時代の変化に伴い、お寺の在り方にも変化が……(写真:SA555ND/PIXTA)

「お寺でもキャッシュレス決済をしたい」「葬儀はせず直葬でいい」など、お寺を取り巻くニーズは変化しつつある。お寺はそのようなニーズにどう応えてきたのだろうか。また、これからのお寺はどうあるべきだろうか。

4月に『お寺の行動経済学』を上梓した慶應義塾大学商学部の中島隆信教授が「お寺を取り巻く変化とその未来」について解説する。

キャッシュレス決済の影響

近年のスマホの普及は、キャッシュレス決済を広く浸透させた。バーコードを読み込ませたり、端末にかざしたりするだけで簡単に支払いができるようになった。駅の券売機の数も減り、銀行のATMの台数も以前より少なくなった。


こうした動きに敏感に反応したところがある。2019年6月、京都仏教会は、賽銭や布施など宗教活動に関わる金銭のキャッシュレス化に反対する声明を発表した。

その内容は、「寺院の宗教活動は世俗の事業とは本質的に異なる」「収益事業として宗教課税をまねく恐れを憂慮する」などの8項目からなる。ようするに、お寺の事業は宗教活動であって、通常の市場取引とは違うということだ。

だが、「自分たちは違う」という主張がどこまで通るかは大いに疑問である。なぜなら、葬儀のさいに、戒名を授けお経を上げて布施を受け取る部分だけを切り取れば、通常の請負業のようだし、墓地を管理して護寺費を受け取る行為自体は倉庫業と変わりなく見えるからだ。

2008年9月、最高裁はお寺で行う「ペット供養」が収益事業であるとの判断を示した。その根拠は、同等の事業を民間営利企業も行っており、宗教性が薄いということである。この判決を目にした国民が、お寺の事業の宗教性に疑問を持つようになってきたとき、仏教界は果たして説明ができるだろうか。

いま、仏教界に求められているのは、自分たちの行っている活動が仏教の教義に基づくものであるという説明である。

行動経済学者のアリエリーによれば、お金を失うことの「痛み」は支払い方によって変化するという。たとえば、プリペイド方式はコンビニなどで金額をあまり確かめず気軽に「ピッ」と支払ってしまう。クレジットカードは時間が経過してから他の支払いとあわせて銀行口座から引き落とされるので「出した感」は少ない。

実は、この出費の痛みは大乗仏教の教えと深い関係がある。そもそも布施とは、利他行を奨励する大乗仏教の重要な徳目であり、出費の痛みを喜びと感じることが肝要とされる。布施が喜捨ともいわれるゆえんである。

アリエリーによれば、最も痛みを伴う出費は現金ということなので、仏事に関連する金銭のやりとりを布施と定義づけるのであれば、それを現金に限るのは教義とも整合的な方法と思われる。

ただ、キャッシュレス決済を導入しようとする背景にはお寺側の事情もある。それは、賽銭箱に入れられた小銭を整理し、金融機関に持って行くために相当な手間がかかることに加え、2022年から郵便局が窓口での硬貨の預け入れに手数料をとるようになったことだ。たとえば、1万枚の1円玉を預け入れると11000円も手数料がかかるのである。

したがって、キャッシュレス決済は賽銭やお守りなど少額の布施に限定し、それ以外は現金という方式がより現実的なように思われる。

追善供養の意味するところ

葬儀は死者を見送る儀式である。したがって、それが持つ意味は、亡くなった人に対してではなく、見送る人たちに対して説明されなければならない。

仏式葬儀の根拠は、平安時代に源信という僧侶によって著された『往生要集』にある。同書の原典は中国で生まれた「十王信仰」にあるとされ、その内容は、死後、生前の行いが10人の王によって裁かれ、不道徳的な行いがあった場合は地獄行きになるというものである。

そして、死者が極楽に生まれ変わるためには、遺された人たちが念仏を唱え旅立つ人の罪を清める必要があると説かれている。

これがいまの仏式葬儀の宗教的な意味である。仏事のさいに、参列者が仏前で手を合わせ、「御霊前」を差し出すのは、死者に代わって善行を追加し、お供え物をする「追善供養」であり、死者が成仏できるようにという祈りなのである。

こうした本来の意味を現代人がどこまで理解しているかは不明だが、近年の葬儀の簡略化傾向を見ると、「追善供養」の意味が変わってきているように思われる。

すなわち、高齢で亡くなる人が増えたために死を悼むという感情が薄れたことに加え、孤独死のように追善する人たちが存在しないケースも多くなってきているのである。

なかには生前に親族や親しい人たちとの「お別れ」を済ませている人や、遺族の懐具合を忖度して賑々しい葬儀は不要と言い残す人もいるようだ。そのため、葬儀をせず病院から火葬場に直行する「直葬」も見られるようになっている。

だが、こうした動きは「追善供養」の意義を否定するものではない。その根拠は、青森県の下北半島にある恐山菩提寺という霊場にある。当地を訪れると、供養の本来の意味を知ることができる。なぜなら、明確な動機をもった人たちがここを訪れているからだ。

おそらく、不慮の事故、自然災害、この世に生を受けることができなかった命など、さまざまな「浮かばれない死霊」に対するやりきれない思いや後ろめたさを持った人たちが、死出の旅路に困らないよう、来世で楽しく暮らせるよう、かざぐるまを地面に刺し、硬貨を置き、靴や衣類や飲食物を供えていると思われる。

硫黄臭が漂う荒涼とした地に足を踏み入れることで、参拝者は故人の霊を直接感じることができ、自らの「彷徨える心」を落ち着かせようとしているのではないだろうか。

そうした自発的な思いがあって初めて、供養という名の祈りが成立するように思われる。そうでなければ、恐山ほど不便な場所にわざわざ足を運ぶとは思えない。テレビ番組で紹介されたことで観光客が増えたようだが、物見遊山で行く場所でないことだけは明らかだ。

祈願は立派な社会貢献

数ある仏教宗派のなかでも、浄土真宗は信者の祈願を受け付けない点に特徴がある。その理由は、「願いがかなっても満たされず、尽きない欲望のなかで迷い続けるから」とされている。

この考えは、「こだわりを捨てる」という仏教哲学に通じるが、祈願は単に「願いがかないますように」と手を合わせるだけのものではない。そこには、祈願を通じて自らの行動を律するという意味合いも含まれている。

たとえば、お寺で健康祈願の祈禱をしてもらった人は、「もう何をやっても病気にならない」と考えるだろうか。合格祈願をして境内に絵馬を掛けた受験生は、「これで勉強しなくても大丈夫」と思うだろうか。

むしろ逆だろう。健康祈願をした人は以前に増して健康に留意し、合格祈願をした受験生はますます勉学に励むに違いない。交通安全祈願は、より一層安全運転をするという決意表明なのではないか。

つまり、お寺での祈願は、仏を前に自らの行動を振り返るとともに、今後さらなる精進をするという「約束」なのである。これは結婚式と同じ意味を持つ。神仏を前に永遠の愛を誓うことで、2人の関係が長続きするよう努力することを約束するのである。経済学ではこれを「コミットメント」という。

さらに重要なことは、こうした祈願が個人の「ご利益」だけに留まらない点だ。祈願のあと一層の安全運転を心がければ、交通事故を防ぐことができる。健康に留意すれば、生活習慣病を回避し、国民医療費の節約になる。

そして、商売繁盛の祈願をして仕事に励めば、社会はより豊かになるだろう。祈願のコミットメントは、立派な社会貢献なのである。これはまさしく「仏の見えざる手」のなせる業といえるだろう。祈願は大乗仏教の提唱する利他行の実践といえる。

次代を担う僧侶たちへ

人生には成人、就職、結婚などさまざまな節目がある。こうした節目における祈りには、コミットメント効果が期待できる。にもかかわらず、お寺が専ら葬儀にかかわっているのは何とも勿体ない話といわざるを得ない。

どの時代に生きる人間も、取り巻く環境に応じた苦しみがあり、祈りがある。日本の仏教寺院が、どこまで現代人のニーズに対して的確に対応してきたかどうかははなはだ疑問である。秘伝のタレを継ぎ足して使っている老舗料理店よろしく、親から檀家寺を受け継ぎ、同じことを同じようにやってきたところがほとんどではないだろうか。

日本の仏教寺院の命運は、次代を担う僧侶たちがどこまで現状に危機意識を持つか否かにかかっている。

(中島 隆信 : 慶應義塾大学商学部教授)