斬新な指導スタイルで急成長! 波瀾万丈キャリアを歩んだ元Jリーガーが埼玉中学サッカー界で名を馳せるまで
遍歴と曲折を重ねてここまでたどり着いた。
東京・国士舘高校から国士舘大学体育学部への推薦入学に失敗したうえ、一般受験でも不合格。そこで留学生制度を利用して1997年にイタリアへ渡り、当時5部のサンジュステーゼとサンベニーニョに2シーズン在籍した。3年目はJリーグでプレーしたくて強豪クラブからの誘いを断り、日本へ戻ってきたのだが......。
1回戦で徳山大(山口)に敗れたが、MFの主力として2000年度の第80回天皇杯に新潟県代表で初出場。首尾よく新潟に引き上げてもらい、01年に夢を実現させた。しかしリーグ戦は2試合にベンチ入りしただけで出番はなし。第81回天皇杯でマインドハウスTC(三重)との1回戦に途中出場したのが、Jリーガーとして唯一の戦歴であった。
02年に群馬県リーグ1部の草津へ移籍し04年までプレー。「最終シーズンは昇格したJFLで3位、天皇杯も8強とチームは好調だったのに、自分は2試合しか出られず燃焼し切れなかった」とし、九州リーグのロッソ熊本(現ロアッソ熊本)のセレクションに臨んだが吉報は届かず、引退の腹を固めた。
この選考会を前に草津からアカデミーのコーチ就任を打診されたが、現役にこだわって固辞していた。
身の振り方を思案するなか、行く末を案じた草津の監督だった奥野僚右から連絡が入った。一度断っているので自分から草津には頼めないとの旨を伝えると、奥野は「必要だから誘われたんじゃないか」と言って取り次いでくれたのだ。生方の人柄とサッカーへの情熱がそうさせた。
05年から草津の育成組織で指導者に転身。赤堀ジュニアユースの初代監督を皮切りに、草津U-18コーチやU-15監督、アカデミーダイレクター補佐などを13年まで歴任し、14年から17年まで相模原ジュニアユースでコーチを務めた。
