なぜプロ野球の審判はグラウンドで決して謝らないのか…高圧的な態度をわざわざとる本当の理由
■世間を騒がせた「球審詰め寄り事件」
開幕から2カ月が過ぎたプロ野球。交流戦も終了し、ペナントレースは中盤に差しかかってきた。
今シーズンの開幕序盤には、ひとつの大きな事件があった。4月24日のオリックス−ロッテ戦で、球審を務めていた白井一行審判員がロッテの佐々木朗希投手に「詰め寄って」注意をしようとした一件だ。注意をする必要があったかどうか、それがルールに則っているかという点もさることながら、白井球審の態度について大きな批判が集まった。
球審が投手に注意する出来事はこの騒動の1週間前にも起きている。4月16日のロッテ−日本ハム戦で、日本ハムの伊藤大海投手が球審のボール判定の直後に両膝から崩れ落ち、まるで土下座のようなポーズになってしまった場面があった。これに対して石山智也球審が注意をしたことが報じられ、ネットの反応は賛否両論あったものの、試合直後に伊藤投手が自身のツイッターに謝罪のコメントを投稿したこともあってか、大きな騒ぎにはならなかった。
騒動の余波と言うべきか、5月14日と15日のオリックス−ロッテ戦でロッテ井口監督とレアード選手がそれぞれ退場になるトラブルもあった。審判団はくしくも白井審判員が所属するクルーであり(NPBでは新型コロナ対策として2020年から年間を通じてメンバーを固定したクルー制度をとっている)、レアード選手については「審判への侮辱行為」により白井審判員が退場処分を下している。この件も、4月24日の騒動が尾を引いていると見る向きが多い。
■白井審判員は本当に「悪いこと」をしたのか
筆者はアマチュア野球で20年以上の審判経験を持ち、日本国内の独立リーグでも通算7シーズン審判を務めた。日米のプロ審判との交流も多く、書籍『わかりやすい野球のルール』(成美堂出版)の監修を約20年務めている。野球の規則と歴史には詳しいほうだと思う。
そんな経験を踏まえて言うと、白井審判員の詰め寄り事件が大きな問題になったのは、率直に言えば意外だった。なぜなら、選手が判定に不服の態度を表したとき、それを審判が注意したり、規則に則って警告を与えたり退場処分を科したりすることは、野球の試合では日常的に起こりうることだからだ。
同様のケースで球審が投手に向かっていくのもMLBでは何度も事例があるし、私自身も経験がある。相手が投手だから目立ったかもしれないが(マウンドまで歩くと目立つ)、相手が打者や走者ならもっと普通のことだ。
問題になった4月24日の試合は、筆者もすぐに映像で確認した。「事件」が起こるまでの佐々木投手の態度は、投球判定に対する不満の様子がありありと見て取れた。際どい投球をボールと判定されると、薄笑いを浮かべたり首を振ったり、プレートを外して後ろを向いたりしている。これらは典型的な不満の態度だ。ここにハッキリと不満の言葉も付け加わると明確に注意の対象となるが、このときの佐々木投手は言葉を発してはいなかった。
■問題の「詰め寄り」はタイミングが少し早かった
ルール通りの警告や退場はともかく、注意するというのはなかなか難しい。野球のグラウンドというのは「オラァ!」とか「なんじゃワレ!」といった言葉が日常的に飛び交う野蛮な場所である。
選手に負けないように気を張っている審判としても上品な言葉遣いにはならないし、審判側からすれば「けんかを売られた」と感じているので、「じゃあけんかを買いましょうか」という態度になるのも致し方ないところだ。選手からのヤジや攻撃的な態度に負けないため、ヤジが聞こえた方向をにらみつける「フラッシング」というテクニックも審判学校で教わる。野蛮な世界で気を張るのもなかなか大変なのだ。
ただ、筆者の感覚では問題の「詰め寄り」は少しタイミングが早かったように思う。このくらいの態度なら、もう少し様子を見るのが普通だが、この試合は立ち上がりから審判にストレスのかかる展開だったことも影響しているかもしれない。
完全試合達成で注目を集めた佐々木投手の登板もさることながら、1回表にリクエストがいきなり二度もあり、一度は判定が覆っている。また、同じイニングに三塁線での微妙なフェア判定もあって、審判団全体にプレッシャーがかかったことは想像できる。そのプレッシャーが判断を狂わせた可能性は否定できない。
■なぜ侮辱された審判は“高圧的”な態度をとるのか
ここまで述べてきたのは筆者の経験から、プロ野球審判の立場で考えたときの目線である。理由はどうあれ、けんか腰の注意なんてとんでもないという意見もあるだろう。一般の野球ファンの目線から批判が多かったことも十分に理解しているし、スポーツの現場における乱暴な言動、パワハラのようなものに対する考え方も昔とは大きく変わってきている。その意味では、時代にマッチしていない対応だったと言える。その点は改めていくべき課題だろう。
しかし、そもそもなぜ選手や監督は審判を侮辱してはならないのか。なぜ侮辱された審判は選手や監督に対して強い態度をとるのか。審判が高圧的だという批判を受けるとき、多くの場合は理由があって、そう見える態度を意図的にとっているケースがほとんどだ。その背景にある思想がもっと知られてほしいというのも、今回の一連の出来事を見ていて感じたことだ。
■審判は裏方ではなく、グラウンド上の第三のチーム
審判員は裏方だ、目立ってはいけない存在だとよく言われる。だが、その考え方は間違っている。
たしかに、審判の立場から言っても、審判が目立つ試合はトラブルの多い試合であり、最初から最後まで審判の存在が感じられないような試合を作ることは、ひとつの理想ではある。しかし、それは審判をうまくやってのけるための心構えのようなものであって、審判員を公然と裏方扱いするのは野球規則の精神に反する。
野球は、囲いのある競技場で、監督が指揮する9人のプレーヤーから成る二つのチームの間で、1人ないし数人の審判員の権限のもとに、本規則に従って行われる競技である。
ここでは、野球は2つのチームと審判員の三者で行うものだと明記されている。MLBで2012年のワールドシリーズに選ばれた審判クルーを追うドキュメンタリー番組が製作されたことがあるが、その題名は『THE THIRD TEAM(第三のチーム)』だった。これは審判員が野球の試合に欠くべからざるピースの一部なのだということを物語る好例だと思う。
(a)リーグ会長は、1名以上の審判員を指名して、各リーグの選手権試合を主宰させる。審判員は本公認野球規則に基づいて、試合を主宰するとともに、試合中、競技場における規律と秩序とを維持する責にも任ずる。
審判員はリーグ会長の代理として試合を主宰する者であると規定されている。プレーヤーは審判の指示によって試合を進行するのだから、審判こそが試合の中心とも言えるのだが、もちろん、それは理屈であって、審判の側でも自身が主役ではないことは重々承知している。主役はあくまでも実際にプレーする選手だ。
試合の進行はジャッジによって行われる。球審が「プレイ」を宣告し、投手が第一球を投じる。球審は一球一球に「ストライク」または「ボール」を宣告し、打者が出塁して走者になれば「アウト」または「セーフ」を宣告する。飛球が上がれば捕球か否か、打球が「フェア」か「ファウル」か、選手同士がぶつかったらどちらの妨害か……ありとあらゆることをジャッジし、いちいち宣告する。これほど審判がワンプレーごとにしゃしゃり出てくるスポーツがあるだろうか。
■審判に文句をつけていたら試合が進まない
(a)打球がフェアかファウルか、投球がストライクかボールか、あるいは走者がアウトかセーフかという裁定に限らず、審判員の判断に基づく裁定は最終のものであるから、プレーヤー、監督、コーチまたは控えのプレーヤーが、その裁定に対して、異議を唱えることは許されない。
だからこそ、審判員には強い権限が与えられている。審判の裁定を逐一必要とする仕組みである以上、そのジャッジにいちいち異議を唱えていたら、試合の進行に差し支える。見た目でどちらとも言えないような微妙なプレーだったら、どうせ揉める。それなら第三者に決めてもらって試合を進行していこうというのが野球のルールの考え方なのだ。もし審判の下した裁定に納得できなかったら、プレーヤーのほうが試合から出て行くしかない。
(d)審判員は、プレーヤー、コーチ、監督または控えのプレーヤーが裁定に異議を唱えたり、スポーツマンらしくない言動をとった場合には、その出場資格を奪って、試合から除く権限を持つ。
実際の試合では、異議をまったく受け付けないわけではなく、とりあえず話は聞く。それで審判員が説明を尽くしても「納得いかない」と言って頑張るようなら仕方なく退場を宣告することになる。試合進行の妨げになるからだ。また、暴言や暴力行為があった場合も、審判としては不本意ながらご退場願うことになる。全ては試合進行を司る主宰者としての役割である。
■原初のベースボールにも審判の規則が2つあった
ベースボールの起源には諸説あるが、それまでラウンダーズとかタウンボールとか呼ばれていた遊びを、ニューヨークのアレキサンダー・カートライトが1845年にルールを整備して、自分自身でチームを組織したのが始まりとされている。そのチームが「ニッカーボッカーズ」であり、その原初のルールを「ニッカーボッカールール」と呼んでいる。プレーに関する規則は全部で20条しかない簡素なものだが、そのうちの2つが審判員についての規定である。
第2条 メンバーが集合したとき会長は審判を指名する。審判は試合を記録用のノートに記録し、この規則に違反したすべての行為を書き留める。
第17条 試合に関する紛争や異議は、すべて審判が裁定する。抗議は認められない。
(日本語訳は野球体育博物館による)
審判の裁定に対する抗議を認めない規定は現在でも変わらないが、原初のルールからそんなことが規定されている事実に驚かされる。つまり、ラウンダーズやタウンボールでもそれだけ揉めごとが絶えなかったのだろう。
■レジェンド審判が言った「私は一度も間違ったことがない」
審判も人の子、実際には間違った判定を下すこともある。しかし、ベースボールが始まった頃、それを証明する手段は何もなかった。審判は見た通りをジャッジした、それに対して違う違わないと言っても水掛け論にしかならない。
審判としても、いちいち「間違ってました、スミマセン」などと言うわけにはいかなかったし、間違っていたと思っていたら本当は正しかったり、正しいと思っていたら実は間違っていたり、野球の審判はなかなか難しいのである。それで、審判というのは判定が間違っていたとは認めないし、謝ったりもしないという文化が生まれることになった。
メジャーリーグ初期の伝説的審判であるビル・クレム氏は「私は一度も間違ったことがない」と言ったとされるが、そのくらいの気概がなければいけないということだろう。
■「デモンストレーション」はなぜ禁じられているのか
規則で審判員に強い権限を与えていても、そのジャッジに不満を持てば監督や選手は騒ぎ立てる。観客だって騒ぎ立てる。どのようにしてグラウンド内の秩序を保つかということは、MLB発足と同時にプロ審判員が誕生して以来の大きな課題だった。そこで、審判員に対する侮辱行為は厳しく取り締まることになった。
最近は日本でも知られるようになってきたが、アメリカの野球では昔から「デモンストレーション」を禁じる文化がある。デモンストレーションとは、周囲から見て分かるような、あからさまな身振り手振りを入れた抗議のことだ。
たとえば監督が抗議をする際に、「見てみろ、こんなお客さんの前で間違えて恥ずかしくないのか」と言わんばかりに両手を広げたり、「ちゃんと見ているのか」という意味で両目を指さしたりすることは、観客を扇動することにつながるので禁じられている。デモンストレーションをすれば警告が発せられ、それでもやめなければ退場になる。判定に不満でバットやヘルメットを叩きつけたり、ベースを引っこ抜いて放り投げたり、ホームベースに砂をかけたりする行為は一発退場だ。
ここまでひどくなくても、ボールをコールされた捕手が球審を振り返って質問したり、投手が肩をすくめて両手を広げたりするのは審判から嫌われる。こんな行為を見れば観客が選手と審判とどちらの味方をするかは火を見るより明らかだからだ。これを野放しにすれば審判はナメられてゲームコントロールを失うと、審判学校やマイナーリーグの現場で教官から教わる。だからアメリカの審判はこうしたデモンストレーションも決して見逃さない。いきなり退場にしないまでも、キッパリと注意をする。
■佐々木投手の態度はデモンストレーションにきわめて近い
翻って、白井球審と佐々木投手の一件である。佐々木投手の一連の態度はデモンストレーションにきわめて近い。これに対して毅然とひと言モノ申しておかなければならぬというのは審判として当然の反応だ。なお、今回の件で、審判に関係する規則のひとつである8.02(a)【原注】を引用して白井球審の動きを説明する人も散見されたが、私はあまり賛成できない。
(a)【原注】ボール、ストライクの判定について異議を唱えるためにプレーヤーが守備位置または塁を離れたり、監督またはコーチがベンチまたはコーチスボックスを離れることは許されない。もし、宣告に異議を唱えるために本塁に向かってスタートすれば、警告が発せられる。警告にもかかわらず本塁に近づけば、試合から除かれる。
問題のケースでは、佐々木投手は決して審判に近づき続けてはいない。数歩踏み出してすぐやめている。もし、8.02(a)【原注】に基づく警告なら、「近付いてはいけない」と手のひらを向けて制止するのが正しいやり方だ。
5月15日に白井球審がレアード選手を退場にしたときは、三振の判定に不満でクレームをつけるレアード選手に対して、まずこのポーズで抗議を拒絶していた。前述の通り佐々木投手は何歩か踏み出してやめたのだから、それをつかまえて突っかかっていったら、それは審判側が明らかにやりすぎだ。
■判定が間違っていれば審判を侮辱していいことにはならない
競技中のプレーヤーの禁止事項
(a)監督、プレーヤー、控えのプレーヤー、コーチ、トレーナーおよびバットボーイは、どんなときでも、ベンチ、コーチスボックス、その他競技場のどの場所からでも、次のことをしてはならない。
(1)言葉、サインを用いて、観衆を騒ぎ立たせるようあおったり、あおろうとすること。
(2)どんな方法であろうとも、相手チームのプレーヤー、審判員または観衆に対して、悪口をいったりまたは暴言を吐くこと。(後略)
今回の問題のポイントはデモンストレーションに対する戒めなのである。審判を侮辱する行為に対しては、断固とした態度で臨む。判定が正しい・間違っているということは関係ない。判定が間違っているから審判を侮辱していいということにはならない。
白井球審は、審判マスクを外してタイムをかけて佐々木投手のほうに向かっていった。マスクを外すのは、強い態度で注意をするという行為を表すための所作だと審判学校で教わる。白井審判は、これまで教わってきた通りのことをしただけなのだ。
■ビデオ判定とSNS時代に、もう言い逃れはできない
審判関係のトラブルが話題になると、「感情で判定している」などとSNSに書かれることも多い。しかし、プロの審判で、感情で判定する者など一人もいない。ゲームをコントロールする方法として、あるときは怖い顔を作って選手や監督に対峙し、あるときは抗議に負けじと激しい口調で応戦することもあるというだけだ。過去のさまざまな事例に基づいて現在ではあらゆる行動がマニュアル化されており、皆それに従っている。
ただ、ビデオ判定の確立とSNS時代の到来によって、野球の世界も大きく変わってきた。
100年前の野球では、審判の判定が正しいか間違っているか証明する術はなく、審判の判定が絶対ということにせざるを得なかった。
その後、テレビ中継が始まると、ジャッジの誤りが明らかになることも出てきたが、それでも審判の判定は守られ続けてきた。しかし、それも20世紀までの話だ。21世紀になると映像技術は飛躍的に進歩し、プロ野球は全試合中継が当たり前になった。さらにSNS時代がやってきて、誰でもいつでもプレー動画を撮影してアップロードできるようになっている。もう言い逃れはできなくなった。
■「間違いを認めてはいけない」審判の常識が変わる
MLBではチャレンジが導入される数年前から、審判が試合後にミスジャッジを認め、記者会見を開くケースが増えていた。チャレンジ制度の確立によって、このような記者会見は再びなくなったが、間違いを認めてはいけないとされていた野球の審判にとって、明らかに新たな時代が到来したと感じた。
筆者はビデオ判定による判定の訂正は大いに賛成の立場だ。私も含めて世の中のほとんどの野球審判はビデオ判定がない世界でジャッジをしている。その瞬間に起こる事象に対して見たままをジャッジしたつもりでも、それが正しいかどうかは分からない。誰も助けてはくれないし、一度言ったことを引っ込めるわけにもいかない。どんなに審判仲間がいても、プレーヤーと一緒に試合を作っていても、ジャッジする行為については本当に孤独なのだ。
■「損で孤独な役回り」は終わりつつある
私はルートインBCリーグで審判を務めていた2014年に、当時の審判部長が「間違ったジャッジはどんどん訂正して構わない」という方針を掲げていたので、実際に何度かクルーのミスジャッジを訂正したことがある。誰が見ても明らかなノーキャッチをダイレクト捕球と判定したようなケースでは積極的に訂正し、クルーチーフという立場でマイクを握ってお詫びとともに訂正を発表したものだった。手前味噌だが、まだNPBでもビデオ判定に消極的な意見が多かった時代に、画期的なことだったと思う。
審判は正しいジャッジをして当たり前とされて、普通の人間なら誰でもする「失敗」を許されず、ちょっとしたミスでも罵詈雑言を浴びせられる損な役回りである。しかし、グラウンドの中で誰も助けてくれない孤独者であった時代は終わった。必要以上にチームに対して攻撃的になる必要もない。間違いの訂正も可能になり、より良い試合進行を実現できるようになってきた。
だからこそ、規則の精神をあらためて思い起こし、審判のジャッジで試合を進めるという原則を徹底してほしいと思う。片方のチームと、もう一方のチームと、そして審判チームとが、お互いにリスペクトし合いながら試合を形作っていく。今こそ、そんな新しい野球の姿を実現させていけるよう努力していく時期に来ていると思う。
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粟村 哲志(あわむら・さとし)
野球審判員
1975年生まれ。広島県出身。早稲田大学卒業。中学硬式野球団体で審判活動を始め、東京都野球連盟(JABA)所属を経て2007年より国内独立リーグで通算7シーズン審判を務めた。『わかりやすい野球のルール』(成美堂出版)監修。
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(野球審判員 粟村 哲志)