“アンコー”こと斉藤安弘、オールナイトニッポン開始当時を振り返る
2月9日の「おとなりさん」(文化放送)、午前9時台『教えて!全国☆ラジオスター』のコーナーに、“アンコー”こと斉藤安弘さんが出演。初代パーソナリティーのひとりだった「オールナイトニッポン」(ニッポン放送)開始当時のことを語った。
山根良顕「(ニッポン放送に入社して)すぐにオールナイトニッポン担当だったんですか?」
斉藤安弘「いえいえ。あのころ、ニッポン放送は都内に6つぐらいサテライトスタジオがあって、生放送をやっていたんです。私はニッポン放送に入るまで歌謡曲が大嫌いだった。ポップス専門で、ジャズとかを聴いていたんです。サテライトスタジオで、オールナイトニッポンの初代パーソナリティーのひとりだった高崎一郎さんが数寄屋橋で生放送やってらして。それがポップスの番組なんです。」
山根「ほお~!」
斉藤「あの方はしょっちゅうアメリカへ出張する。そうすると制作部からアナウンス部に来て『僕は出張するから、誰かピンチヒッターやってくれないか?』って。私、入社して間もないのに身の程も省みず手を挙げて『やらせてください!』と」
山根「ポップスが好きだし」
斉藤「そう。ポップス(の番組)ができる、と。それでやるようになって。高崎さんというのはすごいんですよ。英文タイプライターで、英文で曲名とアーティスト名を書いて、紙1枚持っていく。原稿(台本)なんかないわけですよ。『君ね、これからのしゃべり手は自分の言葉でしゃべんなきゃダメだよ』『原稿を読んでいるようじゃダメ』と言われて。私も、打てもしない英文タイプライターで打ったけどダメだこりゃ、と手書きでやって(笑)。それまでは原稿も『皆さん、こんにちは。お元気でしょうか……』と自分で書いていた」
山根「はい」
斉藤「そうするとガラスの向こうの人から『あいつ原稿読んでらあ』という雰囲気を感じるわけ。じゃあ自分の言葉でしゃべろう、と。最初はキツかったですよ」
山根「自分の言葉でやるようになって、そのあとオールナイトニッポンは全部自分の言葉でしゃべったというか」
斉藤「そうです、1967年から。深夜放送を始めたのはオールナイトニッポンじゃなくて、文化放送の『真夜中のリクエストコーナー』、土居まさるだと思います。(活発に)『はいはいはい、どうも!』と、こういうしゃべり方。どんどん火がついて、世間で『真夜中のリクエストコーナー』いいよ、と噂になって。ラジオがテレビの普及に押されて右肩下がりになってきたので、復活させるには若者を取り込まなきゃいけなかった。いちばん良かったのは、ソニーさんが小さなトランジスタラジオをつくったこと。安くて、自分の部屋で聴ける。『パックインミュージック』(TBSラジオ)の2ヶ月後にオールナイトニッポンがスタートしたんです」
山根「オールナイトニッポンは後発だったんですね」
斉藤「後発ですね。先発組を見ていて言われたのは『ウチは相手役を置かないよ』ということ。目の前のマイクロフォンが聴取者だと思って、それに語りかけろ、と。もうひとつは『下ネタで勝負をするな』。それを破ったのは(笑福亭)鶴光さん、あとは、あのねのね(笑)」