「SAPIXにも英語の塾にも通わせない！」人一倍教育熱心なママが、決断したワケ
「海外で、挑戦したい」
日本にいる富裕層が、一度は考えることだろう。
そのなかでも憧れる人が多いのは、自由の街・ニューヨーク。
全米でも1位2位を争うほど物価の高い街だが、世界中から夢を持った志の高い人々が集まってくる。
エネルギー溢れるニューヨークにやってきた日本人の、さらなる“上”を目指すがゆえの挫折と、その先のストーリーとは？
現状に満足せず、チャレンジする人の前には必ず道が拓けるのだ―。
Vol.9 ニューヨークの受験戦争に飲み込まれた母
陽子（32歳）
「ゆいちゃんのところ、マレーシアに教育移住するらしいよ」
ある日幼児英語教室で同じクラスのママ友からそんな話を聞いた。
最近周りではハワイのサマースクールに通わせたり、親の転勤でドイツや中国に行ったりと、子どもたちの海外経験の話題が絶えない。
私は焦燥感を感じた。
息子の研は3歳。
夫は国内外にいくつか飲食店を経営し、お金に余裕はある。だが、多忙でまとめて休みも取りづらく、転勤もない。
海外旅行に行くことはあっても、海外赴任や移住は経験がなかった。
「小さい頃から海外で生活をすると、グローバルな視点が養われるって言うし、今やバイリンガルは当たり前よね！」
私は大きく頷く。
これまでは小学校受験のことばかりを考えていたが、教育の最終ゴールは、高学歴をつけて、稼げる仕事に就いて自立すること。
今や目指すは国内の大学や企業だけではない。
その夜、息子が寝た後に教育移住について調べてみた。
希望はイギリスかアメリカ。イギリスのボーディングスクールは7歳から寮生活の受け入れがあると言うが…。
― こんな小さいうちから親と離れた生活をさせるのは不安。やっぱり短期？足りないかな…？
そう思いながら調べていると、アメリカに興味が湧いた。
小学校でも飛び級制度やG＆Tプログラムという、一部で“天才育成クラス”などと呼ばれる制度があるという。
― 幼少期から教育が進んでるのね。
だが、小学生から教育のためにビザ取るのはなかなか難しいようだ。
夫も転勤予定はないし、英語の話せない私と子どもだけで移住できるだろうか。
その時、夫が帰ってきたので話をしてみた。
「じゃあ、家族でニューヨークに住むか？」
「そんなことできるの！？」
驚いた私に夫が答える。
「ちょうどマンハッタンに出店しようと準備をしているんだ。誰かに任せるつもりでいたけど、現地調査も兼ねて、軌道に乗るまで俺も行こうかと思って」
私にとって、願ったり叶ったりの展開だった。
そうして1年後、私たちは本当にニューヨークへの移住が実現した。
◆
夫が一軒家がいいと言うので、ブルックリンに移住を決めた。
夫は、日本とニューヨークとを行き来する生活に追われ、さらに忙しくなった。
研を公立幼稚園に通わせながら、“天才育成クラス”といわれるG＆Tプログラムのための準備をした。
せっかくニューヨークまで教育のために来たんだからと私も気合が入る。
テストに受かるためには、Grade2までには結果を出さなければならない。
テストは中国語やスペイン語などは通訳付きで受けられるが、日本語はない。ネイティブ並みに英語の理解が必要になる。
私はSNSなどで繋がった教育熱心な母親たちから情報を聞き、英語の家庭教師をつけた。
― テストに間に合うかな…。
徐々に会話力はついているが、読み書きの方は、まだまだ足りない。
周りがG＆Tテスト対策の塾や専門の家庭教師を雇っているのに、うちは遅れをとっている。
英語を流暢に話せない私は、ママたちの輪に入ることもできず、情報を得られずますます焦りを感じる。
◆
2年後。
努力が報われ、研が何とかテストに合格し、Grade1（小学1年生）からクラスを移れることになったのだ。
喜んだのも束の間、そこからがスタート。
小学校1年生だというのに、大量の宿題が出される。
授業のスピードも早く、予習をしなければついていけない。
さらに、もう一つ問題があった。
最近、日本語を忘れかけているのだ。
英語の学習のため、日本語を話すのは私と話すときだけで夫とは英語で話していた。
同じクラスの日本人・優斗くんとも、英語で話す。
平日は塾と家庭教師、週末は日本語学校と家庭教師。
幼稚園から成績がつくため、気を抜けない。
さらにGrade5（小学5年生）になれば、今度はCTY（Center for Talented Youth）という選ばれし者のみが参加できるサマープログラムがある。
ここにいけば、他の学校からも優秀な生徒が集まり刺激になるし、進学にも有利になる。
私は必死で研を勉強させた。
「どうしてわからないの！」
思わず出た大きな声に、研がビクッとした。
成績が下がってきた彼に、イラ立ちを感じる。
「そんなに怒るなよ、研だって頑張ってるんだから」
夫が注意しに来たが、私はさらにイラついた。自分は全く子どもの面倒を見ないのに、気軽に口だけ出さないでほしい。
最近は夫との関係もギクシャクしている。
私が大変な時に彼は出張でいつもいない。それなのに、子育てのことに口を挟む。
そんなある日、担任の先生からメールが届いた。
翻訳アプリを使いながら内容を確認する。
要約すると、最近研が友達と揉めることがあるので、注意してみてほしい、という内容だった。
私は内申に響いては困ると、塾から帰ってきた研に話を聞いてみた。
「最近お友達とうまくいってる？」
すると彼は「うーん」と考えた後、言った。
「友達なんていないよ。みんな敵だから」
「優斗くんは？仲良かったじゃない」
「あいつ嫌い。みんないじめてるし」
平然とそんなことを口にする息子に、ドキッとした。
「研もいじめてるの！？」
「僕はしない。でもいじめられる方も悪いんだ」
なんの感情もなくそう口にした我が子が、自分の知っている可愛かった息子には思えず、恐ろしくなった。
「そんなこと言っちゃダメ！」
私が思わず声を張ったことに驚いたのか、研がうわーっと大声で泣き出した。
「優斗はずるいんだ、勉強しなくたっていい点が取れるし、家族で遊びに行けるし。僕だってお父さんとお母さんともっと遊びたい…」
これまで溜めてきたものが一気に溢れ出たように、わんわん泣き続ける息子を見て、私はようやく、自分の間違いに気がついた。
初めは“子どもに苦労させないため”と思っていた私は、いつの間にか“自分のプライドのため”に代わっていたのだ。
「子どもの頭の良さは、母親に似るって言うからね」
義母から言われた言葉だ。
彼女はご主人を早くに亡くし、1人で子どもを育て、夫を苦労して東大に入れた。
その後、夫は外資戦略系コンサルタント会社に就職した後、義母が経営していた居酒屋を引き継いだ。
店はどんどん大きくなり、今や国内外に店舗を持つまで成長させた。そのことが義母の誇りなのだろう。
だから地方の短大卒で、中小企業の受付兼事務をしていた私が気に食わないのだ。
結婚を反対した義母は”子どもが将来苦労しないよう、夫と同じレベルの大学に行かせる”ことを条件に、許してくれた。
そんなことがあったから、息子の成績が悪ければ、私のせいにされる、海外の一流大学に入れて周りを見返してやりたい、という思いがいつの間にか強くなっていた。
ニューヨークの舞台に飲み込まれ、周りの教育熱心ぶりに圧倒されたのもある。
私は泣きながら研を抱きしめ「ごめんね。お母さんが間違ってた」と、2人で泣いた。
それから私は夫とも話し合い、研の塾も家庭教師もやめた。
そして夫の仕事が落ち着いた後、日本へ帰国することにした。
優斗くんとママの朋子さんには、研がいじめについて黙っていたことを謝罪した。
彼女は「優斗は研くんが好きよ」と言ってくれ、学校が変わってからも親子ともにいい友人関係を築けた。
◆
帰国して1年。
「ママ、日本でもTooth Fairy（歯の妖精）来るかなあ？」
抜けた乳歯を研が嬉しそうに持ってきた。
日本に来てから、研も私たち夫婦にも笑顔が戻った。最近では、彼がアメリカで経験したことをよく話すようになり、悪い思い出ばかりではなかったようだ。
行ったからこそ気がついたが、日本の教育も悪くない。
全体的なレベルは日本も負けていなかったし、何より英語も日本語も中途半端だった研には、まずは日本語の土台をしっかりとつけさせたい、と考えが変わった。
今は塾には行かせず、彼が好きなサッカーとスイミングをやらせている。
「SAPIXも英語塾も行ってないの？」
ママ友から時々聞かれる。以前の私ならきっとこんな言葉に振り回されていた。けれど、今は大丈夫。
義母とはまあ大丈夫だろう。孫にデレデレな彼女には、研が英語を話せただけで天才扱いだし、彼がアメリカにいて会えなかったことの方が辛そうだ。
「来るかなあ？今度おばあちゃんにもTooth Fairyのこと、教えてあげよう」
研は歯の抜けた口を開き、満面の笑みを見せた。
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