レジ―・フィサメィ氏と岩田氏は時に意見が折り合わないこともあった(撮影:今井康一)

様々な逆境を乗り越え、アメリカ任天堂社長となり、ゲーム業界の歴史において最も強力な人物の1人となったレジー・フィサメィ氏。

5月22日、彼の35年間の人生とビジネス哲学を描いた『崖っぷちだったアメリカ任天堂を復活させた男』が発売となった。今回は本書より、元任天堂社長の故岩田聡氏との秘話を一部抜粋のうえ、再構成してお届けする。

岩田氏との“柔術”のようなやりとり


岩田氏と私はビジネスについて深く語り合い、時に意見が折り合わないこともあった。だが話し合いを進めながら、私たちは必ず解決策を出し、それが会社にとって素晴らしい結果となっていた。

私が自分の考えを押し通したと言ったほうがいいのかもしれない。ただし粘り強く、かつ相手の気持ちを汲みながらこれを行った。

私はビジネスを“柔術”みたいなものだと考えている。アイディアを押したり引いたりしながら、周囲の支持を集めていくうちに、自然と弾みが付いてさらに前に進む。

岩田氏が最初にガンの診断を受けて、最初の手術を行ったのは2014年夏のことだ。彼がまだ入院中に、私は世界戦略会議に出席するため日本に行くことになった。せっかく出張で行くのだから、岩田氏に見舞いに伺っていいですかと尋ねてみた。

メールでやり取りする際、彼は「結構です。日本ではそういうことはしない。ビジネスパートナーは互いに病院を見舞うことはないから」と返事をしてきた。

だが私は行くと言って聞かなかった。夏が終わってからはしばらく日本に戻る予定がないので、会いに行きたいと説明した。彼がどんな容態なのか知りたかったのだ。

岩田氏は来なくていいと押し通し、「レジー、会社から私を見舞いに来た人はいない」と再び書いて寄こした。私はビジネスの用件で訪問するつもりはない。こう返事を送った。

「失礼ながらミスター・イワタ、私はNOAの社長としてではなく、友人としてあなたを見舞いたいのです」

この最後の一押しによって、彼は笑って折れてくれた、そう思いたい。私に根負けしたと悟ったときに、彼はかすかに笑みを漏らしたものだ。彼は態度を和らげて、見舞いを許可してくれた。

岩田氏は私の見舞いをすごく喜んでくれた。彼の奥さんと娘さんもそこに居合わせていた。ビジネスパートナーの見舞いというよりも、友人のプライベートな見舞いとして迎えてくれたわけだから、私は嬉しかった。

人間関係がもたらす力

病室に入ると、岩田氏が病院のガウンを着て満面の笑みを浮かべて立っていた。私は岩田氏を見ていつも通り、握手をした。そのまま打ち解けたプライベートな会話に入り、彼の回復具合について聞いた。元気そうだ。顔は赤みがかっていて健康状態は良好であるように窺えた。

小柄な奥さんを紹介し、英語がまったく話せない彼女の通訳を務めてくれた。20代くらいの娘さんも紹介してもらった。彼女は私と会えてすごく喜んでくれた。「レジー、娘は君の大ファンなんだ」と岩田氏。「本当ですかミスター・イワタ。ご家族の中に私のファンがいるなんて」と私は返した。

岩田氏はクスクス笑って、通訳をしてくれた。おかげで、娘さんと私は軽い冗談を交わすことができた。彼女は携帯電話を取り出して、この病室で一緒に写真を撮ってくれませんかと言う。これを聞いて岩田氏は笑い、お願いできないかと私に言うのだった。

私はもちろんいいですと答えたが、問題が1つあった。私は背が高いが彼女は小柄なため、私たち2人をフレームに収めるのが難しかったのだ。いたずらっぽい笑みを浮かべて目を輝かせ、岩田氏が助け船を出してくれた。娘さんの携帯を取ってカメラマン役を引き受けて、2人の写真を何枚か撮ってくれた。写真を見て彼女は満足げだった。

私は人間関係がもたらす力を信じている。岩田氏は私の上司だっただけではない。私のビジネスに対する洞察力を評価してくれただけではない。

彼は友人であり彼との友情があったからこそ私は任天堂で成功し、人生においても成功することができた。だからといって、ビジネスにおいてみんなと仲良くすべしということではない。つまり、相手をよりよく理解するほど、共同作業でより効率よく最大の成果を上げられるということだ。

友人との別れへ

私の中では、岩田氏の病室での楽しかったひと時の隣には、その1年後に開かれた葬儀の記憶が並んでいる。それは私の中に深く刻まれている。私たちは東京に着いてから別の飛行機で大阪に飛んで、そこから故人との別れがなされるお寺まで電車で行く計画だった。

これは異例のことで、いつもなら新幹線という高速の列車に乗って京都に行く。電車のほうが少し時間はかかるがより便の数が多い。いずれにせよ、故人との対面は当日の夜に行われ、翌日が葬儀ということで、一刻を争う状況だ。

今回はNOAを代表して、私を含む数人で一緒に旅をしている。私たちは飛行機のトイレで喪服に着替えた。飛行機が迫りくる台風のせいで激しく揺れていたため、私みたいに体の大きな人間には大変だった。

飛行機は予定より遅れて到着し、次の便との接続がギリギリだったため、フライトアテンダントが他の乗客にお願いして、先に私たちを降ろしてくれた。入国審査でも迅速に手続きしてもらったが、通過すると、大阪行きの次の便は遅れるか、あるいは即座に運航中止になるかもしれないと知らされた。

私たちは予定通りそのまま飛行機を乗り継いでそれから列車で行くか、あるいは新幹線で直接京都まで行くか決めなければならない。チームが私に顔を向けた。私の決断が間違えば、故人との別れに間に合わない可能性も出てくる。

私は新幹線で行くことに決めた。新幹線は時間通りに走行する。1分でも到着が遅れたり、逆に早く到着したりしたときでさえ、制服を着た車掌が謝罪するくらいだ。

新幹線が京都駅に到着する頃には、時間が切羽詰まっていた。お寺まではタクシーを使うしかないが、列に並んで待たなければならず、そうなるとさらに遅れてしまう。チームのメンバーの1人が事前に電話して、お寺を開けておいてもらえないかと頼んでくれていたが、その要望に応えてもらえるかはわからない。

自らのキャリアを考える

私たちはやっと目的地に到着した。残っていたのはわずか数名だけ。その日の早くには1000人を超える人たちが故人との別れに訪れていたそうだ。

任天堂のスタッフが早くから大勢の人たちに対応していたようで、その中に馴染みの顔もいた。君島達己氏が現場にいた古参の人物だ。君島氏はNOAの社長だったときに、私を採用してくれた。

私たちは遅れて着いたため、岩田氏の棺には翌日の葬儀のために、葬儀用の布がかけられていた。気持ちを集中させて覚えていた手順で焼香を行っていると、君島氏から友人をご覧になりたいですかと聞かれ、はいと答えた。

私はしばらく岩田氏の前に立っていた。私の友人であり、メンターであり、導き手だった人が亡くなったという事実を受け入れるしかなかった。

岩田氏の逝去がきっかけで、私は自分のキャリアについて深く考え、任天堂に何を残したいのか考えるようになった。そしてそれから先のことについても。

(レジー・フィサメィ : アメリカ任天堂元社長兼COO)