■蒲田と蒲田を結ぶ「かまかま」線とは?

蒲田と蒲田を結ぶ「蒲蒲線(かまかません)」と聞いたら、首都圏在住の人であっても戸惑うかもしれない。正確にはJR東日本・東急電鉄が発着する蒲田駅と、京浜急行電鉄の京急蒲田駅という2つの蒲田駅を結ぼうという鉄道構想である。

写真=iStock.com/winhorse
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/winhorse

その蒲蒲線がいよいよ実現に向けて動き出すことになった。東京都大田区は6月6日、蒲蒲線の整備スキームや整備費用の負担について、東京都と費用負担の割合などについて合意したと発表。2030年代後半の開業に向けた準備が本格化することになった。

約800メートル隔てた2つの蒲田駅を結ぶといっても、もちろんその短区間を行き来するだけの路線ではない。多摩川―蒲田駅間を結ぶ東急多摩川線を一駅隣の矢口渡駅付近から地下化し、蒲田駅、京急蒲田駅の地下にホームを新設。そのまま進み京急空港線の大鳥居駅付近で地上に合流し、羽田空港まで直通する構想だ。そのため蒲蒲線には「新空港線」というもうひとつの名称があり、大田区は公式にはこちらを使用している。

蒲蒲線の全体図(大田区発表資料より)

■「都心―羽田」と「区の交通整備」の2つの顔

蒲蒲線と新空港線という2つの名称は、そのまま期待される整備効果の違いを表している。「新空港線」としては、東急多摩川線、渋谷発着の東横線沿線だけでなく、東横線と直通運転し、池袋を通る地下鉄副都心線、埼玉方面を繋ぐ東武東上線、西武池袋線の羽田空港アクセス向上が期待される。

一方、「蒲蒲線」の期待は大田区東西移動の改善である。大田区はJR京浜東北線と京急本線が南北に走り、東京都心と横浜の両方に直結しているが、東西は東急多摩川線、池上線が発着する蒲田駅と、京急空港線が発着する京急蒲田駅の間が繋がっていないため、区内の交通ネットワークが東西に分断されているという問題があった。

大田区の鉄道・都市づくり課に話を聞くと、東急線沿線の区民からは京急蒲田駅近くにある大田区産業プラザPiOへの移動が不便という声が、逆に京急線沿線の区民からは大田区役所への移動が不便との声があがるといい、区の中心が分散していることの弊害が都市計画上、多数生じていたようだ。

そこで2つの蒲田駅のミッシングリンクを解消することで、1つの大きな蒲田を構築し、これをきっかけに各線沿線のまちづくりを推進することで、区内の東西移動を活性化。さらには大田区を越えた移動を創出しようというのが蒲蒲線の狙いである。

■40年前に生まれた構想がようやく動き出した

蒲蒲線の構想が浮上したのは今から40年前、1982年の大田区基本構想でのことである。大田区によれば、東急目蒲線(当時)を地下化し、空港線に直通して羽田空港乗り入れを目指すという雛型は、この当時から固まっていたという。

当時、空港線はまだ羽田空港に乗り入れておらず、旧羽田空港駅は空港島の手前、現在の穴守稲荷―天空橋間に存在した。羽田空港は1970年代以降、航空機利用の急増により滑走路とターミナルが過密化し、また発着の増加とともに騒音問題が生じていたため、沖合を埋め立てて空港を拡張する計画が検討されていた。

こうした事情を背景に大田区の東西アクセスと羽田アクセスを両建てにした蒲蒲線構想が固まっていったようだ。大田区は1987年に蒲蒲線実現に向けた調査に着手し、1989年に「大田区東西鉄道網整備調査報告書」を取りまとめた。

これに並行して1983年に羽田空港の沖合展開が決定し、1989年に京急が羽田空港直下乗り入れの免許申請を行った。1993年に第1期線として穴守稲荷―羽田(現在の天空橋)駅間を開業。そして1998年には第2期線の羽田―羽田空港国内線ターミナル(当時)駅間が開業して空港乗り入れ事業が完了した。

蒲蒲線構想を後押ししたのは羽田空港だったといっても過言ではない。首都圏の鉄道計画はおおむね15年おきにとりまとめられる答申に従って進んでいく。最新の答申は2016年に交通政策審議会答申第198号「東京圏における今後の都市鉄道のあり方について」だが、その前は2000年、さらに前は1985年だった。

■「区内の東西移動」だけなら実現は厳しかったが…

1982年に浮上したばかりで具体的な検討を経ていない蒲蒲線が1985年の答申に取り上げられるのは不可能だ。蒲蒲線が実現に向けたレールに乗るためには、次の2000年の答申にプロジェクトのひとつとして認められる必要があった。

蒲蒲線がもし大田区内の東西移動だけを目的としていたらインパクトに欠け、実現は厳しかっただろう。そこで大義として持ち出されたのが羽田空港アクセスの改善だった。この戦略が当たり、蒲蒲線は2000年の答申第18号で「空港、新幹線等へのアクセス機能の改善」が期待できるA2路線(2015年までに整備着手することが適当な路線)として位置づけられる。

結局、2015年までの整備着手は実現しなかったものの、2016年の答申第198号においても「東急東横線、東京メトロ副都心線、東武東上線、西武池袋線との相互直通運転を通じて、国際競争力強化の拠点である新宿、渋谷、池袋等や東京都北西部・埼玉県南西部と羽田空港とのアクセス利便性」を向上させるプロジェクトに位置付けられた。

■レール幅も車両もバラバラ…どうやってつなぐ?

ただ蒲蒲線の実現には大きなハードルがある。鉄道に詳しい人でなくとも気付いたかもしれないが、東急のレールの幅は1067ミリ(狭軌)、京急は1435ミリ(標準軌)なので、トンネルをつないだところで列車は乗り入れられないのだ。

これを解決するためには、新幹線(標準軌)と貨物列車(狭軌)が走る青函トンネルのように、レールを3本設置することで両方の軌間に対応する三線軌条構造とするか、逆に車両側で車輪の幅を変更するフリーゲージトレインを導入するしかない。

写真=iStock.com/danieldep
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/danieldep

さらに東急は1両あたり全長20メートルで片側に4つの扉が付いた車両を使っているのに対し、京急は全長18メートルで3扉の車両なので、ホームの長さやホームドアのピッチなどが合致しない。

前述の通り、蒲蒲線は当初から東急線と京急線を直通運転させる構想だったが、必ずしも技術的な裏付けがあったわけではないようだ。そのため2000年の答申は「大鳥居駅において京浜急行電鉄空港線と接続(乗換)する」路線としており、中間駅での乗り換えを前提としていた。2005年に大田区が取りまとめた調査報告でも、蒲田、京急蒲田、大鳥居のいずれかで乗り換えが必要で、このうち蒲田乗り換えが適当との結論だった。

ちなみに2005年5月10日の大田区議会交通問題調査特別委員会における交通事業課長の説明によると、調査報告の前提となる想定運行計画は、東横線の急行4本を多摩川駅から乗り入れさせ、東急多摩川線の普通20本と合わせた24本が蒲田の新地下ホームに到着。一方、羽田空港からは品川方面に6本、横浜方面に6本、蒲蒲線方面に6本を設定し、大鳥居から蒲田駅まで直通する。乗客は蒲田の同じホームで乗り換えるというものだった。

■構想を2つに分け、「矢口渡―京急蒲田」から着手へ

ではいつ頃から空港線への直通運転構想が具体化していったのか。大田区議会の議事録を検索する限り、区がフリーゲージトレインに言及したのは2004年4月20日の交通事業本部長の答弁が最初のようだ。この時は技術開発の動向を見守りつつ、蒲蒲線への導入可否を研究しているとしていた。

潮目が変わったのは2014年頃のことだ。2015年1月20日の交通問題対策特別委員会における交通企画担当課長の答弁によれば、2012年までの蒲蒲線構想は東急線と京急線からそれぞれ単線で延伸し、東急側の蒲田駅で同じホームで乗り換えするという案だった。それが2014年に東急線を京急蒲田の地下まで延伸し、その先はフリーゲージトレインにより京急線に乗り入れ、相互直通運転を行う構想に変化したのだという。

これには2010年に新たな滑走路の供用開始によって羽田空港に国際線定期便が設定可能となったことや、2013年に東京オリンピック・パラリンピックの招致が決定したことなど、羽田空港の重要性が増したという背景があったと見ることができるだろう。

しかし現時点ではフリーゲージトレイン開発の目途は立っておらず(※)、東急と京急の直通運転は当分実現しそうにない。

そのため答申第198号では矢口渡―京急蒲田駅間と京急蒲田―大鳥居駅間を切り離し、前者を一期整備として位置づけ、事業化に向けた関係機関・事業者との費用負担の在り方について合意形成を進めるべきとの具体的なマイルストーンを掲げたのに対し、後者は2期整備として「軌間が異なる路線間の接続方法等の課題があり、さらなる検討」が必要と整理された。東京都と大田区の今回の合意は、この答申を踏まえたものとなる。

※フリーゲージトレインは西九州新幹線、北陸新幹線に導入が検討されながら、開発に失敗して頓挫した事例が有名だが、これは高速走行を行う新幹線において重量管理やメンテナンスが問題となったことによるもので、高速走行を行わない在来線用フリーゲージトレインの可能性は否定されていない。2018年には近鉄が軌間の異なる南大阪線と橿原線を直通させるためのフリーゲージトレインの開発に着手したと発表している。

■自治体負担のうち7割を大田区が支払う

さて「新空港線」という名称とは裏腹に矢口渡―京急蒲田間の先行整備に向けて動き出した蒲蒲線だが、整備にあたっては、既存の鉄道施設を有効活用して速達性向上を促進する「都市鉄道等利便増進法」のスキームを採用する(利便増進法自体が蒲蒲線を念頭に作られた制度という説もある)。総事業費は約1360億円のうち、国と地方自治体がそれぞれ3分の1を補助し、地方自治体負担分のうち都が3割、大田区が7割を負担する。

負担割合の算出根拠について、大田区は「新空港線の利用者のうち、区は空港アクセスを除く大田区発着に関する旅客分を、都は空港アクセスに関する旅客等その他の旅客分を、それぞれ負担することとしたため」と説明する。

「新空港線」と「蒲蒲線」という2つの顔を持つ路線に対して、空港アクセスという広域に影響を与える前者については都が、区内ローカル輸送の改善という後者については区が負担する整理だ。ただ旅客の7割が大田区を発着するということは、やはり実態としては「蒲蒲線」なのだと言えるだろう。

■一方、すでに空港線がある京急は…

残り3分の1は、都や区などが出資する第3セクターが資金調達し、同社が整備主体となって整備を進める。この借入金は、営業主体となる東急が開業後、整備主体に支払う施設使用料を原資として償還する(試算により採算性は確認されている)。

では後回しとなった2期整備(京急蒲田―大鳥居間)はどうなるのだろうか。大田区は京急乗り入れを実現するための技術的な課題解決は1期整備と並行して進めるとしており、フリーゲージトレインなどの技術開発が実現すれば1期整備の完成を待たずに2期整備に着手する可能性もあるが、解決されなければ1期整備終了後にすぐ2期整備が動き出す保証もないという。

■JR東に対抗したい大田区の算段

実際、2期整備は不透明な情勢だ。2014年にJR東日本が発表した「東山手ルート」「西山手ルート」「臨海部ルート」の3つのルートからなる「羽田空港アクセス線」構想では、西山手ルートが新宿から羽田空港まで約23分で直通するとしており、東横線内に約10分、京急線内に約10分を要する新空港線ルートでは太刀打ちできない。

東山手ルートは2021年に事業許可を得ており、2029年度の開業を予定している。西山手ルート、湾岸部ルート計画は具体化していないが、蒲蒲線1期整備が完了する2030年代後半、空港直通が実現する2期整備より早く開業する可能性が高く、その場合は開業を前にして整備効果の少なくない部分が消えてしまうことになる。

だからこそ大田区は1期整備の実現を強く推進した、と考えるのは穿(うが)ちすぎだろうか。「新空港線」という大義を掲げながら、実際には区内を発着する利用が中心の「蒲蒲線」は、空港アクセス改善の必要性が低くなれば「蒲蒲線」ごと計画が消えてしまう可能性がある。

写真=iStock.com/gyro
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/gyro

それを示唆しているのが、2004年5月17日の大田区議会交通問題調査特別委員会における交通事業課長の説明だ。当時、大田区は東急と京急の接続方法を5パターン想定し、そのうち効果が低いと判断されたパターン3、パターン5を除いた3つのケースを検討対象とした。

■過去にボツになった案を復活させてでも実現したい

ケース1は蒲田から大鳥居駅の直下まで東急多摩川線を延長する形で建設し、大鳥居駅で京急線に乗り換えるという案。ケース2は東急線、京急線ともに京急蒲田駅地下まで延伸し、同じホームで乗り換える案。ケース3は東急多摩川線蒲田駅を地下に移転した上で、京急が蒲田まで乗り入れ同じホームで乗り換えする案だった。

実はこの時除外された「パターン3」こそが今回の1期整備の形であった。交通事業課長は「東急線を延ばしてきて、京急蒲田で止めてしまう。それで京急蒲田で今の連立の方(ほう)(2012年に連続立体交差事業により高架化した現在の京急蒲田駅のこと=筆者注)に乗換えるということで、これは利用者からいってもちょっときついだろう」と説明している。

もちろん永続的な接続方法として検討されたパターン3と、暫定的な接続となる一期整備は事情が異なる。また、今回の検討にあたっては京急蒲田駅の乗り換え利便性を重視し、新たなバリアフリールートを整備するなど2004年とは情勢が異なる点も多い。

それにしても2期整備の目途が立たない中で、かつて除外した接続方法による先行整備を選択した背景には、蒲田―京急蒲田間を接続させ、区内の分断解消を最優先課題と考える大田区の執念のようなものを感じるのである。

----------
枝久保 達也(えだくぼ・たつや)
鉄道ジャーナリスト・都市交通史研究家
1982年生まれ。東京メトロ勤務を経て2017年に独立。各種メディアでの執筆の他、江東区・江戸川区を走った幻の電車「城東電気軌道」の研究や、東京の都市交通史を中心としたブログ「Rail to Utopia」で活動中。鉄道史学会所属。
----------

(鉄道ジャーナリスト・都市交通史研究家 枝久保 達也)