M-1グランプリが産声を上げた瞬間、島田紳助「若手の漫才コンテストをやったらどうや?」
2001年にスタートした「M-1グランプリ」は、若手漫才師の登竜門となり、数多くの人気芸人を輩出。お笑いファンのみならず、世代を超えて高い注目を集め、今や年末の風物詩となっている。M-1グランプリを立ち上げたのは元吉本興業ホールディングス取締役の谷良一氏。著書『M-1はじめました。』(東洋経済新報社)も好評の谷氏に、改めてM-1グランプリ誕生までの軌跡を振り返ってもらった(前後編の後編)。
【前編はこちら】M-1グランプリを立ち上げたのは1人の吉本社員、漫才ブーム低迷期にキラリと光った中川家
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漫才師との面談や、劇場で奮闘する若手漫才師の姿を目の当たりにして、手ごたえを感じた谷氏は漫才イベントを定期的に行い、そこで結果を残した漫才師をテレビに売り込んだ。順調に漫才プロジェクトは進行していたが、かつての漫才ブームのような盛り上がりとは程遠かった。そんなときに、何気なく東京時代にチーフマネージャーを務めていた島田紳助の楽屋に訪れたことで状況は一変する。
「チーフマネージャーをやっていた頃は、たまにテレビ番組の現場に行って話したり、番組企画の相談をしたりしていたんですが、大阪に戻ってからは、テレビ番組を作る部署になったので、ほとんど会っていませんでした。ある日、同じく過去にチーフマネージャーをやっていた間寛平さんに会いに、よみうりテレビに行ったんです。一時間ほど話した後、楽屋を出ると隣が紳助さんの楽屋でした。
それで挨拶がてら漫才プロジェクトのことを伝えに行ったら、第一声が『それはいいことや!』だったんです。テレビの司会者として活躍しているから、漫才のことは忘れているかと思っていたので、まさかそんな言葉が出るとは思っていなかった」
大学時代、生で島田紳助・松本竜介の漫才を受けて、とてつもない衝撃を受けた。
「紳助さんがバーッと喋って、竜介さんがたまにツッコんで、そのテンポ感で漫才を作っていくというスタイルは斬新でした。その当時は横山やすし・西川きよしから続く正統派漫才があって、その系譜にオール阪神・巨人がいて、ちょっと遅れて太平サブロー・シローが出てきた。相方と息と間を合わせて、長いこと稽古して、練り上げていくみたいな正統派漫才を作り上げるには年数がかかる。紳助さんは、そこまで待ってられないから変則技でやるしかなかったと思うんです。
そんな紳助さんが『自分を作ってくれたのは漫才だから、お返しをしたいと思っているけど、まだできてない。それが負い目になっている』と言うんです。そんな思いを始めて知ったので驚きました。それで30分ほど熱心に漫才について語り合ったんですが、そのときに紳助さんが『若手の漫才コンテストをやったらどうや?』と言ったんです」
その一言が、新たな構想へと発展していく。
「3日後、今度は朝日放送に紳助さんを訪ねたら、『優勝賞金1000万円で賞金が出るのは優勝者のみ、いつまでも芽の出ない若手芸人に引導を渡す大会であること』など、漫才コンテストの構想を一気に話されました。そのときに僕が『漫才の大会だからM-1ですね』と提案しました」
M-1グランプリが産声を上げた瞬間だった。
谷氏が吉本興業に入社したのは1981年。漫才が好きで、漫才を作りたいというのが志望理由で、横山やすし・西川きよしや笑福亭仁鶴などのマネージャーからスタートした。
「当時の吉本は大きく分けると吉本新喜劇と漫才。たまに落語をやりたいというのもいましたけど、マネージャーをやりたいという理由で入ってくる人はあまりいなかった。僕らが入社した頃の吉本興業が毎年採用していた新入社員は2,3人。僕らの年度は5人だったので多いほうです。
総務や経理は別で採用していたんですが、5人とも制作部の採用でした。当時の制作部は全員、最初にマネージャーをするんです。もちろん劇場も担当するし、テレビ局も担当するし、営業にも行くという時代やったんですけど、僕らの6、7年後ぐらいになると、採用も10人、20人と増えだして、だんだん部署も細分化されていきます」
マネージャ―経験は、後の仕事にも大いに活かされた。
「マネージャーって全部の要素が入っているんです。まずタレントと一緒になって動くわけですから、親しくなれるっていうのがあります。それまで普通の大学生で、社会人になって初めて濃密に付き合うのが芸人さん。個人事業者ですから、根本的にサラリーマンと違います。芸人ってこんな人種なんだ、こういう考え方をしてるんだ、こういうふうに漫才を作るんや、こういうところに目をつけて、こんなふうに喋るんだ、こういう風に人と付き合うんだとか、たくさんの発見がありました。
そのほかにもタレントを売り込むために、営業もするし、舞台も作っていくし、ほんまにいろんなことを学びました」
マネージャーとして密接に関わってきたからこそ、芸人の気持ちも痛いほどよく分かる。芸人の地位を向上させたいという強い思いによって、M-1グランプリ開催までに立ちはだかる数々の壁も乗り越えていった。紆余曲折を経て12月25日に生放送された第1回M−1グランプリは驚異的な視聴率を叩き出す。
「関西の視聴率が21・6%だからビックリしました。やっぱり関西人は漫才が好きなんですよね。関東は9・0%と振るわなかったんですが、当時のテレビ朝日は『振り向けばテレビ東京』と言われるぐらいステーションパワーが低かったんです。あの枠の前4週平均が7%台だったので、2%上げてるわけですから、なかなかの結果でした」
たった一人で始まった漫才プロジェクトは、様々な人たちとの出会いでM-1へと結実し、新たな漫才ブームを巻き起こした。吉本興業の社内的にも、低迷していた漫才を見直すきっかけとなった。
「第1回M-1を開催した翌年、NSCの入学者が飛躍的に増えたそうです。しかも95%以上が漫才をやりたいという子だと当時の校長が言ってました。それまで漫才をやりたいって入ってくる子は少数派だったらしいんですよね。劇場にも客が入るようになって、漫才を流すテレビ番組も増えて、若手だけじゃなくベテランも刺激を受けて、やる気も出たんじゃないでしょうか。
ただM-1がこんなに長く続くとは思っていなかったです。80年代初頭の漫才ブームも2、3年で終わってしまいましたから、たとえ漫才ブームが起こせたとしても5年ぐらい。それでM-1も終わるだろうと思っていました」
M-1きっかけで到来した漫才ブームは一過性で終わらず、M-1にエントリーする漫才師も右肩上がりで増え続けている。
「M-1によって、ある程度は芸人、漫才師が評価されて、地位が上がったと思います。80年代の漫才ブームのときも上がったんですけど、それでも扱いは低かった。M-1以降、バラエティー以外のテレビ番組にもお笑いタレントが出るようになって、お笑いタレントなしでは作れないと言っても過言ではない。社会的にも面白い、笑いが分かるということが、若い子のモテる条件になりましたし、もっともっと芸人の地位が上がってほしいですね」
谷氏は第10回大会でM-1のプロデューサーを退いた後も、若手の漫才を追い続け、自身のブログでM-1の感想も綴っている。
「ずっとM-1は見とかなあかんっていうのはあります。正直、『このコンビが残るの?』って思うこともあります。でも絶対に否定はしません。否定をしたらM-1の精神じゃない。新しい才能、新しい漫才を紹介するのがM-1ですし、若い感性は若い人が見つけるわけですから」
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漫才師との面談や、劇場で奮闘する若手漫才師の姿を目の当たりにして、手ごたえを感じた谷氏は漫才イベントを定期的に行い、そこで結果を残した漫才師をテレビに売り込んだ。順調に漫才プロジェクトは進行していたが、かつての漫才ブームのような盛り上がりとは程遠かった。そんなときに、何気なく東京時代にチーフマネージャーを務めていた島田紳助の楽屋に訪れたことで状況は一変する。
「チーフマネージャーをやっていた頃は、たまにテレビ番組の現場に行って話したり、番組企画の相談をしたりしていたんですが、大阪に戻ってからは、テレビ番組を作る部署になったので、ほとんど会っていませんでした。ある日、同じく過去にチーフマネージャーをやっていた間寛平さんに会いに、よみうりテレビに行ったんです。一時間ほど話した後、楽屋を出ると隣が紳助さんの楽屋でした。
それで挨拶がてら漫才プロジェクトのことを伝えに行ったら、第一声が『それはいいことや!』だったんです。テレビの司会者として活躍しているから、漫才のことは忘れているかと思っていたので、まさかそんな言葉が出るとは思っていなかった」
大学時代、生で島田紳助・松本竜介の漫才を受けて、とてつもない衝撃を受けた。
「紳助さんがバーッと喋って、竜介さんがたまにツッコんで、そのテンポ感で漫才を作っていくというスタイルは斬新でした。その当時は横山やすし・西川きよしから続く正統派漫才があって、その系譜にオール阪神・巨人がいて、ちょっと遅れて太平サブロー・シローが出てきた。相方と息と間を合わせて、長いこと稽古して、練り上げていくみたいな正統派漫才を作り上げるには年数がかかる。紳助さんは、そこまで待ってられないから変則技でやるしかなかったと思うんです。
そんな紳助さんが『自分を作ってくれたのは漫才だから、お返しをしたいと思っているけど、まだできてない。それが負い目になっている』と言うんです。そんな思いを始めて知ったので驚きました。それで30分ほど熱心に漫才について語り合ったんですが、そのときに紳助さんが『若手の漫才コンテストをやったらどうや?』と言ったんです」
その一言が、新たな構想へと発展していく。
「3日後、今度は朝日放送に紳助さんを訪ねたら、『優勝賞金1000万円で賞金が出るのは優勝者のみ、いつまでも芽の出ない若手芸人に引導を渡す大会であること』など、漫才コンテストの構想を一気に話されました。そのときに僕が『漫才の大会だからM-1ですね』と提案しました」
M-1グランプリが産声を上げた瞬間だった。
谷氏が吉本興業に入社したのは1981年。漫才が好きで、漫才を作りたいというのが志望理由で、横山やすし・西川きよしや笑福亭仁鶴などのマネージャーからスタートした。
「当時の吉本は大きく分けると吉本新喜劇と漫才。たまに落語をやりたいというのもいましたけど、マネージャーをやりたいという理由で入ってくる人はあまりいなかった。僕らが入社した頃の吉本興業が毎年採用していた新入社員は2,3人。僕らの年度は5人だったので多いほうです。
総務や経理は別で採用していたんですが、5人とも制作部の採用でした。当時の制作部は全員、最初にマネージャーをするんです。もちろん劇場も担当するし、テレビ局も担当するし、営業にも行くという時代やったんですけど、僕らの6、7年後ぐらいになると、採用も10人、20人と増えだして、だんだん部署も細分化されていきます」
マネージャ―経験は、後の仕事にも大いに活かされた。
「マネージャーって全部の要素が入っているんです。まずタレントと一緒になって動くわけですから、親しくなれるっていうのがあります。それまで普通の大学生で、社会人になって初めて濃密に付き合うのが芸人さん。個人事業者ですから、根本的にサラリーマンと違います。芸人ってこんな人種なんだ、こういう考え方をしてるんだ、こういうふうに漫才を作るんや、こういうところに目をつけて、こんなふうに喋るんだ、こういう風に人と付き合うんだとか、たくさんの発見がありました。
そのほかにもタレントを売り込むために、営業もするし、舞台も作っていくし、ほんまにいろんなことを学びました」
マネージャーとして密接に関わってきたからこそ、芸人の気持ちも痛いほどよく分かる。芸人の地位を向上させたいという強い思いによって、M-1グランプリ開催までに立ちはだかる数々の壁も乗り越えていった。紆余曲折を経て12月25日に生放送された第1回M−1グランプリは驚異的な視聴率を叩き出す。
「関西の視聴率が21・6%だからビックリしました。やっぱり関西人は漫才が好きなんですよね。関東は9・0%と振るわなかったんですが、当時のテレビ朝日は『振り向けばテレビ東京』と言われるぐらいステーションパワーが低かったんです。あの枠の前4週平均が7%台だったので、2%上げてるわけですから、なかなかの結果でした」
たった一人で始まった漫才プロジェクトは、様々な人たちとの出会いでM-1へと結実し、新たな漫才ブームを巻き起こした。吉本興業の社内的にも、低迷していた漫才を見直すきっかけとなった。
「第1回M-1を開催した翌年、NSCの入学者が飛躍的に増えたそうです。しかも95%以上が漫才をやりたいという子だと当時の校長が言ってました。それまで漫才をやりたいって入ってくる子は少数派だったらしいんですよね。劇場にも客が入るようになって、漫才を流すテレビ番組も増えて、若手だけじゃなくベテランも刺激を受けて、やる気も出たんじゃないでしょうか。
ただM-1がこんなに長く続くとは思っていなかったです。80年代初頭の漫才ブームも2、3年で終わってしまいましたから、たとえ漫才ブームが起こせたとしても5年ぐらい。それでM-1も終わるだろうと思っていました」
M-1きっかけで到来した漫才ブームは一過性で終わらず、M-1にエントリーする漫才師も右肩上がりで増え続けている。
「M-1によって、ある程度は芸人、漫才師が評価されて、地位が上がったと思います。80年代の漫才ブームのときも上がったんですけど、それでも扱いは低かった。M-1以降、バラエティー以外のテレビ番組にもお笑いタレントが出るようになって、お笑いタレントなしでは作れないと言っても過言ではない。社会的にも面白い、笑いが分かるということが、若い子のモテる条件になりましたし、もっともっと芸人の地位が上がってほしいですね」
谷氏は第10回大会でM-1のプロデューサーを退いた後も、若手の漫才を追い続け、自身のブログでM-1の感想も綴っている。
「ずっとM-1は見とかなあかんっていうのはあります。正直、『このコンビが残るの?』って思うこともあります。でも絶対に否定はしません。否定をしたらM-1の精神じゃない。新しい才能、新しい漫才を紹介するのがM-1ですし、若い感性は若い人が見つけるわけですから」