旧日本海軍の零式艦上戦闘機は、5年におよぶ量産の間に様々な型式が作られました。なかでも最も多く生産されたのが五二型です。このタイプは国内でもいくつか実物が見られますが、鹿屋市で展示されている1機はまた特別な機体です。

海上自衛隊が保有数する唯一の零戦

 鹿児島県南東部に位置する鹿屋市には、海上自衛隊の鹿屋航空基地があります。ここには2023年現在、P-1哨戒機を運用する第1航空隊(第11および第12飛行隊)や、ヘリコプターを使って要員教育を実施している第211および第212教育航空隊などが所在していますが、元々は旧日本海軍の飛行場であり、1936(昭和11)年から第2次世界大戦終結までは旧日本海軍の鹿屋航空隊がこの地にありました。

 鹿屋航空基地の隣接地には、その歴史を残すために開設された史料館があります。ここは普段から一般に公開されており、屋外にはP-2J対潜哨戒機やUS-1A救難飛行艇、HSS-2A対潜ヘリコプターなど、かつて海上自衛隊で使用されていた各種航空機が保存・展示されています。また前述したように、この地はかつて旧海軍の飛行場であったことから、道路を挟んだ反対側には旧海軍の二式飛行艇も展示されています。

 二式飛行艇で現存するのはこの1機だけであり、極めてレアな存在ですが、その二式飛行艇に比肩する機体といえるのが、史料館のなかにある零式艦上戦闘機、通称「零戦」の復元機です。


鹿屋航空基地史料館の2階ホールに展示される零戦五二型。主翼には20mm機銃が左右に1挺ずつ装備されており、これは五二型や五二甲型、五二乙型にも当てはまる(吉川和篤撮影)。

 展示されているのは史料館の2階フロア。ライトに照らされキラリと光っているこの堂々とした零戦は、最も生産数の多いタイプ「五二型」といわれるものです。360度ぐるりと見学することが可能で、さらにタラップを上がれば計器パネルや操縦桿およびレバーなど精緻に復元された操縦席の内部も見ることができます。

 加えて、部品ひとつひとつがピカピカに復元された栄二一型発動機(エンジン)や、固有武装として装備していた九九式二号20mm機銃などもその横に展示されているほか、周囲にはかつての海軍航空隊にまつわる資料や、特別攻撃(特攻)隊として出撃した搭乗員の遺品も公開されており、それらを見て回れるようになっています。

最も多く生産された「五二型」その特徴は?

 零戦は1940(昭和15)年から終戦の年である1945(昭和20)年までの5年間に渡って生産された旧日本海軍の主力戦闘機です。1万機以上が作られたため、時期によって量産タイプも発動機や武装、機体や翼の形状などに違いがあり、一一型から六四型までさまざまなバリエーションが生み出されています。

 鹿屋の史料館に展示されている五二型は、その中で最も生産数が多いモデルで、約6000機が作られました。このため程度は様々ながら、国内でも鹿屋を含め、靖国神社の遊就館など計6機が保管・展示されています。


予備の増槽(燃料タンク)を胴体下に吊るし、整備員が乗り込んで出撃準備を行う零戦五二丙型。機首のカウリング周りには、五二型から採用された推力式単排気管が見える(吉川和篤撮所蔵)。

 零戦三二型を改良した二二型を基に、さらなる発展型として誕生した五二型は、艦上戦闘機の特徴であった主翼の折畳み機構を廃止して翼幅を短縮しています。また発動機は二二型と同じ栄二一型(出力1130馬力)のままでしたが、より一層のスピードアップを図るべく排気管を機首の外環に沿って1本ずつ配置する「推力式単排気管」という構造に改良しているのが特徴です。これによりカウリング回りの空気の流れを整えながら「ロケット効果」による後部への推進力の増大を図ったことで、最高速度は二二型より20km/h速い565km/hまで向上しました。

 なお武装については、五二型および五二甲型では、主翼の20mm機銃2挺と機首に装備した7.7mm機銃2挺というものでしたが、派生型の五二乙型では主翼の20mm機銃2挺こそ変わらないものの、機首右側に装備する7.7mm機銃が13.2mm機銃に更新・強化されています。さらに五二丙型では主翼の武装が20mm機銃2挺と13.2mm機銃2挺の計4挺に増やされた一方、機首の武装は7.7mm機銃が外され、13.2mm機銃1挺のみに絞られています。

“ニコイチ”で復元された鹿屋の目玉

 こうして「零戦」としては完成の域に達したといえる性能を誇った五二型でしたが、生産が始まった1943(昭和18)年8月には艦載機としての空母での運用はすでに狭まっており、もっぱら陸上基地を拠点とする防空戦闘機としての役割を担うことの方が多い状況でした。

 さらに1944(昭和19)年10月のレイテ沖海戦以降は、胴体下に爆弾を搭載した特攻機としても使用され、鹿屋の地からも数多くの零戦五二型を含めた神風特別攻撃隊が出撃して、908名のパイロットが還らぬ人となっています。


リニューアルオープンした1993(平成5)年7月の日付が入った史料館入口の石碑。奥には建物が、その手前にはHSS-2A対潜哨戒ヘリコプターなどの屋外展示が見える(吉川和篤撮影)。

 では、そのような鹿屋の地に零戦が展示されるようになったのはいつなのでしょうか。そもそも海上自衛隊の鹿屋航空基地史料館が開設されたのは、半世紀前の1973(昭和48)年12月のことです。その後、大規模な改修を経て1993(平成5)年7月にリニューアルオープンした際に、史料館の目玉のひとつとして展示が始まったのが、この零戦五二型でした。

 ただ同機は、元々は別々の場所から見つかった五二型2機を、ともに補う形で1つの機体として復元したものです。見つかった場所は錦江湾と吹上浜の海底で、両機とも終戦から50年近くも海水に浸かった状態であったことから、双方の引き揚げ当時の写真を見るとかなり痛んだ残骸のような状態になっていたことがわかります。そこから現在のような立派な姿にまで復元されたのですから、その作業には多くの海上自衛隊員による多大な尽力があったことは想像に難くありません。

 こうした関係者の熱意により、鹿屋航空基地史料館の展示物となった零戦五二型であるため、日本の技術遺産としてだけでなく、戦争の悲惨さを後世に伝える“証人”としても貴重な存在といえるでしょう。

 なお、今年(2023年)は鹿屋航空基地史料館が開設されてからちょうど50年、零戦五二型の展示が始まったリニューアルオープンから数えてもちょうど30年の節目の年です。改めて、屋外の二式飛行艇含め、南国の鹿屋へ見学に行ってみるのも良いのではないでしょうか。