哀川翔、上京の時の決意は「俺は会社の社長になるぞ!」 運命を変えたアルバイト、そして長渕剛からの直々オファー

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1984年、23歳のときに路上パフォーマンス集団・劇男一世風靡から派生したユニット・一世風靡セピアのメンバーとして『前略、道の上より』でレコードデビューし、人気を博した哀川翔さん。

1988年には、連続ドラマ『とんぼ』(TBS系)に出演。主演の長渕剛さんの舎弟・常吉役が話題に。1990年、東映Vシネマ『ネオチンピラ 鉄砲玉ぴゅ〜』(高橋伴明監督)に主演したのをはじめ、数々の作品に主演し、“Vシネマの帝王”と称される。映画『うなぎ』(今村昌平監督)、映画『DEAD OR ALIVE』シリーズ(三池崇史監督)、連続テレビ小説『舞いあがれ!』(NHK)など幅広いジャンルの作品に出演。

2024年2月9日(金)から映画『一月の声に歓びを刻め』(三島有紀子監督)が公開される哀川翔さんにインタビュー。

 

◆大学の願書は先生が出してくれるものだと…

徳島県で生まれ、鹿児島で育った哀川さんは、小さい頃から運動神経抜群で元気な子どもだったという。5歳のときに、海上自衛隊の幹部自衛官でパイロットだった父親が機長をしていたヘリコプターと、一緒に訓練していた対潜哨戒機が徳島上空で衝突炎上。母親が臨月だったため、ご遺体の確認にはまだ5歳だった哀川さんが行ったという。

「結構しっかりした子どもだったかもしれない。父親がいないということで、『お父さんがいない子だって言われないようにしている』なんて言われたりもしていたし、おふくろも働いていたからね。

夜はおばさんがご飯を作ってくれるけど、作ったらいなくなる。だから、戸締まりをしたりとか、いろいろなことは自然とやっている子どもではあったから、しっかりしていたのかな」

――体育の先生になりたかったそうですね。一世風靡セピアのときもバク宙とかもされていましたね。

「バク宙は小学生のときからできていたからね。小さい頃から運動神経は良かったんだけど、高校のとき、たまたま運動能力テストですごく成績が良くて、それを見た担任が体育の先生だったから、体育の先生にならないかって言われて。

俺も体育の先生がいいなって思っていたところがあったから、高校1年のときに先生にも話して、日本体育大学体育学部に入るつもりで高校の3年間頑張ったんですよ。それで、先生が推薦入試の手続きとかは全部やってくれるものだと思っていたんだよね。そういう指導がなかったの。普通あるじゃない? 願書を出さなきゃいけないとかさ。それがなかったんだよ。

だから、先生が勝手に進めてくれているものだと思っていたら、『ところで、お前願書出したよな?』って言われて、『願書?そんなの知らないですよ。マジか?』って(笑)。要するに先生は推薦文を書いてくれるだけで、あとは自分で書類を集めて願書を提出しなきゃいけなかったんだよね。それがわかったときには、もうとっくに提出期限も終わっていたから、進路を変えて東京の専門学校に行くことに」

――体育の先生になるという夢は?

「もう全然。体育の先生はすぐに諦めました(笑)。考えてもしょうがないから、すぐに諦められた。『もうやることがないから社長にでもなるか』みたいな感じで、東京に出てくるときには、『俺は会社の社長になるぞ!』って(笑)。まずは東京に出たかったというのがあって、東京に出るための大義名分なんだけどね」

※哀川翔プロフィル
1961年5月24日生まれ。鹿児島県出身(出生地は徳島県)。路上パフォーマンス集団・劇男一世風靡に所属し、一世風靡セピアのメンバーとして『前略、道の上より』でレコードデビュー。『賽を振れ!』、『汚れっちまった悲しみに…』などヒット曲を連発して話題に。1988年、長渕剛さんから直々にオファーされてドラマ『とんぼ』にレギュラー出演。映画『獅子王たちの夏』(高橋伴明監督)、映画『ゼブラーマン』(三池崇史監督)、映画『Zアイランド』(品川ヒロシ監督)、大河ドラマ『真田丸』(NHK)、『借王(シャッキング)』シリーズなど幅広いジャンルの作品に出演。2024年2月9日(金)に公開される映画『一月の声に歓びを刻め』では、妻を交通事故で亡くし、未婚の娘の妊娠に動揺しながらも受け入れていく父親役を演じている。

 

◆一世風靡セピアのメンバーに

1980年、高校卒業後、東京の専門学校に進学。「社長になる」という決意を胸に上京した哀川さんはひょんなことから雑誌のライターのアルバイトをすることに。

「東京に来て遊んでいるときにカメラマンと知り合って。そのカメラマンが『ポップティーン』(飛鳥新社)という雑誌の編集部に行くというから付いて行ったら、そのままライターのバイトをすることになって。仕送りだけだと遊べないし、バイトを探しているところだったからちょうど良かったんだよね。

それで、若者の文化とか風俗を追ってこいみたいな感じで。『今何が流行っているんだ?ちょっと取材してこい』って言われて、たまたま知り合ったのが(一世風靡)セピアの前身の劇男一世風靡ですよ。それで、毎週通っているうちに俺も仲間になっちゃって、それが踊るようになって。それを何年か続けていたらレコードを出すことにという感じ」

――すごかったですね。社会現象にもなって。

「まさか売れるとは思わなかったけどね(笑)。全然思わなかったよ。普通は無理でしょう(笑)」

――硬派という感じで男っぽくて新鮮でした。

「会社はそんなに売れないと思っていたと思うんだよね。あそこまで人気が爆発するとは。でも、社会的にはすごく煽られていたからね。

俺らは、『まずはレコードを出さないで、とりあえずポスターか何か売ってみる?』みたいな感じで、デビューはレコードじゃなくてポスターなんですよ。1984年の4月25日にポスターデビュー。

『今、我に正直に生きてみたい』というポスターだったんだけど、限定2万枚即売しました。『あー、やばい!』みたいな(笑)。それで、すぐにシングルを出すことになったんだけど、最初にもうシングルの構想はありましたからね。

ただ、レコード会社はそこまで売れるとは思ってないわけですよ。だから、全然プレスが間に合わない。何週連続だったかな。ずっと1位でしたからね」

――爆発的な人気でしたね。すごかったです。

「爆発的に売れましたね。それでビデオを出して、アルバムを出したのかな。そのアルバムを引っさげて全国ツアー。行く先々すべて超満員。レコード店の売り切れ率ナンバー1が何週間も続いた」

――周囲の環境や生活も大きく変わったのでは?

「ライブをやるようになっても、ストリートパフォーマンスはやっているから、その延長なんですよね。お金もそんなにもらっているわけでもないから、生活が変わるっていうのはなく、旅をしているぐらいの感じ。

ただ、7大都市パフォーマンスツアーというのをやったときは、人の多さにびっくりしましたね。『これはもうビートルズだろう?』っていうぐらいすごかった(笑)」

――もう普通に外をフラッと歩いたりできなくなったのでは?

「そんなことはなかった。不思議なもので、団体だとわかるけど、1人で歩いていても何もないんですよ。グループでは目立っているけど、単独で歩いていても気づかない。そんなもんですよ(笑)。

ライブをやった後とかだと大集結しているから、すごい勢いでみんな追いかけてきたりするけど、個別のときは全然支障はなかったです。団体の中の1人なんてわからないものですよ。

ときどき物好きが家を探し当ててやって来る程度。ただ、キャラがキャラだから、やっぱり向こうも怖がってね(笑)。あまり近くには寄ってこないんだよ。だから、平和な日々でしたよ。全然不自由なことはなかった」

 

◆長渕剛から直々にオファー

1988年、哀川さんはドラマ『とんぼ』に出演。このドラマは、2年の刑期を終えて出所してきた長渕剛さん演じる主人公・暴力団八田組の若頭・小川英二と所属組織との抗争を描いたもの。哀川さんは、英二の舎弟・水戸常吉(つねちゃん)を演じた。

――長渕さんから直々のオファーだったそうですね。

「そうなんですよ。たまたま長渕さんのライブを見に行ったときに、(長渕さんの)マネジャーさんから『ちょっと楽屋に来ない?』って言われて。でも、俺もライブをやった後は、人にあまり会いたくないから、『いやいや、いいです』って言ったんですけど、結局楽屋に行くことになって。そのときに長渕さんから『ちょっとドラマやろう』って言われたけど、やったことがないからって断ったんですよ。

そうしたら、『いや、大丈夫だから。そのまんまでいい。そのまんまやればいいよ』って言われて。『いやいや、そのまんまでいいわけないじゃないですか』って言っても、『いや、大丈夫、大丈夫』って。よっぽどチンピラに見えたんだろうね(笑)。その当時の俺は、めっちゃチンピラみたいだったんですよ。頭はリーゼント、サングラスも外さないし、長いコートを着ているし…みたいな(笑)。

でも、大変だったと思いますよ。だって、芝居の『し』の字も知らないし、右も左もわかんないんだから。大変だったと思う」

――劇男一世風靡のときにお芝居をされていたのでは?

「芝居公演とかもやっていたけど、俺はあまり興味がなかったからやってないんですよね。俺は劇男公演の芝居に出たことないですから、芝居はほとんど初めて。

『えーっ?!』って言って考えているうちに半ば強引に『ちょっとTBSに行って』とか言われて行ったら、『長渕さんから話は聞いているよ』って言われて。まず脚本家に会って、プロデューサーに会って、写真を撮って…という感じで、すごいスピードでいろいろ進んでいって、『マジか?』みたいな(笑)」

――それも長渕さん演じる英二の舎弟の常ちゃん、メインの役で。

「本当によくしてもらいましたね。当時のテレビはリハーサルもあったし、順撮りでその環境だったからできたんじゃないですか。ただ、ものすごく稽古しましたよ」

――最初にお稽古したときはいかがでした?

「まったくうまくいかない。まったくうまくいかないんだけど、何かうまくいかないのが常っぽいみたいなところもありましたよね」

――放送が始まってすごく話題になりましたが実感はありました?

「金曜日の夜に六本木から人が消えたみたいな現象はありましたよ(笑)。自分も六本木で飲んでいた派ですからね。だから、六本木から人が消えたみたいな現象はありましたよね」

――飲みに行って声をかけられたりすることは?

「当時の六本木は業界関係が多かったですから、全然騒ぎにはならない。要するに業界の夜の世界みたいな感じだったからね、全然。ただ、酒飲みが集まっているみたいな感じだったから、今みたいにうるさいこともなかったですよね」

――『とんぼ』の撮影をしているとき、このままずっと俳優でという思いはありました?

「『とんぼ』のときはまだなかったですよね。やっぱりVシネマを連続してやりだしてからかな」

1990年、高橋伴明監督の『ネオチンピラ 鉄砲玉ぴゅ〜』に主演。哀川さん演じる主人公・水田順公(通称じゅんこう)は、これという特技も学歴もなくヤクザになった駆け出しのチンピラ。しかし、ある日突然、組を代表したヒットマンに指名されてしまう。

――Vシネマの主役と聞いたときはいかがでした?

「みんなが反対していたんだけど、(高橋)伴明さんと東映の深町プロデューサーが、『コイツでいく』って、2人だけで強引に押したみたいな感じで(笑)。

当時の東映Vシネマのラインナップって、結構顔が知られている人ばかりだったんですよ。要するに新人みたいなのは俺ぐらいしかいなかったからね」

――『とんぼ』があってもですか?

「『とんぼ』は長渕さんがいての俺じゃないですか。そうなると、やっぱり知名度的には全然低いですよ。あの当時は、西城秀樹さんとか菅原文太さんとか、本当に超有名な方たちがラインナップされていたんですよね。その1回目のラインナップに俺が載せられたわけだから、そりゃあ言われるよね。でも、いろいろ言われたけど、当たっちゃったからね(笑)」

――撮影はいかがでした?

「俺はやっぱり『とんぼ』で相当鍛えられたというか。もの作りに対する取り組み方とか考え方をすごく見せてもらいましたから、それが役立ちましたよね。そこを経てやったというのは、武器弾薬をいっぱい握って現場に入れたみたいな感じでしたよね」

『ネオチンピラ 鉄砲玉ぴゅ〜』でVシネマに主演デビューした哀川さんは、『修羅がゆく』シリーズ、『修羅のみち』シリーズ、東映Vシネマ25周年記念作品『25〜NIJYU-GO〜』(鹿島勤監督)などに主演。“Vシネマの帝王”と称されることに。

次回は、Vシネマの撮影現場、映画『DEAD OR ALIVE』シリーズの撮影エピソードなども紹介。(津島令子)

ヘアメイク:小林真之
衣装協力:Twins & Co.