映画「幸福なラザロ」 現代に現れた聖人が私たちに問いかけるもの - 紫原 明子
※この記事は2019年05月02日にBLOGOSで公開されたものです
現在公開中の「幸福なラザロ」という映画を観ました。
舞台は20世紀後半のイタリア、インヴィオラータと呼ばれる、街から隔絶された貧しい村。村人たちは、侯爵夫人の小作人としてタバコ農園で働いています。現実には何年も前に小作人制度が廃止されているにも関わらず、村人たちは、そのことを知らされることなく、不当に搾取され続けていました。村人の一人である主人公のラザロという青年は、この貧しい村の中で一番の働き者で、侯爵夫人に搾取されている村人たちは、さらにこのラザロを搾取していました。
ある日、村にやってきた侯爵夫人の息子とラザロが出会ったことをきっかけに、村は大きな転機を迎える……というのがこの映画のおおまかなストーリーです。
廃止された小作人制度がその後も不当に存続していたという、イタリアで実際にあった事件をもとにつくられた本作。貧困や搾取という社会問題を表層的に描くばかりでなく、ラザロという青年を通して、観る者により根源的な問いを投げかけます。
ラザロは現代の聖人
村の人にどんな雑用を言いつけられても、限られた自分の食べ物を犬のエサにされようとも顔色一つ変えないラザロ。ラザロは、認められたい、褒められたいと望むこともなければ、誰かを恨んだり、不満を持ったりすることもありません。
死後4日経って、キリストの奇跡により生き返ったとされる聖人「復活のラザロ」がモチーフとなっているという主人公ラザロ。本作の監督であるアリーチェ・ロルヴァケル氏は、パンフレットの中で次のように語っています。
「聖人をイメージする時、私達は強さとカリスマ性を兼ね備え、強い主張を持った存在を思い描くでしょう。しかし、私は尊さとカリスマ性は別物だと感じています。もし聖人が今日、現代社会に現れたとしたら、その存在に気付かないかもしれない。もしかしたら、何のためらいもなく彼らのことを邪険に扱うかもしれません」
よく働き、しかしその存在を主張することもなく、ともすれば邪険に扱われかねない聖人。日本人にとって、ここで描かれる聖人の像には親しみがありますよね。
「雨ニモマケズ」宮沢賢治
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ䕃ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ(#「朿ヲ」はママ)負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩
ただ、ラザロと「雨ニモマケズ」が少しだけ異なるように思うのは、恐怖に寄り添ったり、喧嘩をやめろと諭したりするところです。賢治の詩で描かれる人物は、人の感情を理解し、寄り添うことができる。また、強く主張することはないけれども、自分の思想を持っています。
ところが劇中で描かれるラザロというのは、もっともっとシンプルなんです。感情や、私利私欲の混ざる、あらゆる人間的な営みから切り離されていて、善く生きようとは思っていないし、誰かを救おうとも全く思っていません。目の前にあるもの、目の前にある人、発せられた言葉、すべてをただそのままに受け止める。ただそれだけの、究極にイノセンスな存在なんです。
善く生きようとすることの傲慢さ
そんなラザロと、彼のいる世界をスクリーン越しに見つめていると、その光景のあまりの尊さに、自然と涙が止まらなくなってしまいました。この美しさが価値のあるものだとこれほど理解し、求めることができるにも関わらず、それを持ち得ることがいかに難しいことか。いかに私たちの、手にし得ないものか。希望と絶望とを、同時に突きつけられているかのようでした。
考えてみれば、善く生きようと務めることというのは、絶えず、悪を認識し続けることと裏表です。善と悪や、損か得か。誰かの言葉と、その裏に潜む真意。私たちはあらゆるものを絶えず認識し、区別し、判断しながら生きているし、その傲慢さは、生きる上で必要不可欠なものと、疑うことがありません。けれども、果たして本当にそうなのだろうか、と考えさせられました。
ラザロの姿にこんなにも強く心を揺さぶられるのは、生き抜くための武器として手にしている傲慢さが、世界に向けられているのと同じ鋭さで、いつだって自分にも向けられているからではないか、世界を脅かすように、自分自身をも脅かしているからではないのか。
この映画は全編を通して、そんな途方もなく大きな問いを、私たちに投げかけてくるのです。