【東日本大震災から8年】語り続ける夫婦。亡くなった子どもの無念さを伝える~七十七銀行女川支店での悲劇 - 渋井哲也
※この記事は2019年03月25日にBLOGOSで公開されたものです
東日本大震災から8年目を迎えようとしていた3月10日。宮城県女川町を訪れた。『町東日本大震災震災記録誌』によると、最大津波高は14.8メートル、最大遡上高は34.7メートルが記録された。町では死亡・行方不明者を合わせると827人(人口の8.26%)にもなる。その町で震災後から語り部を続けている夫婦がいる。七十七銀行女川支店で働いていた健太さん(当時25)を亡くした田村孝行さん、弘美さん夫妻だ。「この場所に来ないと落ち着かない」と言い、この日も大学生や観光客らに、津波のことや健太さんが亡くなる経緯などを説明していた。
風景は変わり続けるが、海の匂いや風は同じ
「8年も経つと、風景は様変わりです。毎週少しずつ、変わっています。しかし、海の匂いや風は変わりません。復興?復旧作業の一部ですよね。それよりも、逃げる場所や体制づくりをしたほうがいい。観光客に慰霊する場所の案内表示もないし、避難場所もわからない。そういうことを含めて、ちゃんとしないといけない」(孝行さん)
2人は自宅のある大崎市から通い、町の変化を見続けてきた。
「被災地に行き、遺族の話を聞き、遺品を見てほしいと思っています」(同)
支店長が屋上避難を指示。健太さんは「高台に行った方が」
健太さんは2008年4月、七十七銀行に入社。2010年3月6日、女川支店に異動となった。3月11日14時46分に地震が発生。当時、女川支店には14人の行員らが勤務していた。同55分、支店長が外出先から戻ると6メートルの大津波警報が発令されていた。支店長は高さ10メートルの2階屋上の避難を指示した。
健太さんは「まだ時間があるし、高台に行ったほうがいいのでは?」と言っていたことが証言でわかっている。町の指定避難所は、海抜16メートルの堀切山だったが、結果として、支店長が判断した、避難マニュアル通りの屋上避難となった。ただ、屋上からは海を見ることができず、津波を確認することができなかった。
派遣スタッフの1人は子どもを心配したために帰宅した。
15時25分ごろ、地震発生から約40分後、20.3メートルほどの津波が銀行の建物を襲い、屋上を超えた。行員13人が流されたが、1人だけは生還した。ただ、12人が死亡または行方不明となった。震災から半年後の9月26日、約3キロ離れた海上で健太さんは見つかった。
遺族の一部が銀行を提訴したが、敗訴。「屋上は、想定されていた津波から避難できる高さ」
12年9月、従業員3人の遺族が銀行を提訴した。田村夫妻も原告に入っていた。町指定避難所の堀切山ではなく、銀行の屋上を選んだのは「安全配慮義務違反にあたる」と主張した。一方、銀行側は「屋上の高さを超える津波は予見できなかった」とした。
震災前に想定していた宮城県沖地震による津波の高さは、女川町では5.3メートルから5.9メートル。想定とは違った震源の位置や深さの場合は変化するため、あくまで目安にすぎない。ただ、支店長が屋上に避難指示をした理由があった。震災前に同銀行が沿岸部にある9つの支店に災害対応プランとして、「屋上等への避難」を策定していたためだ。その意味では、企業の管理下における労働災害の側面もあった。
一審判決(仙台地裁)では、屋上への緊急避難は合理性があった、として、原告の訴えを認めなかった。控訴審(仙台高裁)では、再発防止につながるという和解案が示されたが、遺族側は「支店の被災を踏まえていない」との見解を示したことで、和解協議は打ち切られた。その後、控訴審は一審を支持して、「屋上までの高さは約10メートルで想定されていた津波から避難できる高さがあった」などとして、遺族側の敗訴。最高裁は上告を棄却した。
確定判決では、企業としては「想定=基準」であり、基準を満たしていれば、法的責任はない、としている。マニュアル通りに判断した上司が避難指示をした結果、従業員が亡くなったとしても、企業の法的責任は問えない。つまりは、命を守るのは自己責任で、上司の避難誘導は絶対ではなく、あくまでも参考、ということになるのだろう。
当初から銀行ビルの近くで語り部を始める
町指定避難所となっている堀切山中腹には、現在、「鎮魂の花壇」がある。この場所で、田村さんら遺族は休日に女川支店の悲劇を伝える。当初は、同支店の跡地で訪れる人に説明していた。被災地では珍しく、土台部分から横倒しになった3棟のビルがあった。その1つ、4階建の江島共済会館近くに同支店があった。
「当初は銀行ビルの横で説明していました。横倒しのビルにいろんな人が来ていたんです。そのビルを説明しながら、こっちの話も聞いてもらっていたんです。そこから(語り部が)始まった。当時は何かしなくちゃ、との思いがありました」(弘美さん)
現在では町から場所を借りて、「鎮魂の花壇」を設置。日曜日ごとに夫妻は立ち、健太さんが過ごした場所で語り続けている。
「我々を介して息子が言葉を発している感じがします。きっと、叱咤激励をしてくれています。これまでにもらった名刺は千枚以上にもなりますが、それ以上にいろんな人が来ますので、私たちの記憶が追いつかない。今ではfacebookを通じて連絡が来ます。(児童と教職員あわせて84人が亡くなった)大川小ほど知られてはいませんが、企業は誰しもが関わる。判決文では、有事の際には(犠牲者が出ても)仕方がないとなっている。それではまずい。次に同じようなことがあれば、裁判で企業防災が議論されていくでしょうが、経験から事前の備えや予防責任、人の命をどうしていくのかを考えなければなりません」(孝行さん)
裁判では遺族が敗訴した。中央防災会議が想定していた「宮城県沖地震」による津波の高さを根拠にしたハザードマップを前提に、企業は従業員の避難誘導するマニュアルを策定することになるが、想定される高さを超える津波を考えなくてもよいかが争点の1つでもあった。判決には今でも疑問を持ちながらも、未来を担う世代に語り続ける。
「若い世代に伝えることが多くなってきました。中学生が連絡をとってきたり、サッカーチームの指導者が“選手である前に人としてすべきこと”を考えるために訪れます。そうした子どもたちの日常生活にプラスにしてもらいたい。去年は10数カ所の大学のゼミなどで話をしました。共通して最後には“明日は我が身だよ”と伝えます。企業防災などをテーマに卒論を書く人もいますが、就活の役にも立って欲しい」(同)
語り部活動に不安を持っていたが、確信を持ったのは最近のこと
ただ、続けてきたことについては不安もあった。
「私たちがここでこんな活動をしていいのか?という思いがあったんです。しかし、このままで終わる話ではないという思いもありました。私たちの思いをストレートに伝えるしかないと思いました。実は不安な思いがありながらやってきました。最近になって、私たちの思いは間違っていないと確信できるようになったんです。やっと、やっとです。できることは限られます。続けていくことが大切なのかな」(弘美さん)
震災から8年。孝行さんはある決断をした。定年まで1年を残して、会社を退職し、この活動に力を入れるというのだ。
「日本の国の男性の性(さが)として、いろんな人を蹴落として出世を考えてしまうものだが、そうした価値観が変わった。ならば、思ったことを素直に行動しようと。それに、これまでつながった人へのお礼を含めて、活動をまとめたいと思っています。お金があったほうがいいですが、親バカだけど、息子は自分の分身。その息子を生かし続けないと、申し訳ないと思った。高校まで息子が野球をしている姿を追っかけてきた。今でも同じ」
弘美さんとも十分に話し合った。
「こういう活動はいつまでできるかわからないでしょ。今やれることをしないと。8年間やってきたけれど、思うように、やりたいことをしないといけない。年金をもらうまで時間はあるけど、こういう経験(災害で息子をなくすこと)をした以上、平凡に今の生活を維持できればいいというものではなかくなった。今でも息子は我が家の中心なんです。子育ての延長ですね。すぐに形になるかどうかはわからないけど、息子を向き合わざるを得ない。それが私たちの生きる原動力です」