公園や保育園、そして道路で遊ぶ子どもたち。その声は“騒音”なのでしょうか(写真:マハロ/PIXTA)

4月下旬、「子どもの声は騒音ではないとする法律」の制定を政府が目指しているという報道がありました。岸田総理が掲げる「異次元の少子化対策」の一貫でしょうが、数カ月前に大きな話題となった長野市の青木島遊園地の廃止問題が念頭にあるのも間違いないでしょう。

政府関係者は「ドイツでは、法律で騒音の定義が『騒音(こどもを除く)』となっている。日本も一部の自治体で条例として定められているが、それをもっと広めていきたい」とコメントし、岸田総理自身も「これこそ次元の異なる政策であると考えて、これからも政策を進めていきたい」と、前向きな発言を行っていました。(いずれも「TBS NEWS DIG」より)

子どもの声は“騒音”なのかという議論

これに対しネット上では、「こんなことを法律で決める時代になってしまったのか」「法律で決めたところでうるさいものはうるさい」「子どもが子どもらしく遊べる環境を作るのは大歓迎だ」など賛否両論が沸騰しました。

しかし、その後のこども家庭庁への取材では、「今のところ課題として対応している事実はない。将来もどうなるかはまだはっきりしない」(東京新聞)と、歯切れの悪い回答だったとのことでした。とはいえこのまま動きが消滅するとは考えづらく、今後、どのような展開になるのかが大変気になります。

ちなみに、上記の政府関係者の発言にあるドイツの法律とは「連邦イミシオン防止法」のことであり、これは公害関係の排出規制法に相当するものです。騒音も排出規制の対象に含まれていますが、保育園などへの騒音訴訟が相次いだため、2011年に子どもの声を対象から外す改正を行い、賠償請求訴訟等を原則認めないこととしたのです。

また、条例を定めている一部の自治体とは東京都のことであり、東京都では「都民の健康と安全を確保する環境に関する条例」(略称:環境確保条例)が制定されています。その第136条には「何人も、(中略)、規制基準を超える(中略)騒音、(中略)の発生をさせてはならない」となっています。

従来は、この「何人も」の中には子どもも含まれるという解釈ができたため、2015年3月にこの条例の改正を行い、子どもの声や保育園等で発生する音(音響機器や遊具の音など)を条例の数値規制から除外することにしたものです。その後は、受忍限度で判断されることになります。

このように、これらの改正は子どもの声を“騒音”から除外するというよりも、 “公害騒音”から除外するという趣旨であることには注意が必要です。

いつから子どもの声は“騒音”とされるようになったのか

子どもの声が“騒音問題”として最初にマスコミに登場するのは、朝日新聞が2000年の年初から始めた連載記事「少子の新世紀」の中の滑り台の記事でした。

「子どもの遊び声がうるさい」として滑り台の設置場所が転々とし、最終的に交通騒音のうるさい道路端の公園に落ち着いたというもので、その後のコラムなどでは「さまよう滑り台」と呼ばれました。ここでも、子どもの声が少子化問題とリンクして扱われていたことは興味深い事実です。

その後、子どもの声や学校への騒音苦情が多発するようになり、2006年には熊本市の小学校体育館から発生する子どもの声やボール音がうるさいとして損害賠償を求める訴訟が提起されました(後に和解成立)。

他にもさまざまな訴訟が提起され、中でも特に社会の耳目を集めた子どもの遊び声の騒音問題は、東京都西東京市のいこいの森公園での騒音差し止め請求事件でした。

市町村合併で発足した西東京市が、合併記念事業として研究施設の跡地に新たな市民公園を建設しましたが、そこには水が間欠的に吹き出す噴水の遊び場が設置され、子どもたちの遊び声や歓声が響くようになりました。

公園脇に住居を構える女性が子どもの声がうるさいと市側に対策を求めましたが、市は子どもの声は騒音ではないとこれに応じなかったため、女性が東京地裁八王子支部に騒音の差し止めの申し立てを行い、子どもの声が騒音かどうかの司法の判断が下されることになったのです。

結果は女性の申し立てを全面的に認め、噴水の停止が決定しました。この場合は保全事件のため決定文の内容は非公開となっていますが、他の訴訟の証拠資料として提出された記録によれば、その決定文の中で裁判官は次のように述べています。

〈市は子どもの声を騒音と感じる感覚がおかしいというが、一定の音量を超える子どもの声が騒音であることは自明であり、市の主張に添えば、上映中の映画館で騒ぐ子どもも制止できない事になる〉

新聞などでは、この結果を「子どもの声は騒音?」と大きな見出しで紹介しましたが、決定文が非公開のためまだ疑問符がついていました。仮に、これが訴訟における判決文の中で書かれた内容であったなら、大変に大きな意味を持つ一文になったことでしょう。

子どもの声は騒音か、騒音でないのか、もし子どもの声は騒音ではないとするなら、条件付きなのか無条件なのか、それを法律で決めることに社会的な意義があるのか、あるいは弊害を生むのか、大変に難しい問題です。仮に、保育園や学校、公園での子どもの声を騒音でないとした場合、例えば、次の問題はどうなるのでしょうか。

Twitterでも話題となった「道路族問題」はどうなる

子どもの遊び声が問題となるのは、公園や保育園ばかりではありません。もっと深刻な問題が「道路族問題」です。

道路族と言えば、昔は、田中角栄に代表されるような道路建設利権に群がる政治家を指していましたが、今はそれが、袋小路の道や交通量の少ない道路で遊ぶ子どもたちやそれを許す親達に変わっています。後者の命名は暴走族からの発想と思いますが、政治家から子どもたちへ、いろんな意味で人間の両極端に位置する存在へと名称が移り変わったことは実に面白いですが、現実は面白がっている状況ではありません。

4月25日にはTwitterで、「自宅前でドッジボールに興じる道路族がいて、駐車の邪魔になったり、家の門柱や塀にボールをぶつけられたりするなど迷惑を被っている」という人のツイートを暴露系インフルエンサーが紹介し、大きな話題を呼びました。

このときフォロワーの意見は割れ、「人の家にボールをぶつけるなんて信じられない」「道路で遊ぶなんて危なすぎる」といった反対意見もあれば、「田舎ではこれくらい普通」「昔はみんな道路で遊んでいた」という擁護や理解を示すコメントもつくなど、賛否両論の反応がありました。


暴露系インフルエンサー・滝沢ガレソ氏が紹介したツイート(画像:滝沢氏のTwitterより)

また京都市では、分譲住宅地に入居した家族同士で、事件や損害賠償訴訟にまで発展した道路族トラブルが発生しています。自宅前で大声で遊ぶ子どもたちの騒音に悩まされていた女性が、子どもらの家族に注意をしたところ、逆襲されていやがらせを受けるようになったというものです。

子どもらの親の一人の男性が、苦情者に威嚇行為を繰り返したとして迷惑防止条例違反で略式起訴され、罰金30万円を科せられる結果となりました。

神奈川県横浜市では、自宅前の袋小路の道路を遊び場とする小学生たちに注意をしたところ、親たちからの集団嫌がらせが始まり、それに耐えかねて引っ越しを余儀なくされ、重度のストレス障害も発症したとして、損害賠償や慰謝料を合わせて1100万円を請求する訴訟も起こっています。

しかし判決は、〈我が国では昔から道路が子どもの遊び場や住民の交流の場として利用されてきた経緯があり、袋小路の道路からの騒音が、道路本来の正常な利用の仕方によるものでないとしても、直ちに違法と言えるものではない〉というものでした。

子どもたちの道路遊びは違法ではなく、道路遊びの騒音が受忍限度を超えているとはいえないという判決です。

しかし、これは日本人の昔の感性に基づいた判決であると感じてしまいます。通常はそこに音源がないにもかかわらず、利用者だけの都合で音を発生させ、それを強制的に聞かされる状況をつくるというのは、現代では間違いなく騒音です。保育園や公園は、子どもの声が発生する必然性があるため、それは騒音でないと言えなくもないですが、道路族の場合には騒音ととらえられても仕方ないと考えています。

昭和に「子どもの声」で裁判になった事例はない

上記の条件を当てはめると、話題になった「ストリートピアノ」も騒音ということになります。ストリートピアノとは、駅や街中の施設など公共の場所に設置された誰でも自由に弾けるピアノのことです。酔って騒いでピアノを弾くなどの迷惑行為の場合にはもちろん騒音ですが、それ以外の場合でも人によっては騒音と感じることもあるでしょう。

子どもの遊ぶ声、道路族の騒音、ストリートピアノの音、いずれも騒音であり、騒音でないかもしれません。現代は、声と音と騒音の区別のない混沌の時代なのであり、このような議論自体が無意味な時代なのです。その結果、問題自体を消去してしまおうという考えが蔓延しているように思います。青木島遊園地は廃止、ストリートピアノは撤去、子どもの声は法律で騒音でないと決めてしまうことです。

これらはすべて問題消去の発想であり、問題対応の形ではありません。うるさいからと音響信号機を撤去し、視覚障害者が困ってしまうという端的な例もありますが、なくしてしまうことには必ず弊害があることにも理解が必要です。

ほんの数十年前までは子どもの声が騒音だという認識は日本人にはありませんでした。それどころか、大正時代の終わり頃まで騒音という用語さえなかったのです。

明治の時代に日本各地を旅して回り、その旅行記を残したイギリス人女性のイザベラ・バードは、とある旅館に宿泊した折、襖一枚向こうの部屋で夜遅くまで宴会をして騒ぐ人たちを、まるで悪魔のようだと罵っています。しかし、同じように宿泊していた日本人は誰もそのように感じず、それが普通のことだと思っていました。

この現代社会では信じられないような感性で、いまや騒音など気にするほうが悪いなどという極論が通るはずがないことは言うまでもないでしょう。

子どもの声に関してもこれと同じです。昭和の時代には、誰も子どもの声が騒音だとは思っていませんでした。今でこそ保育園相手の裁判も珍しくなくなりましたが、昭和の時代に子どもの声がうるさいと裁判になった事例は1件もありません。

なくすのではなく、変化に合わせた対応を

しかし、時代は大きく変わりました。子どもの声に悩まされる人や、苦情が発生する状況があちこちで見られ、裁判になる事例も多く見られます。これらの人に、子どもの声に悩まされるなんて感覚的におかしいとは誰も言えません。

それは、旅館に泊まって宴会の音が深夜まで響いて眠れないのを、明治の人はそれでも平気だったんだから、あなたもそれに慣れなさいと言っていることと同じです。昭和の時代では騒音でなかった子どもの声が、平成時代の中頃から騒音に変わってきたというのは時代の変化であり、だれもそれを非難できるものではありません。大事なことは、変化を否定することではなく、変化に合わせた合理的な対応を行うことです。

どう対応すべきかは、既往記事『公園閉鎖問題」苦情住民だけが悪いと言えない訳』を参照してください。子どもの声を騒音ではないと言い切るところからは、トラブルこそ生まれ、良好な環境は決して生まれません。

ただ、これだけは注意しておく必要があります。それは、子どもの声も騒音(適度な管理と配慮が必要な音)ですが、決して公害騒音(ないほうがよい音)ではないということです。これを混同した議論が行われることもありますので、この点は十分に注意が必要です。政府の発表が、くれぐれも“異次元の騒音対策”にならないことを願っています。

(橋本 典久 : 騒音問題総合研究所代表/八戸工業大学名誉教授)