンの目を盗んで柵をよじ登って中に入りましたが、すぐに気付かれてしまい、羽交い締めにされてしまったのです」

 すると、ほどなくアントニーたちが車でやって来た。

「ガードマンは私を通用門まで引きずっていこうとしました。あまりの乱暴に体をよじらせて抵抗していると、長女のアヌーシュカ(33)が勝ち誇ったように、書類をヒラヒラさせながらやって来て“あなたを告訴した。パパもサインした。メディアはもう知っているのよ!”と叫んだのです」

 すぐにヒロミさんは、自分がドゥシーから締め出されようとしていることを悟った。

「ガードマンは私を門まで引きずることができませんでした。するとアントニーが私の左足を、アラン=ファビアンが右足を抱え、3人がかりで門の外に運び出したのです」

着の身着のままで放り出されたヒロミさん

 敷地周辺には複数の警察車両や警官のほか、ニュースチャンネル「BFM」のカメラマンの姿があった。

「事前に子どもたちの誰かが知らせていたのでしょう。彼らの準備は周到で、私の携帯電話は使えなくなっていました。警官たちに“友人に連絡をしたいので電話を貸して下さい”とお願いしましたが、誰一人として応じてはくれませんでした」

 人種差別か、国民的俳優への忖度(そんたく)か。あまりに一方的過ぎる対応に、ヒロミさんは警察が子どもたちの主張をうのみにしていた可能性を指摘する。

「トイレに行きたいと言っても、即座に“動くな。ここにいなさい”と。“私は何も悪いことはしていない。どうして?”と反論しても無視。門番小屋にはトイレがあるのですが“ダメだ。道端ですればいい”とまで言われてしまって。警官たちが私に悪意を持っていることは明らかでした」

 それでもヒロミさんは、アヌーシュカが手にしていた告訴状に、ドロンがサインしたとは思えなかった。

「当然ですよね。だから、アランがこの仕打ちを承知しているのか、私をここから追放することを望んでいるのかを、本人の口から確かめる必要がありました。そこで、警官に“一緒に付いてきてアランに会わせて下さい”と何度もお願いしました。でも、許されなかった。“せめて私物を取りに行かせて”との訴えすら断られてしまいました」

 この時、ヒロミさんの手にはショルダーバッグがただ一つ。中身は犬の首輪とリード、ミネラルウォーター入りのペットボトル、携帯電話、財布と現金60ユーロ(約9300円)のみ。ヒロミさんは文字通り“着の身着のまま”で放り出された。

「私が“病院に行く必要はない”と言うのに、なぜか警官たちは、やって来た救急車に私を無理やり押し込みました」

メディア、SNSでヒロミさんを非難する子どもたち

 ヒロミさんはモンタルジの病院に収容された。時計はすでに午後8時を回っていた。

「医師や看護師たちは親切で“電話を借りたい”と言うと“好きなだけ使って”と渡してくれました。ですが、医師に“帰りたい”と伝えると“今日は入院させるように警察から言われている”と。警察は病院側に私のことを“精神的におかしい人物”と伝えていたようでした。アントニーと警察との間で話はついており、最初から一晩、私を病院にとどめるつもりだったのでしょう。実際、私はドゥシーでアントニーが私服警官とハグしているのを見ていますから。精神科の医者にはいろいろと質問をされました。当然ですが、“何も問題ない”と診断されて帰宅許可がおりました」

 病院を出たヒロミさんは友人宅に身を寄せた。子どもたちによってドロン邸前の道端に捨てられた一部の私物が警察を通じて返還されたのは、それから5日後。その間も子どもたちはメディアやSNSを駆使して、ヒロミさんへの激しい非難を繰り返していた。

〈ヒロミは自分が終日外出する時でも、父親を一日中キッチンの椅子に放置していた。とても耐えられないような状態だった〉

〈ヒロミは単なる家政婦で、つい最近まで給料を受け取っていた。父親が脳血管障害で倒れた後、彼女は世話をし始めて、徐々に立場を大きくしていった〉

〈父はこの女性を私に“連れ(妻)”と紹介したことは一度もない〉

「すべてが作り話」

 彼らの主張は告訴状にも登場するが、ヒロミさんは強く反論する。

「役者だからうそがうまいのかと思うほど、彼らの言い分はすべてが作り話。一部に小さな事実はありますが、大げさに私に過失があるかのように話を作り変えるんです。例えば、私がアランに水とバナナだけを渡して長時間放置したとか。私は体が弱っている彼を放置したことは一度もありません。一人で出かけなければならない時は、必ず家政婦や庭師に声をかけていました。彼らに聞けば、子どもたちの主張がうそであることはすぐに分かります」

 実際、ドロンは順調に回復し、20年1月からは車椅子は必要なくなり、つえを片手に邸内や庭を歩き回っていたという。それでも子どもたちは、執拗(しつよう)にドロンとヒロミさんの事実婚の正当性にも疑義を呈し続けた。

「かつて、アランはテレビのインタビューで私を“コンパーニュ(連れ合い)”と表現しました。その理由を、アヌーシュカは“ヒロミが父にそう言うように圧力をかけ続けたせいだ”とメディアで繰り返していました。私たちへの敬意を欠いた、ひどい作り話です。むしろ私は、“告訴状に父もサインした”というのは、アヌーシュカがアランをうまく言いくるめて、アランが何か分からないままサインさせたのが真相ではないかと思っています」

 その後もヒロミさんへの攻撃はやまず、昨年9月にはアントニーが根拠のないままヒロミさんに“窃盗の疑いがある”とメディアに喧伝した。

「ドゥシーのバスルームには戸棚があり、そこで警察がまとまった現金を見つけたという話ですね。アントニーはそれを“ヒロミが父のカードを使って引き出した金だ”と、至るところで吹聴して回ったんです」

 もちろん、すぐに疑いは晴れた。

「あのお金は私が両親から受け継いだ遺産の一部。警察が見つけたのは、私が場所を伝えて確保してもらったから。すでに返していただきましたよ」

家宅捜索

 ドゥシーから追われた3週間後、検察はパリ郊外のヒロミさんの自宅で家宅捜索を行った。その理由を、ヒロミさんの代理人を務めるヤシン・ブズロウ弁護士が解説する。

「ヒロミはドゥシーを追い出された7月、子どもたちからモラル・ハラスメント、信書の窃取、脆弱者(ドロン)への暴力と監禁、脆弱さの濫用、父の愛犬への暴力の疑いで刑事告訴されました。すべて根拠のない訴えなので、彼女は自分の無実を立証するために任意の家宅捜索を受諾したのです」

 その後、ヒロミさんはモンタルジ検察で任意の事情聴取を受けた。

「当然、容疑はすべて否認しました。話したいことを話したら6時間に及んでしまって」(ヒロミさん)

 前編「『食事会に私だけ招待されず…』 アロン・ドロンと事実婚だったヒロミさんが明かす、子どもたちからの非道な仕打ち」では、19年、脳血管障害でドロンが倒れた際の様子や、ヒロミさんとドロンの子どもたちの“すきま風”について報じている。

 さらに後編「アラン・ドロンが『僕はひとりぼっち』と悲痛な叫び 事実婚だったヒロミさんにSOSの電話」では、悪性リンパ腫と闘うドロンがヒロミさんに必死の思いで伝えたSOSの言葉について紹介している。

アラン・ドロン
俳優。1935年、フランス・セーヌ県で映画館を営む父と薬剤師の母との間に生まれる。17歳で海軍に入隊し、第1次インドシナ戦争に従軍。除隊から2年後の1957年に映画「女が事件にからむ時」で銀幕デビュー。24歳の時に主演した「太陽がいっぱい」は、日本でも大ヒットを記録した。

「週刊新潮」2024年8月1日号 掲載