どれだけ美味くても地元に愛されないとダメ…東京ラーメンの超名店が「行列問題の解消」にすぐ動いた理由
■趣味で作っていた家ラーメンがきっかけ
東急池上線・荏原中延駅から徒歩30秒。東京ラーメンを代表する絶品の中華そばを提供する名店がある。「中華そば 多賀野(たかの)」である。
「多賀野」は1996年創業。高野正弘さん・多賀子さんが夫婦で営業するお店だ。創業当時、正弘さんはほかの仕事をしており、朝にスープを仕込んだら仕事に出て、昼は奥さんである多賀子さんが一人で切り盛りし、そして夜は2人で営業していた。1996年は「麺屋武蔵」「青葉」「くじら軒」の“96年組”と呼ばれる名店がオープンした年で、この年に「多賀野」もひっそりとオープンをしていた。
以前から正弘さんは仕事の出張で全国を回り、ラーメンの食べ歩きをしていたが、東京のラーメンが全国でナンバー1だろうと確信していた。特に煮干しやカツオ節を使った清湯のラーメンが好きだった。ラーメン好きが高じて、多賀子さんと一緒に家でもラーメンを作るようになり、家族や友達に振る舞うようになった。
ある日、いつものようにラーメンを作り、夕飯にラーメンを食べ、夜なかなか寝られなかった正弘さんは残っていたラーメンのスープに煮干しをそのまま入れて煮込んでみた。テレビ番組の「料理の鉄人」で道場六三郎さんがカツオ節を鍋に大量に入れるのを見ていて、これを煮干しでやってみたかったのだという。
食べてみると、煮干しの風味や独特のえぐみが出てものすごく美味しいスープが出来上がっていた。驚いた正弘さんは寝ていた多賀子さんを起こして味見をしてもらう。これは今までにまったく食べたことのない味で、これは商売になるぞと確信した。これが「多賀野」の味の秘密「追い煮干し」の誕生である。
■脱サラしてラーメン店を始めたものの当初は苦戦
ちょうどバブルがはじけた頃で、正弘さんの年収は毎年どんどん減っていた。ここを逃すともうチャンスはないと思った正弘さんは、多賀子さんに相談。当時の全財産をはたいてラーメン店をオープンすることにした。
「儲かるかはわからないけど、行列のできるラーメン屋を作ろう」そう言って「中華そば 多賀野」はオープンした。
当時、西馬込に住んでいたので近くの物件を探し、東急線・中延駅の近くにあった小さなお店を借りることにした。中延駅周辺は人も多く、美味しいラーメンを作ればきっとお客さんは入るだろうと思っていた。
しかし、それは甘かった。
人は多かったが、大井町線から池上線の乗り換え客ばかりで、お店の前を人は素通りしていった。お客といっても友達が来てくれるだけで、地元のお客さんはほとんど来なかった。「この辺のお店は厳しいから頑張ってね」近所の人からはそう声をかけられた。
当時の「多賀野」のラーメンの価格は600円。すごく安いなという感覚だが、このエリアではまだ名もないお店の価格としては高かったのだという。周りには400円台のラーメンを出しているお店も多く、口々に高いと言われた。原価率は40%を超えていた。それでも一年間で10円しか値上げできなかった。
ずっと苦戦を強いられてきたが、愚直にラーメンを磨き上げ、少しずつ口コミが増えていった。
■雑誌に取り上げられ、人気店の仲間入りを果たす
ある日、転機が訪れる。雑誌『FRIDAY』のラーメン番付というコーナーでランキングに入ったのである。雑誌発売日の翌日の土曜日から大行列ができた。初日にはいきなり30人が店の前に並んだのだという。
「念願の行列でしたがこれはやばいなと思いました。それから毎日行列ができるようになり、お客さんがどんどん増えていったんです。オープンから2年半かかりましたがようやくでした」(正弘さん)
当時は携帯電話もほとんど普及しておらず、口コミだけでお客が広がってきた。この後に雑誌やテレビがたくさん取材に来て、一気に「多賀野」は人気店の仲間入りをした。豚骨ラーメンが全盛の中、魚介系のラーメンがブームを作り始めたのである。
行列が日に日に長くなり、このままでは近所迷惑になってしまうだろうということで移転をすることにした。2000年に荏原中延駅の近くにある現在の店舗に移転する。
■どんなに繁盛しても大切なのは地元客
地元客が毎日来ても飽きないお店になろうと次々に新しいメニューを開発した。
限定ラーメンを出すとそれぞれのメニューにファンがつき、それがレギュラーメニュー化していく流れになっていった。10人のお客さんが全員異なるメニューを注文するということもしばしば。これがファン作りの一つのきっかけになった。
その後ラーメンブームが来て、遠方からのお客さんも激増し、50〜60人の行列ができるようになった。最大3時間待ちという時期もあったという。メディアに出るたびにお客さんが増えていき、地元客がなかなか来られないお店になってきた。
「どれだけラーメンがうまくても地元に愛されないとダメだと思っていました」(正弘さん)
そんな悩みを抱えている中、新型コロナウイルスが日本を直撃し、コロナ禍でお店の前にたくさんの人が並んでいるのが問題になってきた。
「多賀野」はここですぐさま対策を講じることにした。行列や順番待ちを効率化できるiPadの受付管理アプリ「Airウェイト」を導入したのだ。コロナ後すぐに導入したため、予約制の先駆けとなり、全国紙が全紙取材に来たという。これで行列問題の解消とともに地元客も戻ってくるようになった。
■ビールを飲みながら麺を打つのが毎日の楽しみ
8年前からは麺を自家製麺に切り替えた。
新潟出身の多賀子さんは「へぎそば」で育ち、とにかく麺にこだわりたかった。麺に布海苔を練り込み、他にはない麺を作り上げた。
「全部を自分たちで作ってみたいという思いは昔からあったので、自家製麺は一つの目標でした。手間はかかりますが、ラーメンを作るのは趣味だからOKなんです。『手間はタダよね』と二人で言い合っています」(多賀子さん)
夜営業をやめて昼だけにし、夜は麺作りに打ち込んでいる。正弘さんはビールを一杯飲みながら麺を打つのが毎日の楽しみだという。自家製麺を始めてからその麺の旨さが話題となり、今ではお客の半分が大盛を注文する。
「手作りならではの魅力を見せていきたいです。スープも時間や日によって味が変わっていきます。でもこれは美味しい中での表情の変化です。インスタントラーメンではないので、多少変わっていくのが魅力だし、飽きない秘訣(ひけつ)かなと思います」(正弘さん)
「多賀野」は煮干しをだしパックにして追い煮干しをしたり、ブレンダーを使ってエスプーマ状のスープを作ったりと、通常のラーメン店とは違うやり方で独自の味を作り上げてきた。その製法は多くのお店に影響を与えている。修業せずに独学でオープンしたからこそできる究極の我流なのだ。
■“美味しい”に国境はない
「多賀野」には外国人のお客さんも多い。外国人のお客さんというと観光客をイメージすると思うが、「多賀野」に来る外国人客はリピーターが主だという。
「彼らは何度も来て同じメニューばかり食べていきます。塩ラーメンばかり食べる中国人の方や、ごま辛(ごまの辛いそば)ばかり食べる欧米の方、ベルギーの方で週2回来られる方もいます。あくまで“和”のラーメンなのですが、彼らとしても食べたことのない味なのだと思います」(正弘さん)
正弘さんと多賀子さんが夫婦並んで作る姿は、こちらが笑顔になってしまうぐらいの幸せ感。時にはケンカをしながら作っているが、それもスパイス。常連客はそれを見ながらニヤッと笑っている。
これからはお店をゆっくり続けながら弟子を育てていく。
「多賀野」出身の店には「とんちぼ」「榮田」「笑歩」「時雨」など各地の名店がある。
弟子に包み隠さず教え、「多賀野」イズムを伝えていく。今も、修業をしたいと弟子候補の履歴書が10通順番待ちをしているという。
職人の魂の入ったラーメンは相手が日本人でも外国人でも関係ない。
美味しいに国境はないのである。
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井手隊長(いでたいちょう)
ラーメンライター、ミュージシャン
全国47都道府県のラーメンを食べ歩くラーメンライター。東洋経済オンライン、AERA dot.など連載のほか、テレビ番組出演・監修、コンテスト審査員、イベントMCなどで活躍中。自身のインターネット番組、ブログ、Twitter、Facebookなどでも定期的にラーメン情報を発信。ミュージシャンとして、サザンオールスターズのトリビュートバンド「井手隊長バンド」や、昭和歌謡・オールディーズユニット「フカイデカフェ」でも活動。
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(ラーメンライター、ミュージシャン 井手隊長)