パワハラが原因で退職した後、どのようにして回復までの道のりをたどっているのか。 ※写真はイメージです(写真:Yukihiro Nakamura/PIXTA)

「パワハラが原因でうつ病になった」「職場で受けた仕打ちのせいで人と接するのが怖くなった」「就労が困難になり困窮した」……ブラック企業という言葉が定着して久しい日本社会では、こういった体験を見聞きすることは決して珍しくないだろう。

本連載ではそうしたハラスメントそのものについてだけでなく、まだ十分に語られてきていない「ハラスメントを受けた人のその後の人生」について焦点を当てる。加害者から離れた後の当事者の言葉に耳を傾けることで、被害者ケアのあり方について考えられると思うからだ。

今回インタビューに応じてくださったのは、東北地方のある神社に巫女として勤めていたみずほさん(26歳・仮名)。退職までの流れを伺った前回に引き続き、今回は退職後、どのようにして回復までの道のりを辿っているのかを伺った。

自律神経失調症、不安障害などの診断

――退職後のことを教えてください。

最初に目眩症、次いで自律神経失調症、不安障害と診断されました。退職後は実家に戻り、母と暮らしています。

記憶が曖昧なんですが、少なくとも倒れて3カ月は完全に寝たきりでした。とにかく死なないようにしているのが精一杯でした。目を瞑っても目眩がするから、どんな体勢でいてもつらさからは逃れられなくて。薄暗い部屋の中で1人、ひたすら天井を眺めて1日過ごしていました。

辞めてから1年経った頃ようやくまともに動けるようになってきたという感じです。そこからさらに3カ月ほどしてアルバイトを始めました。

――当初、自分がパワハラを受けていたとは思っていなかったということでしたが、自覚が芽生えたのはいつ頃でしたか?

体が動かないようになってはじめて、「動けなくなるくらいのことをされてきたんだ」という事実からの逆算で状況把握が始まっていったように思います。「自分はしんどかったんだ」という自覚を得たのは3カ月ほど経ってからです。

自分ごとだと思うと死んでしまう気がした

でも最初はすごく他人事だったんですよね。自分の体が壊れたことに。「あーあ、壊れちゃったなあ」みたいな調子で。自分ごとだと思うと死んでしまう気がしたんですよね。だから必死で客観視していたところがあったと思います。

自分のつらさを自覚してから、「どうやって対処すべきだったんだろう」「どんなところがしんどかったんだろう」というところを少しずつ紐解いていきました。

本当に少しずつです。というのも、体を壊してからは集中して物事を考えることが本当に困難で。休職に入ってからしばらくは、体が動かせないだけではなく思考もろくにできなかったです。

集中力が続かないというか、頭の中にずっともやがあるんです。その中で思考を手繰り寄せるのは至難の業でした。ちょっとずつちょっとずつ調子のいいときに思い返すようにしていました。

息抜きの面にももろに影響があって、集中力が続かないので小説を読んだり映画を観たりができなくなってしまいました。娯楽の種類がかなり限られている中で、ゲーム実況動画にはものすごく助けられています。自分でゲームをすることはできないし、ストーリーのあるものを長時間自発的に追うのは難しいので、ぴったりなんです。

今、最初の頃と比べれば体調は随分よくなりましたが、それでも予測できないタイミングで不調の波が来るので、アルバイトも休みがちになってしまうことがあり、再就職はまだまだ考えられない状況です。

――倒れた後の自分の変化をどのように受け止めていますか?

さっき言ったこととも繋がるんですが、会話がものすごく下手になってしまったんです。

元々人と話すことが不得手ではなかったと思っているんですが、倒れてからしばらくは、話し相手の言いたいことがまったくわからなくなってしまって。本当にショックでした。まったくというのは本当に、会話が噛み合わない、なんのために今そう言ったのかわからない、という感じで。

そこから回復するのにすごく時間がかかったし、完璧には回復しきらないということを受け止めるのにもいちばん時間がかかったかもしれません。

それからは、コミュニケーションというものの捉え方を1から構築しなおしました。まず「相手の言っていることを100%理解することなんて不可能だよね」って自分を落ちつかせて、伝わらなくても「まあそういうこともあるよね、次はもっとこうしよう」と思えるように、自分をトレーニングしてきました。今も完璧にできるわけではないですけど。

――そこまで俯瞰して、ショックから身を守りながら自分を捉えることはなかなかできないことだと思います。

そうですね、ひたすら練習を続けてきたんですが、それに付き合ってくれる友達がいたからできたことだと思います。

会話ができなくなってすぐ、親しい友達に話して、練習相手になってもらっていました。

よほどのことがない限り縁を切られることはないと思える友達がいて、相手の許してくれる限り何度でもチャレンジしました。失敗しても大丈夫と思える相手がいる、そういう関係性が構築できているのが幸いでした。

つらかったのは傷病者手当の申請などの手続き

あと、休んでいる期間本当にしんどかったのが、傷病者手当の申請や保険料の支払いなど、諸々の手続きでした。ただでさえつらいのに、国が追い打ちをかけてきているような心地でした。

諸々の申請、Webでできないものが多すぎるんですよね。毎月病院に足を運んで診断書をもらい、申請書を手書きして、郵送する、という作業がいちば難しいときにそれを強いてくる。

私の場合は母のおかげでどうにかなりましたが、家族からのサポートを得られない環境だったら、傷病者手当が受け取れず、保険料も支払えず、きっと今生きていなかったと思います。

休職中に保険料の減免申請をする人は多いと思うのですが、私のときは「今年度は無理なので来年度から」と言われてしまいました。困っているのは今で、到底払える状況ではないのに。制度が人を守るために機能していない、どころかさらに追い詰めるような状況で、なんのための政治なんだろうと。こういう制度のせいで命を落としている人もいると思います。

いちばんしんどいときにどんどんお金が出ていってしまってかなり心細かったです。

――これまでに受けたサポートの中で特に助けになったのはどういったことでしょうか。

私の場合は母の存在が大きかったです。倒れたとき、電話で事情を説明すると、母の生活もあるはずなのにすぐ「帰ってきなさい」と言ってくれたのがまず救われました。

それに、追い打ちになるようなことを言わないでいてくれたのがいちばん助かったところです。実際「いちばんつらいのは本人なんだから、とにかく余計なことは言わないでいよう」と心に決めていたと後に言っていました。

「なんでもっと早く辞めなかったの」とか「仕事ってそういうものだから」とか、そういう言葉を投げかけられて病状が悪化してしまう人も多いと思うので、私は恵まれていると思います。とにかく回復させることが最優先で、自分の感情なんて二の次だと。

――当時を振り返って、今どんなことを思いますか?

当時はやりがいがあるとさえ思っていたんです。 神事に関することだけでなく、PCを使っての資料作成やSNSでの広報的な業務など、いろんな仕事ができる職場だと。

でも振り返ってみれば、本当にただただ無駄な仕事ばかりで、専門的に何かが身に付いたということは一切ないんです。結局トラウマと病気しか残らなかった。もしあったとしてもそれは他の場所でも当然得られたはずのものだと思うんです。だから神社を辞めたあと、自分の掌に残っているものの少なさに愕然としました。

――かつてのみずほさんのようにひどい職場で働く人と関わりを持ったとしたら、コミュニケーションの上でどんなことを心がけますか?

母がそうしてくれたように、「辞めろ」とは絶対に言わないです。周囲から辞めろ辞めろと言われるとかえって頑なになることがあると母はわかっていたのだと思います。

傷を負ったサインを見逃さないで

母の話し方は、自分の主張を押し付けるようなものではなく、私の思考の手を引いてくれるような語り口でした。

母からは「どうしてそんなふうに思っていたと思う?」「こういうところはおかしいと思わなかった?」ということを繰り返し言われて。そうやって問いかけをされるうちに「そういえばそうだな」と、自分の置かれていた状況を自覚しはじめました。

自覚を促す言葉のかけ方が何かあると思っていて。強い調子にならないように問いかけて、疑問の種を植えるというか。やっぱり自分で気づかないと納得できない、客観視できるようにならないのだと思います。


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問いかけるにしても、はっきり答えられなくてより頑なになってしまう類の質問もあると思うので、本当に難しいんですが。

理不尽な職場に勤めてきて、それが染み付いてしまっている状態なので、聞かれたって答えられない、筋の通らないことばかりなんですよね。理由のない苦しみばかりなので。

私から渡せる「種」として、今渦中にいて自覚に至っていない人には、今の時点では響かないかもしれないけど、それでも「壊れない体はない」ということを伝えておきたいです。

「つらい」とか「しんどい」って、ダメージが目に見えないからわかりにくいですが、傷を負ったサインなんですよね。どうか、体からのサインを無視しないでほしい。「見えない」は「ない」ことではないから。

(ヒラギノ 游ゴ : ライター/編集者)