浅井長政の一家、秀忠に嫁いだお江も(写真: Nori / PIXTA)

NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第43回は、家康の子、秀忠が側室を持たなかった理由を解説する。

著者フォローをすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。

側室を生かした家康、側室を持たなかった秀忠

徳川家康は、築山殿と朝日姫という2人の正室に加えて、15人の側室を持った。側室の人数については諸説あるが、家臣と同様に、側室にも個々のパーソナリティを踏まえた役割を与えているのが、なんとも家康らしい(過去記事「徳川家康、側室すら適材適所で使う組織固めの凄さ」参照)。

また、家康の側室は、西郷局、茶阿局、お亀の方、阿茶局など「子連れの未亡人」が圧倒的に多かった。その理由として「子どもを産んだ経験のある女性ならば、跡継ぎが生まれやすい」と考えたからではないか、とも言われている。

家康が16人もの子どもをもうけたことを思えば、狙い通りの結果となったといえそうだ。11人の息子と5人の娘が誕生している。

息子たちのうち、家康の後継者となったのが、3男の徳川秀忠だ。秀忠は父の家康とは、対照的に1人の側室も持たなかった。いわゆる「恐妻家」だったといわれている。

だが、秀忠の場合は、そうならざるをえない事情があった。

秀忠がお江を妻に迎えたのは文禄4(1595)年、17歳のときのことだった。お江は6歳年上の23歳である。

いわゆる姉さん女房であり、かつ、お江にとっては、これが3度目の結婚だった。実は秀忠もかつて、織田信雄の娘で秀吉の養女となっていた小姫と祝言を挙げたことがあるが、相手が早世した。これが事実上の初婚である。

また、お江は最初の結婚で2人、次の結婚で1人の子をすでに産んでいた。この時点で秀忠との力関係も決まっていたようなものだが、気の毒なのはむしろ、お江のほうだった。

お江は、近江で浅井長政の3女として生まれた。母は織田信長の妹、お市の方である。

信長によって浅井家が滅亡すると、幼い3姉妹は秀吉に引き取られることになり、お江の運命は大きく変わる。秀吉の政略結婚の道具にされ、結婚と離縁を繰り返すことになったのだ。

お江の姉、茶々は秀吉の側室に

一方、お江の姉、茶々は秀吉の側室、淀殿となり、秀吉から寵愛を受けることになる。

お江が秀忠と3度目の結婚に至ったのも、もちろん秀吉の意向である。淀殿との間に、待望の世継ぎとして秀頼を授かった秀吉としては、台頭してきた家康のことが気になって仕方がない。

老獪な秀吉のことだ。お江を徳川家の秀忠に嫁がせて、家康の後継者を豊臣家に取り込んでおこうと考えたのだろう。

一方、家康もまた有力大名とはいえ、この頃は豊臣家の家臣に過ぎない。豊臣家との関係性を強化したいという思いがあり、秀吉と家康の利害は一致することになったのである。

このように何かと政情に振り回されるのは、秀忠の人生の常だったといってよい。こんなこともあった。

天正17(1589)年、秀吉が諸大名に「妻子上洛令」を出すと、家康は11歳の秀忠を上洛させようと考える。

秀忠は3男だったが、長男の信康はすでに切腹しており、次男の秀康は母の身分が低く、城外で育てられている。秀忠は生まれたときから、家康の後継者として最有力候補だった。そのため、家康は秀忠を秀吉に早く会わせる必要があると考えたのだ。

そんな父、家康の思いを知る由もない秀忠。上洛しようとするが、秀吉からこんな申し出があった。

「幼少であり遠路は困難だろうから」

そう言われたので、途中で逗留していたところ、その判断が問題視される。

先に上洛を果たしていた家康は、秀忠が向かっていないことを知って「すぐさま上洛するように」と書状で叱責。秀吉からの気遣いがあったとしても、それを固辞して上洛しなければ、秀吉への忠誠は示せない。家康はそう危機感を募らせたのである。

自分の父がこれだけ気を遣う秀吉を、秀忠も恐れたに違いない。秀忠が上洛すると、秀吉の母である大政所自らが秀忠の髪を結い、秀吉が秀忠の頭に櫛を入れて調えている。着物や袴も新調してもらうなど、秀吉のご機嫌ぶりが、ありありと伝わってくる。

秀忠が2年後に再び上洛を果たすと、従四位下侍従に叙任され、秀吉の名前を一字もらい受けて、このときから「秀忠」と名乗るようになる。

決死のアバンチュールが名側近を生む

こんな経緯を踏まえてみれば、豊臣家から迎えたお江に対して、秀忠が下手に出るのも無理はない。

そうでなくても、お江は戦国の世を渡り歩き、すでに2度の結婚と出産を経験している。人生経験が豊富なお江は、23歳とは思えないほど、どっしりしていたことだろう。

そんな妻を恐れて秀忠が1人も側室を持たなかったのは、冒頭で書いた通りである。父の家康が2妻15妾をもったのとは、対照的だ。生真面目な秀忠を案じて、家康が美女を寝床に送り込んだが、秀忠はそれを追い返したという逸話もある。

だが、そんな秀忠も思い切った行動に出たことがあった。お静という女中とこっそり関係を持って、幸松という子を産ませている。お江を恐れて、城外で産ませたうえ、秀忠が対面することは許されなかった。よほど恐ろしかったのだろう。女中を妊娠させたとき、秀忠は家康にどうするべきか相談しているくらいである 。

とはいえ、夫婦仲が悪かったわけではない。恐妻家のほうが、夫から大切に扱われるため、夫婦仲がうまくいくとも言われたりするが、秀忠はお江との間に、3男5女をもうけている。

一方、恐妻家の目に触れぬように育てられた、秀忠とお静の子、幸松はどうなったか。幸松は、信州高遠藩の保科家へ養子に出されている。そこで竹刀振りに論語の素読と文武両道を成すべく、教育を受けることになった。元服すると名を幸松から「保科正之」と改めて、3代将軍の家光と出会うことになる。

たくましく育った秀忠の子、正之

正之にとって家光は異母兄だったが、兄弟としてではなく、あくまでも家臣として謙虚な態度をとった。そのことでかえって家光に好かれて、側近に取り立てられている。


保科正之を祀る、土津(はにつ)神社(写真:Mayumi.K.Photography / PIXTA)

秀忠が恐妻家だったばっかりに、不運にも正之は城外で苦難の道を歩むことになったが、かえってたくましく育ったようだから、人生というものはわからない。正之は、4代将軍の家綱も補佐するなど、将軍家を支える人材へと成長していく。

秀忠と怖すぎる妻とのパワーバランスが期せずして、のちの将軍、家光や家綱の側近を育てることになったのである。


【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
大石学、小宮山敏和、野口朋隆、佐藤宏之編『家康公伝〈1〉〜〈5〉現代語訳徳川実紀』(吉川弘文館)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
笠谷和比古『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』 (ミネルヴァ書房)
平山優『新説 家康と三方原合戦』 (NHK出版新書)
河合敦『徳川家康と9つの危機』 (PHP新書)
二木謙一『徳川家康』(ちくま新書)
日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』(歴史新書y)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
山本博文『徳川秀忠』(吉川弘文館)
福田千鶴『徳川秀忠―江が支えた二代目将軍』(新人物往来社)

(真山 知幸 : 著述家)