「祭りをやりたい」被災地の願いに応え、がれきで神輿を作った青年 - 渋井哲也
※この記事は2019年03月22日にBLOGOSで公開されたものです
「じいさんの生きた軌跡を繋ぎたい」。大好きだった祖父の死。東日本大震災。それらをきっかけに、神輿や地域の祭りに目を向けたのが宮田宣也さん(31)だ。神輿職人だった祖父を喜ばせたいという思いが心の奥底にあり、それを開花させたのは、東日本大震災でのボランティア活動を通じた出会いだった。現在は、一般社団法人「明日襷(アシタスキ)」の活動を始め、都市部の若者や外国人留学生を連れて、神輿の担ぎ手が少なくなった全国各地の祭りに参加している。
宮田さんの活動を映像化した作品が「MIKOSHI GUY 祭の男」(監督・構成イノマタトシ[猪股敏郎])だ。ベルリンで亡き祖父が作った神輿をあげるシーンから始まり、宮城県石巻市雄勝町、茨城県つくば市小田、山梨県笛吹市、神奈川県小田原市、岡山県岡山市などでも神輿を担ぐ。そして、各地で新しい輪が広がって行く。主人公の宮田さんへ思い等を聞いた。また、猪股監督にも撮影のきっかけなどを伺った。
3月23日から29日まで、東京・渋谷のアップリンクで限定ロードショー。
予告動画
-- 2011年3月11日。東日本大震災が発生しましたが、当時宮田さんはどうしていたのですか?
震災当時は大学院1年で、茨城県つくば市に住んでいました。(震度6弱だった)つくば市もかなり被災しました。各地で停電があり、茨城県企業局霞ヶ浦浄水場が壊れて、断水しました。大学は立入禁止となったのです。大変なことが起きたと思いました。
テレビをつけると、東北はもっと大変だと思ったのです。つくばにいれば普通に日常に戻ることができましたが、「この状態で学校へ行けるのか?」と考えたり、日常を取り戻すことは「気持ち悪い」と思ったのです。「大変な人たちがたくさんいるのに、日常を過ごしていいのか」と。想像すると、何も手に付きませんでした。
そこで自転車で東北へ向かったのです。「車では行けない」「燃料が入手できない」などの噂があったので、自転車なら行けると思ったんです。特にあてはなかったですが、とりあえず行ってみようと。「行っても迷惑なだけ」との情報もありましたが、やれることは何かしらあると思ったんです。何もできないのだとしても、それを確かめたい。すべてを振り切って行ってみようと。そのときは、のちに東北で神輿を作ることになるとは思ってもいませんでした。
-- 自転車で東北へ行くのは大変だったと思いますが....
家族や友人、先生には止められました。「今行っても無駄だ」とも言われました。自転車に積んだ荷物は、重さ200キロぐらいにありました。「何が足りないのか?」と想像した時に、道具だと思ったんです。被災地でも動ける人はいるだろうけれども、道具がなければ、技術を持っていても何もできないと考えて、ベーシックな大工道具を積めました。僕、物作りが好きなんです。学生の時には、友達を集めて、神輿を作っていました。
-- 神輿を作ることになったきっかけは?
じいさんが神輿職人だったんです。じいさんは神輿を作っただけでなく、神輿のリーダーでもありました。地域の神社の行事はすべて作り上げていたのです。祭りの日に、じいさんはキャプテンとして人をどう動かすのか、来た人をどう喜ばせるのか、極め細かく神経をとがらせていました。宮田家の孫の中では僕だけが男だったこともあり、じいさんは継がせたかったんでしょうね。いろんな場所に連れててもらった知らない間に、祭りが生活に入っていて、じいさんの影響を受けていたんです。でも、大学4年生の正月、じいさんが神社までの坂を上がれなくなっていました。肺の難病を患って、日々弱って行ったんです。じいさんに対して何かしてあげたのか?というと何もできてない。安心させたかったんです。
--それだけ「安心させたい」という気持ちを生じさせる理由があったのですね?
実は、母親の再婚相手、継父から虐待を受けていて、ずっと自分の存在を否定され続けていたんです。そんな時に、認めてくれたのが実の父親とじいさんでした。実の父親とは小学生の時に生き別れて、中3のときに再会したのですが、会った瞬間に涙を流しながら喜んでくれました。初めて愛情を感じました。そのときに父からもらった時計は今でも大切に身につけています。実の父親もじいさんも、テストの成績が良かったり、空手の試合に勝ったりすると喜んでくれた。二人が自分にとって頑張る理由でした。
しかし、20歳の時、父親がガンで亡くなって。生きる意味が半分、なくなりました。救ってくれた父親に僕は何もできなかった。だから、もう1人の生きる目的だったじいさんが、弱っていく姿を見ながら、同じ後悔をしたくないと思ったんです。今できること、じいさんが喜んでくれそうなことを考えた結果、神輿を作り始めました。
-- 被災地で人と繋がってく中で、宮城県石巻市雄勝に行くことになった?
宮城県南三陸町に3ヶ月ほど住んでいたのですが、仙台で知り合った女性から電話があったんです。当時、石巻市の中心部はボランティアがたくさん来ていましたが、雄勝や牡鹿半島はボランティアセンターが行き届いていなかったんです。そのため、小さなボランティアセンターが必要との話でした。そこで雄勝に行くことになり、話している中で、「祭りをやりたい」という声を聞いたんです。
それで、新山神社の瓦礫を使った神輿を作って、11月に復興商店街の祭りをしました。これは昔からあるような本格的な祭りではなく、ボランティアの延長でハートフルなものでした。
そのあと、2013年に(雄勝半島の)桑浜にある白銀神社の祭りも手伝いました。これは地域の伝統的な祭りです。神輿が出てきたら、集落の人みんなが出てくる。涙を流して、神輿に手を合わせる姿を見て、衝撃を受けました。取り戻したいのは、こういう祭りなんだなと思ったんです。美しい自然だけじゃなく、生活と祭り、神輿、そしてみんなの表情が渾然一体となって輝く。僕の中の遺伝子、じいさんによって作られた筋が反応したんです。こういう祭りは日本にたくさんある。知らないうちになくなってしまうのは勿体無い。そう思って、地域に残る文化を発見し、守り、伝える「一般社団法人 明日襷(あすたすき)」を立ち上げました。
--こうした祭りを、震災がなければ知ることがなかったんですよね?
震災がなければ、こうした祭りは今はないかもしれません。白銀神社の祭りでは、神輿を「担ぐ」というより、大きく揺らしたり、傾けたりするのですごく大変なんです。しかもそれを震災前はたった12人でやっていたそうなんです。そうすると、楽しみではなく、義務化して、重荷になっていく。みんな、神輿がそれほど好きではなくなっていました。そんな中で僕らが手伝いはじめて、毎年、若い人たちを10人くらい連れて行くんです。とはいえ、もちろん、地元の人たちが自分でやれないと継続していかない。僕らは、意識的に地元の若い人たちに声をかけています。
“お祭り好きなおっさんの息子”というのはどこにでもいます。めんどくさいけれど、呼ばれてきたというような。僕もそういう子どもだったんです。最初は「行かないと怒られるから」でもいい。僕らや僕らが連れて行った他の地域の若者たちから、「最高の祭りじゃん」と言われる経験を重ねていくうちに、「うちの神社の祭りは最高だからきて」と彼ら自身が誘えるようになる。白銀神社は今はそうなっています。すごく空気が変わりました。
こうした宮田さんやその活動を映像作品にしたのは猪股敏郎監督だ。
-- どうして撮影することになったのでしょうか?
出会いは2年半前です。当時、職人を取材していて、友人が宮田くんを紹介してくれました。錦糸町の祭りに呼ばれたのが最初です。そのあと、御蔵島に行ったときに、たまたま祭りに遭遇して、神輿を担いだら、すごく面白かったんです。その実体験が一つ大きいですね。
一方で、僕はもともとCMディレクターなのですが、震災後はCMが作れなかった。そんなとき友人の記者から被災地の写真を見せられ、私も映像を撮影しに行くことになりました。福島県相馬市、宮城県南三陸町、岩手県宮古市を訪れました。相馬では、1000年以上も続くとされている野馬追が原発事故でできずにいましたが、再開する様子も見て、祭りの力で地域が復活して行くのも宮田くんと同じく実感していました。
それから、宮田くんの地元である横浜市本郷台にある春日神社の祭りに行ったのですが、他の祭りとは違って、若い人が多く、雰囲気がまったく違った。祭りの後、宮田くんの家で、仲間たちが雑魚寝をしているのに、僕も帰れないから一緒に加わって(笑)。そうやって一緒に過ごすうちに、どんどん惹かれていきました。
ちょうどその頃、ベルリンで神輿をあげる、という話も聞いて、翌年もあげるということなので、取材をしようとなったんです。気づけば2年以上撮り続けていました。
--どんな視点で撮影したのでしょう?
僕はたった1人の思いから革命が起きると思っています。1人の青年の活動から、ベルリンで神輿をあげることになった。1人の思いが、いろんな人の共感を呼んでいるんです。一方、1人の思いだけでは神輿はあがらない。みんなの力が必要。仲間というのもキーワードです。思いがどういう広がりを見せていくか、仲間がどう広がっていくのか、それによって、宮田くん自身がどう成長して行くのかを撮りたかったんです。もしかすると、宮田くん自身は僕と出会う前から変わっていっていたのかもしれませんが。
宮田くんの活動は、フランスやベルリン、スロベニア、リトアニア、ブルガリアへと広がっています。海外での注目を浴びることによって、日本でも祭りや神輿に注目が集まっていく。こういう活動を最初から計画していたわけではないと思いますが、彼のまっすぐな熱意がどんどん伝わって行っているのだと思います。こういう若者がいるんだっていうことを映画を通じてぜひ多くの人に知ってもらいたいです。
監督・構成:イノマタトシ[猪股敏郎]
プロデューサー:石井正人 /撮影:黒田大介・下山遼佑 /音楽:濱田貴司 /歌:CHAN-MIKA /編集:宮田耕嗣
宣伝:アーヤ藍 製作:「MIKOSHI GUY」製作委員会 制作:(株)FPI 制作協力:一般社団法人 明日襷
2019年/日本/カラー/1時間16分