内田裕也さんの波乱に満ちた「破天荒ロッケンロール人生」 - 渡邉裕二
※この記事は2019年03月18日にBLOGOSで公開されたものです
「多くの友人知人、家族に支えられて、Rock'n'Roll人生を全うすることが出来ましたことをここに心からお礼申し上げます」。内田裕也さん(本名=内田雄也)が17日5時33分、入院先の都内病院で肺炎のため逝去した。79歳だった。
妻で女優の樹木希林さんが亡くなってわずか半年。波乱に満ちた破天荒な人生を送ってきた裕也さんの人生の幕切れは呆気ないものだった。
「ここ数年は闘病の日々だった」という。
3年前の2016年11月に英ロンドンのホテルの浴室で転倒した。翌17年夏には転倒して右足甲を骨折、その数ヶ月後には脱水症状で緊急入院もした。また、希林さんが亡くなった後は「声が出にくい状態だが頑張っていきたい」とも語っていた。そういったこともあって自身が46回にわたってプロデュースし続けてきた恒例の年越しライブ・イベント「ニュー・イヤーズ・ワールド・ロック・フェスティバル」には車椅子で参加していた。
「完全復帰を目指してリハビリに励んでいた」というが、今年に入ると日増しに体力が衰えていったそうで、12年から欠かさず出席していた東日本大震災の追悼式も今年は欠席していた。
裕也さんは兵庫県西宮市の出身。エルビス・プレスリーに憧れ高校を中退し、1959年に日劇「ウエスタン・カーニバル」でデビューした。いくつかのバンドと活動していく中、大阪のジャズ喫茶でバンド活動していた沢田研二をスカウトしたのも裕也さんだった。その後、このバンドはザ・タイガースとなった。
さらに、ジョー山中さんとフラワー・トラベリン・バンドを結成するなど自らの音楽活動も活発化した。66年のザ・ビートルズの日本公演では尾藤イサオ(75)とスペシャル・バンドを組んで前座出演もしている。
その後、73年に樹木希林さんと結婚するも、わずか1年半で「別居生活」となった。さらに81年には希林さんに無断で「離婚届」を提出するといったドタバタ劇を引き起こしている。この時は「紙ペラの結婚しかしてないのに…きちんとした結婚生活なんて全然やっていない。主人の役目も果たさないで」と、希林さんは訴訟を起こし、裕也さんが勝手に提出していた離婚届の無効を勝ち取った。
また、ミュージシャンで活動する一方、俳優や脚本家としても活躍するようになり、滝田洋二郎監督「コミック雑誌なんかいらない!」(86年)などにも主演した。
大麻に銃刀法違反、都知事選出馬と波乱万丈の人生
トラブルも絶えなかった。77年には大麻取締法違反、83年には銃刀法違反などで逮捕されている。ところが、91年には東京都知事選に無所属で立候補し、政見放送では冒頭でいきなりジョン・レノンの「パワー・トゥ・ザ・ピープル」を歌い出し、その後、英語で自己紹介をし始めたかと思ったら、最後は「俺のまわりはピエロばかり…」と、「コミック雑誌なんか要らない」を歌うなどで有権者を唖然とさせた。とにかく、裕也さんの人生はブッ飛んだ“ロッケンロール”だった。
その裕也さんで、私が一番印象に残っているのは東日本大震災直後――2011年5月の「強要未遂と住居侵入」容疑で逮捕されたことだった。これは前代未聞ともいうべき事件だった。
この事件は当時、交際していた当時50歳の航空会社CAとの間のトラブルだった。女性から別れを持ち出されたことに裕也さんが逆ギレ、「暴力団と交際をしていて、覚醒剤を使っていたと会社に連絡した」と手書きで記した封書を女性の家の郵便箱に投げ入れたことだった。
にわかに信じがたい行動であるが、裕也さんからすると「脅した」わけではなく「円満に別れたかった」行動だったらしい。そればかりではない。裕也さんは、この女性が留守にしている間に、勝手に家に入り込んだばかりか、業者に依頼して玄関の鍵を勝手に交換してしまった。さらに、女性の実家にも押しかけ警察沙汰になった。
結局、警視庁原宿署によって逮捕されたが、女性は「(裕也から)暴力を振るわれた」とも訴えていた。今だったら、さらに大問題に発展するような事件だった。
警察の調べに対して裕也さんは「手紙を書いたのは事実」と認めたが、その理由を「円満に別れたかった」と言う一方で、本心では「復縁を迫った」そうだから、まさに歪んだロッケンロール人生だった。
さらに驚かされたのは、事件の裏で希林さんとリクルート「ゼクシィ」のCMに出演していたことだった。当時、「裕也夫妻初共演」として大きな話題になっていたものだ。バックに福山雅治の「家族になろうよ」が流れ、視聴者からの反響も大きかった。
ところが、このCMは4月22日から放送され、逮捕された5月13日には打ち切られた。ゴールデンウィークを含めわずか3週間の放送だった。「もともと、この期間だけの放送だった」とCM関係者は説明していたが、初共演が空しいものになってしまったことだけは確かだ。
そんな裕也さんが大震災の翌年から追悼式に必ず出席してきたのは、ある意味で罪ほろぼしだったのかもしれない。
亡くなる前日の16日は家族と過ごし「オムライスを食べるなど元気だった」そうだが、その夜に病状が急変したという。最期は長女・也哉子(43)が看取った。
也哉子の夫で俳優の本木雅弘(53)は、英ロンドンに滞在していたため最期には立ち会えなかった。訃報に際して所属事務所を通して次のようなコメントを発表した。
仕事の予定がありロンドンに滞在中でした。
訃報の連絡は妻(内田也哉子)から、英国時間で17日に日が変わった深夜に電話で知らされました。
最後に会ったのは3月10日です。前日アメリカから帰国した長男(UTA)と次男を連れて病院へ見舞いに行きました。
熱はありましたが、とても穏やかで、孫たちの話にも嬉しそうに頷き、現在放送中の私のCMについても「なかなか イイな」と褒めてくれました。
容体を見守る日々の中で、私も妻もどこかで覚悟はしておりました。
時代を切り開いてきた業界の先駆者を失くしたという事においても非常に残念ですが、岳父として、常に紳士的に接してくれた事に、ただただ感謝しかありません。
希林さんは、裕也さんについて「彼にはひとかけらの純なものがあるから」と言っていたという。一方、裕也さんは「啓子(希林さんの本名)今までありがとう」と追悼のコメントをしていた。紆余曲折あっただろうが、最期は心で結ばれていた証だろう。