「喉から手が出るほど、欲しい――」

高級ジュエリーに、有名ブランドのバッグ。

その輝きは、いつの時代も人を魅了する。

しかし誰もが欲しがるハイブランド品は、昨今かなりの品薄状態だ。

今日もショップの前には「欲しい」女性たちが列をなし、在庫状況に目を光らせている。

人呼んで「ハイブラパトローラー」。

これは、憧れの一級品に心を燃やす女性たちのドラマである。




Vol.1 デベロッパー営業 瑞穂(35)
35歳のプレゼント【エルメス ピコタンロック】


金曜日の22時。仕事から帰ってきた瑞穂は、自宅マンションのドアを開けた。

「ただいまー」

コンシェルジュ付きのマンションだからセキュリティーは万全だとわかっているが、誰もいない部屋に挨拶をするのが習慣になっている。

「あー、今週も頑張った!」

2年前に購入した、四ツ谷駅からほど近い1LDK。ここは瑞穂の城だ。他人が足を踏み入れたことはない。

平日は仕事で散々人に気を使うので、プライベートは一人で過ごしたくなるのだ。恋人も、深い付き合いの友人も作らないでいる。

シャワーを浴びると、冷やしておいたプロセッコのハーフボトルを開け、自分をねぎらう。

― この仕事終わりの一杯がたまらないのよね。

瑞穂は、週末の1人の時間を何よりも愛している。オンとオフを切り替える大事な時間だ。この気楽な一人暮らしが気に入ってるので、今のところ結婚にも子どもにも興味はない。

若い頃は、いくら断ってもお食事会に連れ出されたり、バーで知らない男性から飲みたくもないカクテルを奢られたりしては辟易したものだ。

でも歳を重ねた今は、荒木町のバーで1人で日本酒を飲んでいても、誰からも何も言われなくなった。

先週、35歳になったばかり。この年齢に瑞穂は心から感謝していた。

プロセッコを片手に映画を見終わり、ふと壁掛け時計を見ると、時刻は1時を過ぎている。

― ああ、明日は朝早いんだから早く寝ないと。

お食事会やデートの約束なんてない。それでも最近の瑞穂の週末は、とんでもなく忙しい。



土曜日の9時30分。

― しまった、出遅れた!

エルメス 伊勢丹新宿店に到着すると、すでに数十人が並んでいた。

― お店に入るまでに15分は並ぶわね。

瑞穂の目的は、エルメスの人気バッグ「ピコタン」。3ヶ月前から探しているが、品薄でなかなか出合えない。

だから毎週末、転々と都内の店舗を探し回っている。

― 新宿になかったら、銀座店に移動しよう…。

ここまでしてでもピコタンが欲しいのは、「35歳の記念にピコタンを買う」と心に決めているからだ。


瑞穂が20歳のとき、来日したジェーン・バーキンがテレビに出ていた。

バーキンを床に叩きつけ、ボコボコに踏みつける様子が放送されていたのを、今でも覚えている。

「バーキンは、こうやって使うのよ」

― 面白い人に、面白いバッグ…。

当時は、ただぼんやりと印象に残っただけだった。

しかし半年前、瑞穂はエルメスに強い興味を持つようになる。

仕事帰りになんとなく寄ったエルメス専門店で、偶然バーキンを見せてもらう機会に恵まれた。

手袋をした店員さんがうやうやしくショーケースから取り出した、エトゥープのバーキン。デザインや、レザーのきめ細かさ、すべてが完璧なそのバッグは瑞穂の心を踊らせた。

― 私も、ジェーンみたいにバーキンを使いたい!

衝動的にそう思いながらさりげなく値段を聞くと、それは予想をはるかに上回る金額だった。

― …これは私に扱えるバッグではないわ。

早々にバーキンを諦めた瑞穂だったが、その日、運命の出合いを果たす。コロンとしたフォルムの小さなバッグ、ピコタンロックが目に留まったのだ。




店員さんに声をかけてピコタンを持たせてもらうと、瑞穂は思わず「えっ」と声を漏らした。

とてつもなく軽く、柔らかい。

聞けばトリヨンクレマンスという、レザーの中でも最高級部位を使っているとのことで、高額なその値段にも瑞穂は納得できた。

― このバッグの身軽な感じは、私の人生にぴったりかも。ひとりでふらっと映画に行ったり、バーで飲んだりするときに持ちたい!

結婚せず1人で身軽に生きていく自分のイメージに、ピコタンがリンクする。

A4サイズの書類が入らないところも、“完全プライベート用バッグ”という感じがして気に入った。

「ピコタン、すごくかわいいです…。ほしくなりました。でもこれ、中古なのになんでこんなに高いんですか?」

店員さんは微笑みながら答えてくれた。

「ピコタンは、大変人気な上に、直営店にもめったに入荷しないので、中古でも定価の1.5倍ほどの価格となっております」

― 決めた。35歳の節目に、自分へのプレゼントとしてピコタンを買おう。もちろん直営店で。そしておばあちゃんになるまで一緒に生きて、ジェーンみたいに使い倒すんだ。



「バーキンはありますか?」

声が聞こえ、回想にふけっていた瑞穂は我に返る。

エルメス 伊勢丹新宿店がようやく開店し、先頭に並んでいた女性が受付に在庫状況を聞いたのだ。




「本日は入荷がございません」

受付の返事を聞いて、女性はそそくさと立ち去った。

そのやりとりを聞いて数名が列から抜けたので、瑞穂の順番は思いのほか早く回ってくる。

「ピコタンはありますか?」

自分の番がきて、瑞穂はすかさず受付に尋ねた。しかし、女性は申し訳なさそうに言う。

「本日ご案内できるお鞄はございません」

「ありがとうございます」

― さて、予定通り銀座に移動しよう。銀座になければ丸の内を見て、そのあと表参道か日本橋を回って今日は終わりにしようかな。

毎週末のようにパトロールをしているが、ピコタンとはまだ一度も出会えていない。

「今日は朝一番でピコタンの入荷があったんですよ」と店員さんに言われたこともあるが、すぐに売り切れてしまったそうだ。

バッグを探し回るだけの1日。はたから見れば、不毛な週末かもしれない。だがピコタンをどうしても手に入れたい瑞穂にとっては、パトロールも幸せな時間だ。




水曜日の17時。

珍しく仕事が早く終わった瑞穂は、会社近くの日本橋高島屋で初めて平日のパトロールを試みていた。

夕方だからか、エルメス前の行列の長さは尋常ではない。

― 早く順番来ないかな。

行列の先頭を見ようと首を伸ばすと、その途端、瑞穂の目に大きな絵画が飛び込んできた。

― すごく綺麗!細かい模様に繊細な色!

瑞穂がじっと目を凝らしてみると、絵画だと思ったのは大判のスカーフだった。

淡い色合いの草花の模様に、よく見ると馬や犬などの動物が描かれている。瑞穂なら絶対に合わせない水色、ピンク、そしてオレンジが混ざり合っているが、不思議な調和がとれている。

気がつくと自分の番が来ていたので、思わず瑞穂は受付に聞く。

「あの…。壁に飾ってあるスカーフを見たいのですが」

受付の女性が笑顔で店内へと案内してくれて、さっそく色とりどりのスカーフを出してくれた。

「身につけるだけでなく飾る人も多い」という店員さんの話を聞くと、部屋に飾ってみたくなる。

瑞穂は、店頭に飾られていたのと同じものを1枚購入することに決めた。

「こちらのカシミアストールもおすすめです」

続いて店員さんが持ってきたのは、瑞穂のワードローブにはない、明るい黄色のストール。

身につけるだけで印象が華やかになること、そして何より肌触りがいいことに瑞穂は感動する。

― 会社帰りにさっと身につけたらかっこいいかも。

瑞穂は思い切って、ストールも包んでもらうことにした。

ソファに座って品物と会計を待つ間、瑞穂の目に留まったのは、百貨店の店員とおぼしき人を連れて買い物をしている同年代の女性だ。

「どうして何度来てもミニケリーが出てこないのかしら?」

「こればかりは、我々外商部にもどうにもならないことでして…」

― さすがエルメス。信じられないぐらいのお金持ちも普通に来るのね。

彼らの会話を聞きながら、瑞穂は不思議と落ち着くエルメスの店内を見渡した。

― 次は…あのマグカップやプレートも買っちゃおうかな。部屋に飾ったスカーフを見ながら、おいしくご飯が食べられるように。

瑞穂は、「モザイク 24」シリーズのマグカップとプレートを見つめる。モノトーンの幾何学模様に「H」のロゴが美しい。

ピコタンのことはしばし忘れ、さっそく次の買い物へと思いを巡らせた。




スカーフとストールを買ったので、四ツ谷のマンションのローンの月額とほぼ同額を費やしてしまった。

しかし、お気に入りのモノを手に入れられた高揚感には抗えない。

― 一生ものよね。大切に使おう。

さっそくスカーフをリビングの壁に飾った。

気分が上がった瑞穂は、深夜まで手持ちの服でファッションショーを繰り広げる。

― ああ、このストールに合う服、持ってないかも。

そこで次の日には、ストールに合うシンプルな服も買いそろえた。



その週末から、瑞穂はパトロールの内容を変えた。

単にピコタンの入荷状況を確認するだけではなく、“一生もの”と出会うために店内をしっかり見て回ることにしたのだ。

先日接客してくれた店員さんが、運よく瑞穂を覚えてくれていた。

彼女に頼んでマグカップとプレートを購入し、ついでにコートまで試着させてもらう。

「実は私、ピコタンを探しに来てたんです。でもシルクも、食器も、お洋服も本当に素敵で、エルメスのファンになってしまいました」

一度にたくさんのものは買えないのでコートはまたの機会にさせてもらい、「また来ます」と店を後にする。

こうして瑞穂は、毎月エルメスで買い物をするようになった。




ボーナスではコートを買い、時計を新調し、夏用にサンダルも予約した。自分のためだけに買った一生もののお気に入りに囲まれる生活は、最高だった。

最初に接客してくれた店員さんも、瑞穂が訪れると、必ず駆け寄ってきてくれるようになった。

エルメスで買い物し続けて10ヶ月が経ち、気づけば35歳も残り1ヶ月ほどになったとき――。

「今日は、何か新作は入っていますか?」

その日いつものように瑞穂が聞いてみると、店員さんは「こちらへどうぞ」といつになく真剣な様子で言った。

― え、個室?もしかしてピコタン?

個室に通された瑞穂の前に置かれた、オレンジの箱。

「今日、ちょうど入荷があったんですよ」

そう言って箱を開けると、中から現れたのは、なんとバーキンだった。しかも、かつて専門店で見せてもらったのと同じエトゥープのカラーだ。

「すごく素敵…」

ピコタンを買いたいとあれほど思ってきた瑞穂だったが、店員さんにバーキンを案内されたことが心の底から嬉しく、心をわしづかみにされる。

かつて「私には扱えない」と恐縮したバーキンも、今なら堂々と迎えられるような気がするのだった。

「…私にも、ジェーン・バーキンみたいに使いこなせるかしら?」

バーキンが放つ神々しいまでの佇まいに瑞穂がつぶやくと、店員さんが笑顔で言ってくれた。

「誰かみたいに、ではなく、ご自分のお好きなように使うのが一番素敵だと思います」

1年近くもの間、買い物に付き合ってきてくれた店員さんの一言に、瑞穂は思わず笑顔になる。

「買います。私らしくバーキンを使いこなして、これからも私らしく生きていきます!」

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