なぜウクライナは偉そうなのか? :新石器・青銅器時代のヨーロッパ /純丘曜彰 教授博士
ナチス、民族社会主義。それはエスノセントリズムで、自分たちの民族こそが世界の源泉である、と信じ、それ以外は、模倣追随者として自分たちに服従するのが当然である、と考える。その嚆矢はむしろ選民思想のユダヤ人で、だからこそ「アーリア人」の方が上とするドイツが目の敵にした。
しかし、それがなぜいまウクライナか。じつは大戦後、ドイツナチスの「アーリア仮説」に代わって「クルガン学説」が唱えられ、ウクライナこそがすべての文明の源泉だった、などとされたからだ。東欧からの米国脱出移民で最初の提唱者だったギンブタスは、それは悪辣な(ソ連的)軍事侵略の結果だった、として、むしろクルガン文明そのものに批判的だったのだが、他の東欧移民のコンプレックスとソ連の国家主義のイデオロギーがあいまって、広く世界に流布され、東欧崩壊後、学術風通俗本で評判になり、東欧や移民先の欧米でカルト的な信奉者を生み出した。それがネオナチ。
とはいえ、クルガン(積石墓)があるところ=騎馬民族がいたところ=印欧語族文明が栄えたところ、だからといって、騎馬民族が印欧語族文明の祖である、という推論は、短絡的すぎる。むしろクルガンは、もともと気候変動による海岸後退の結果の自然形成物であり、干潟草原の高潮対策として人工的に転用され、その後、王族墓として慣例化した可能性が高い。まして、騎馬民族が出てくるのは、ようやく前10世紀になってのことで、印欧祖語文明より二千年も後のことであり、前者が後者を広めたなどという学説は、時代錯誤もはなはだしい。
大洪水以前の人間
もとより258万年前からの「更新世(洪積世、Pleistocene)」では、地球は氷河に覆われていた。その中でも、各地で多様に人類の祖が進化しつつあったが、七万年前のインドネシアの火山大噴火「トバ事変(Toba event)」(赤道のすぐ北)でさらに気候が冷え込んで、そのほとんどが絶滅。かろうじてアフリカ東岸(現タンザニア、赤道のすぐ南、東南の貿易風で影響を避けられた)の「ホモサピエンス」(現在の人間)一万人のみが助かった。
ここから人間は、各地へ探索に出て、ネアンデルタール人(ホモサピエンスとは別系統)やクロマニョン人(ヨーロッパの残存ホモサピエンス)などの他のわずかな生き残りを吸収していく。ここにおいて、カルパティア山脈(現ハンブルク〜ルーマニア)を境に、ヨーロッパ側では西部狩猟採取民族(Western Hunter-Gatherer、WHG)が、黒海側では東部狩猟採取民族(Eastern H-G、EHG)が、そして、ドネツ川以東ではコーカサス狩猟採取民族(Caucasus H-G、CHG)が「人種(遺伝子型)」として分離成立してくる。WHGは暗色肌で黒髪青目、EHGは明色肌で黒髪茶目(赤毛・金髪・銀髪はその劣勢遺伝(表現形になりにくい))、CHGは明色肌ながら彫りが深く、体毛が黒く濃く、黒目(後のインドとも共通の「アーリア人」)だった。
この氷河期末期の二万年前に南仏・イベリア半島のWHGで「ソリュートレ(Solutre)文化」が生まれる。彼らは、打製石器で薄い槍先を作り、雪の下の草を掘って生き延びていたマンモスや野生馬を狩って食べ尽した。この狩猟文化は、一万二千年前、流氷で渡った者たちがいたのか、北米のクローヴィス人(ロシアからアラスカを渡った古代北部ユーラシア人、Ancient North Eurasian、ANE)にも大西洋を越えて広まり、地球上からマンモスや野生馬をほとんど絶滅させることになる。とくにその最後の一万一千年からの千年間、「ヤンガードリアス(Younger Dryas)期」は寒冷化がひどく、現在よりも8度も低い状況が続いた。
一万年前になって、ようやく地球全体が温暖化し始めて「完新世(沖積世、Holocene)」となり、氷床が消えて大地が現われ、ユーラシア大陸は、パミール山地やチベット高原、アルプス山脈などからの豊かな雪解け水で、大きな湖の周囲に、緑の野原、それどころか鬱蒼とした森が広がった。とくに前6000年ころは、太陽活動も活発で、いまより気温が4度も高く、前後千年に渡って「ヒプシサーマル(hypsithermal、適温)期」と呼ばれる。
ところが、その末期の前5600年ころ、北極海の氷河が一気に崩壊して、「大洪水」が起き、気候も急激に寒冷化していく。これによって、西シベリア低地や地中海・黒海からとてつもない量の海水が流れ込み、天山山脈とコーカサス山脈だけを残して、この一帯すべてを水没させ、中央アジアや西域・モンゴルを巨大な内陸海にしてしまった。また、ヨーロッパ(以下、アルプス以北のみを指す)も、パリ盆地からニーダーラント(現オランダ)、ニーダーザクセン(現ドイツ北部)、ポーランドまで水没。汽水の湖だったバルト海にも海水が入り込み、ユトレヒト半島やスカンディナヴィア半島も、ちりぢりの島々になってしまった。
しかし、この大洪水によって、わずかな人々(後の「ウラル語族」)しか逃げて来なかった北のウラル山脈の山麓では、氷河期の野生馬の生き残りが勢いを取り戻すことができた。馬は、指一本で立っている奇蹄目なので山に向かないが、基礎代謝が高いので寒冷地に強く、また、硬い蹄で氷の下の草でも掘り出すことができた。
大洪水後の新石器時代
中央アジアは、その後、大洪水の海水が天日で干上がったため、その塩害で砂漠化していく。このため、コーカサス山脈に逃げていたCHGは、その後、もはや中央アジアには戻らず、現ウクライナ東部の丘陵を北西に上がって、前5500年ころ、河口の現ロシア・ベラルーシ国境付近(当時、ウクライナ平原はまだ大黒海だった)に「ドニエプル・ドネツ(Dnjepr-Donez)文化」(DDK)を生み出す。彼らは大柄な狩猟民で、オーロックス(大型の野生牛)やシカ、イノシシなどの肉を主食とした。また、彼らは遺体を黄土(砂漠粉塵土、故地だった中央アジアの象徴か)と埋葬する習慣があった。
同じころ、地中海側のWHGが、アルプスの西側、大洪水で一時的に森林が草原となったローヌ・ソーヌ川沿いに遡上。初期ヨーロッパ農民(Early European Farmaers、EEF)として「線帯紋(リニア・バンド)土器(Linearbandkeramik)文化」(LBK)を拓く。彼らは、もはや新石器時代(磨製石器・土器・農業を特徴とする)に属し、スペルト小麦や豆などを栽培した。また、彼らは地中海沿岸から農耕用の大型牛を持ち込んだが、しかし、肉は現地の野生のシカやイノシシなどの狩猟で調達した。この食生活の変化などに対応して、EEFは、WHGよりも急激に小柄になった。また、彼らは女母神を崇拝していたらしく、女性の死者は家の床下に埋葬したが、男の死体は打ち棄てた。
その後、ヨーロッパ北沿岸部では、水位がいまより3メートルも下がり、やたら砂州での陸続きになって、前5300年ころ、南西からの線帯紋人に押し上げられたのか、狩猟採取で暮らしていたヨーロッパの残存クロマニョン人(WHG)がここに移り渡り、「エルテベレ(Ertebølle)文化」を成立させた。彼らは丸木舟で漁撈し、海の豊富な恩恵を受け、魚はもちろん鯨やイルカも獲った。また、人間同士の争いも激しく、栄養補給のためにも殺した相手の骨を砕いて、その骨髄を食べた。また、彼らは死体を丸木舟に乗せて埋葬する習慣があった。
EHG系ドニエプル人は東に広がり、CHG系ウラル語族と混交して、西部草原牧畜民(Western Steppe Herders、WSH)となり、前5000年ころ、ヴォルガ川中流に「サマーラ(Samara)文化」(メソポタミアのサマッラ文化とは別)を拓く。彼らはここでウラル山脈の野生馬を再発見し、食肉として狩猟する。彼らもまた遺体を黄土に埋葬したが、この際に牛や羊、馬などの生贄を捧げた。
同じころ、CHGのウラル語族は、山脈東側のカザフステップで「ボタイ(Botai)文化」を生み出す。彼らは、もとより東のANE系の天山山脈のテュルク人やサヤン山脈北のシベリア人などのモンゴロイド族とも広く混交し貿易しており、広大な草原で大量の馬を家畜として飼育繁殖するようになっていく。ここにおいて、馬は、まだ騎乗はできないものの、もはや食用ではなく、キャラバンの輸送用だった。馬は、反芻しなければならない牛よりも、少ない水で長距離の移動に耐えた。
ヨーロッパ低地は、多くの川を通じて海水が引き、北大西洋から流れ込む低気圧の雨とアルプス氷河が融けた水で塩分が洗い流され、豊かな草原が広がった。それゆえ、EHG系ドニエプル人は、前5000年ころから西にも広がり、黒海北岸の湿地(現ウクライナ)を経て、WHGが住むヨーロッパ低地、すなわち、ポーランドのヴィスワ川中流から現フランスのセーヌ河口まで広がって、前4600年ころ、「レェッセン(Rössen)文化」を興した。彼らは、水抜きと防衛のための堀で囲まれた集落を築き、農耕と牧畜(牛や羊、そして豚)を営み、また、死者を縦穴に埋葬する習慣を持っていた。
彼らの本拠地のドニエプル川中流でも、CHG系との混交が進み、WSHとして、前4500年ころから「スレドニー・ストッグ(Sredni-Stog)文化」へと発展する。彼らは、あくまでシカやイノシシなどの狩猟民で、東方のサマーラ文化から輸入された馬も食肉家畜として飼育していた。しかし、馬は、牛と違って反芻胃を持たず、1.3倍もの飼料を食べたことから、より広い放牧地を必要とした。木の柄のついた石の戦斧は、彼らが狩猟ではなく、人間同士の激しい紛争を始めたことを示している。
同じ前4500年ころ、西では、地中海のEEF系線帯紋人が北上し、パリ盆地東南部に「シャセ(chassey)文化」を拓く。そして、前4400年ころになると、彼らは東の内陸部ラインラントまで勢力を拡大。さらに内陸のドイツ中南部へも入植し、EHG系レェッセン人と混交して「ミヒャエルスベルク(Michelsberg)文化」(MK)となった。彼らには埋葬の跡が無く、それどころか人間の生贄を行っていたかもしれない。
前4300年ころから、ヨーロッパ東北部、干潟平原(現オランダ〜ドイツ北部〜ポーランド)のWHG系エルテベレ人やEHG系レェッセン人は、底のとがった土器を使う新石器時代の「漏斗杯(トリヒター・ベッヒャー、Trichterbecher)文化」(TBK)へ変わっていく。彼らの土器はまた、縫目(スティッチ)紋でも特徴づけられる。土器の底が尖っていることから、彼らの土地が干潟平原でまだ柔らかく、彼らの家がまだ小屋がけ(地面に直接に屋根を置く)に近い形で、土間の穴に土器を据えたことが想像される。
西の低地のEHG系ドニエプル人や東の草原のANE系モンゴロイド族テュルク人と混交しなかったCGH系の純粋ウラル語族は、その後、北方をウラル山麓からバルト海にまで西へ広がり、前4200年ころから「櫛目紋(ピット・コーム、Pitcomb)文化」を興す。彼らの土器は、櫛を使って等間隔に付けた四角い小穴紋様が法眼状に並んでいる。また、彼らは、川や湖沼、海が多い寒冷な地域にあって、アザラシなどの狩猟や漁撈で生活した。
干潟草原と等高石路・クルガン:前3000年代
前4000年ころからの千年間、気候は持ち直す。コーカサス山脈の両側、また、ウラル山脈から現ウクライナにかけて、さらには、東北ヨーロッパの現ポーランドから現オランダにかけて、不安定だった海岸線は後退し、干潟は、牧畜に適した広大な草原に変わっていく。土壌に残る塩分は、蒸散する大きな樹木には有害だったが、大量の塩分の補給を必要とする牛などには好都合だった。
表面に草が生えたとはいえ、干潟草原は、基本的にまだぬかるみだった。ところが、内陸部に東西に長く石が積もる帯ができていた。これは、かつての海岸線であり、比重の大きな泥流海潮が運んできた石を打ち上げた磯の跡である。この自然の石路は、完全に等高で、起伏無しに続いていた。ここにおいて、牛ソリ、さらには木製車輪を持つ牛車が使えるようになる。(車輪ができても、石路が先に無ければ、重量でめりこむだけ。)
干潟草原でも、より海に近いところでは、この石帯は、円形になった。それは、その地盤地形がもともと丘状になっていたために、石が打ち寄せられて島状の岩礁となったからである。この痕跡は「イェティン・キルッコ(Jätinkirkko、巨人教会)」と呼ばれ、その後の荒天高潮の際にも水没を免れる貴重な安全場所を意味した。そして、安全祈願もあって、このような場所は権力者の墳墓とされ、ときにはさらに遺骸を船に乗せて、ここに埋葬した。
さらに後には、人工的に丘墳を作り、イェティン・キルッコのように周囲に積石を施すようになる。これが「クルガン」である。しかし、ぬかるむ干潟草原にあって、生活の場においても石の需要は高く、天然の積石帯路やイェティン・キルッコなどは、その後、人々の格好の石取り場となり、消滅してしまう。
東北ヨーロッパ干潟草原の漏斗杯人は、その後、さらに磨製石器での狩猟から牛の牧畜へシフトし、石路の整備とともに車輪や牛車を使うようになった。そして、前3800年ころになると、なんらかの政権ができて、大きな墳丘墓「クルガン」を作るようになり、前3500年ころから、その石室が発展して、巨石遺跡を数多く築いていく。
また、黒海北岸の干潟草原(現ウクライナ)でも、前3600年ころから「ヤムナ(Jamna)文化」が芽生える。彼らは、おそらく放牧地を争う北の好戦的なスレドニー・ストッグ人に追われて、EHG系ドニエプル人が南下してきたのだろう。また、ここにおいて、馬のキャラバンを使って黒海・カスピ海北岸の等高石路沿いに東西に広く交易を行っていたカザフステップのボタイ人とも混交しただろう。彼らは、砦を築いて守りを固め、ぬかるむ低湿地にあって、牛を育て、農業を始めた。(奇蹄目の馬はぬかるみでは放牧できない。)そして、ヨーロッパのレェッセン人と同様、彼らもまた死者を縦穴に埋葬し、ときには漏斗杯人のような積石墳丘墓「クルガン」も作った。
漏斗杯人の一部は、前3400年ころから現ポーランドあたりで東方の馬を取り込み、「球状壺(クーゲル・アンフォラ、Kugelamphora)文化」(KAK)に発展。この土器の底面が平らであることから、彼らの家には床があったと思われ、それを浮かすための柱や壁も用いられただろう。このころになると、かつて干潟草原も、もはや森林へと変わりつつあり、このため、彼らの牧畜は、牛ではなく豚で、森の中でドングリを喰わせて肥育した。
東西から新技術が流入した青銅器時代:前2000年代
エジプト、ついでメソポタミア、そして中国で、実用硬度のある最初の金属、青銅が発明された前3000年ころから千年に渡って、急に気温が2度も下がる寒冷期が続く。このため、ドニエプル川中流のスレドニー・ストッグ人では、シカやイノシシなどの狩猟、食肉馬の放牧に支障が生じ、その一部は好戦的に西のポーランド平原に入り込んで、もともと同じドニエプル出の温和な低地農耕牧畜民レェッセン人を征服し、新たに「縄目紋(シュヌーア・ケラミック、Schnurkeramik)文化」(SK)を生み出していく。
この文化は、縄目紋様をつけ、底が広がった円筒土器で特徴づけられるが、それ以上に独特なのが、とくに北欧の男の墳丘墓の副葬品とされた磨製石器の小さなボート型の戦斧の頭だった。長さが10センチ半ほどしかなく、刃も柄もついていないので、実用性は無く、あくまで彼らの武力支配の象徴だったのだろう。また、彼らの中には、火葬されてから埋葬されたものもあった。
しかし、西進してきたスレドニー・ストッグ人の支配を受けるようになった一般農民の生活は、牛車や馬車を使うようになったこと、プロト印欧語(ゲルマン語やスラブ語の祖)を強いられたこと、父長制身分社会が成り立ってきたこと以外は、あまり変わらず、北欧のWHG系エルテベレ人は漁撈、西部低地草原のEHG系レェッセン人は牛を、北部低地森林のEHG系球状壺人は豚を、そして、EEF系で内陸部に広がったミヒャエルスベルク人は羊を牧畜した。
前2800年ころになると、こんどは西の地中海側から、口の開いた土器を特徴とする「釣鐘壺(Glockenbecher)文化」(GBK)が広まり、イベリア半島や大ブリテン島、そしてヨーロッパ西半にも普及していく。これは、中東かバルカン半島の複数の職人集団が、海を越え、イベリア半島に上がり、現地民族を横断しつつ、冶金技術を普及していったことによるもので、遅れたヨーロッパを青銅器時代へと塗り替えていった。そして、武器にも農具にも加工しやすいこの硬質金属を保持することによって、同じ民族の中にも支配階級が出現し、ヨーロッパは身分制社会へと変貌していく。そのようすは、支配階級の巨石墓からもうかがい知ることができる。また、庶民も、もはや農耕牧畜の定住生活となり、野生動物の狩猟はほとんど見られなくなる。
前2400年ころ、はるか東方のCHG系アーリア人の一派が、銅を硬化させる錫を求め、馬とともに黒海北岸を西進。このため、EHG系ヤムナ人(ウクライナ低地に移ったドニエプル人)が追われて、西のハンガリー(パンノニア)盆地へ。アーリア人は、黒海西岸を南下して、トラキア(ドナウ川下流平原、現ルーマニア・ブルガリア)に入り、ここで錫を得て青銅の武器を作り、さらに西進し、バルカン半島内陸部(現ギリシア北部)に定住して、原ギリシア人となった。
一方、EHG系のヤムナ人も、ハンガリーから、チェコ、そして南ドイツへ進んで、EEF系主体のミヒャエルスベルク人と混交し、前2300年ころ、「ウーニェチツェ(Únětice)文化」を興す。彼らは要塞に集住して、茅葺きの切妻高床住居に暮らし、床下を穀倉とした。彼らはフィヒテル山脈(バイエルン・チェコ国境)でヴェッラ錫鉱山を発見し、精巧な工芸品を発達させ、遠くブリテン島やイタリアとも交易した。ここでは粘土パン符(パン型の粘土の塊)を用いて、信用取引が行われていたかもしれない。また、天文観測を行っていた遺物も発見されている。
エーゲ海のクレタ島は、前2000年ころから地中海交易の中心となり、壮麗なクノッソス宮殿の下、開放的な「ミノア文明」が栄えた。これに応じて、原ギリシア人の一派、アカイア人も南下し、入植していく。
一方、ヨーロッパでは、前1600年ころ、ウーニェチツェ文化が、アルプスの北側、西のヴュルテンベルク(ストゥットガルト周辺)の「墳丘墓(Hügelgräber)文化」(HGK)や、東のポーランドの「トシュチニェツ(Trzciniec)文化」として広がる。これらにおいても、多種多様な金属装飾品が作られたが、同時に集落の要塞化が進み、剣やナイフなど、戦闘も激しくなってきたことがうかがえる。また、これらでも大きな墳丘墓「クルガン」が作られたことから、政治的権力が生まれていたこともわかる。ただし、ここでは埋葬の前に火葬が行われるようになった。(このEHG系の影響下の人々が後に「ゲルマン人」となる。)
エーゲ海に進出したアカイア人は、前15世紀半ばにはミノア文明を滅ぼし、代わってみずからペロポネソス半島東部に「ミケーネ文明」を拓いて、地中海貿易を支配。閉鎖的な巨石城塞とその出城からなり、農民を収奪する戦士の連合体を作った。彼らは好戦的で対岸のアナトリア(小アジア)半島沿岸にも遠征し、そのようすはトロイア(イーリオス)戦争としても伝えられている。
前1300年ころ、墳丘墓文化のさらに西、EEF系主体の釣鐘壺文化のあった内陸部アルプス、ライン河流域から南フランスにかけて、「骨壺墓地(Urnenfeld)文化」(UK)ができる。彼らは、東部アルプス山中、ザルツァッハ谷のケルシュアルム(ケルト高原)銅鉱山、ハライン岩塩鉱山の銅と塩を経済の基盤とした。とくに銅は、戦車の車輪などの大型鋳物を作るとともに、大量の剣やナイフ、槍などの武器も製造し、また、薄くのばした青銅板に金や琥珀、ガラスなどを組み合わせて宝飾品に加工した。また、リベットを使って銅板鎧も作られるようになる。
彼らは、高い丘の上や川の蛇行地、湖の水上など、堅牢な要塞の中に暮らし、共有の貯蔵庫を持った。彼らは、麦類や豆類を育て、小型の牛を飼い、ワインも作った。内陸部の彼らには干潟草原のような墳丘墓「クルガン」を作る習慣は無く、火葬にして骨壺に収め、墓地にまとめて埋葬した。このことから、彼らは戦士の平等のような共同生活だったことがうかがえる。ただし、一部の墓には生贄の骨や豪華な副葬品があり、細かな装飾を施した1メートル以上もある黄金の円錐帽子も出土し、その装飾が天文学的な知見を表していることから、すでに学術宗教的指導者が存在していたこともわかる。(このEEF系主体の人々が後の「ケルト人」となる。)
かくして、ヨーロッパは、大西洋気候のライン河流域以西(アルプス山中を含む)のEEF(初期ヨーロッパ農民族)系のケルト人と、内陸性気候の中央ドイツ以東のEHG(東部狩猟採集民族)系影響下のゲルマン人との二大文化圏となっていく。彼らはどちらも青銅器文化であったが、ケルト文化は地中海(アナトリア(小アジア)半島)由来、ゲルマン文化は中央アジア由来で、前者は宗教的社会、後者は戦闘的社会だった。
彼らは牛や馬を家畜にしたが、あくまで肉食用、荷役農耕用で、放牧地の制約の都合から、従来の野生のものよりもはるかに小型なもの(狭い放牧地でも飼育可能なもの)に品種改良されていた。彼らはまだ馬具を持たず、疾駆する牛や馬に騎乗して制御する技術も無かった。しかし、木製よりはるかに強固な鋳造青銅車輪によって、鉱石や岩塩、食料、製品などの重量物の広域交易が可能になった。
この広域交易の都合から、彼らは商業先進的なCHG(コーカサス狩猟採取民族、アーリア人)の印欧祖語を受け入れた。印欧祖語は、名詞は三性(男女中)三数(単双複)八格(主対族与具奪処呼)を語尾区別して、動詞もこれらに応じ、さらに五時(現在・不定・完了・未完了過去・大過去)三態(能受中)五法(直命接希指)で語尾屈折、語順はSOVだった。しかし、ケルト語やゲルマン語では、名詞の語尾区別が整理されていき、代わって、ケルト語系ではVSO語順が、ゲルマン語系ではSVO語順が徹底され、動詞の屈折で主語の性数を、また、動詞の後に置かれて前置詞を用いることで目的語の格を表し、動詞の五時三態は助動詞で、五法は語順で簡略化されていく。また、どちらも、音の前後の無声音(h)が落ち、有声破裂音が無声破裂音に、さらには無声摩擦音(たとえば gh→g→k→s)に変化する傾向があった。
いずれにせよ、日本人が英語を話してもアメリカ人ではないように、ケルト人やゲルマン人が印欧語を受け入れたとはいえ、コーカサス出のアーリア人ではない。(それどころか、ナチスが「アーリア人」と考えていた長身金髪碧眼は、EHG系とWHG系が混交した北欧の特異な劣勢遺伝定着にすぎず、中央アジアやインドの濃毛のアーリア人とは「人種」として似ても似つかない。)また、ヨーロッパも、地中海の気風を取り込んだ南フランスからライン河流域、アルプス山中にかけては、クルガン墓を作らなかったように、ヤムナ(ウクライナ)文化が席巻してヨーロッパを誕生させた、などという事実は無い。むしろいずれかが圧倒的な優位になったりせず、多文化が交代し共存して熟成したところに、その後のヨーロッパの豊穣な文化が芽生えた。