※この記事は2019年03月11日にBLOGOSで公開されたものです

東日本大震災から8年だね。もう8年なのか、まだ8年なのか、人それぞれに思いはさまざまだろう。年々、3.11が来るたびに、東北が次第に忘れかけられている、東北を訪れるボランティアが減っている、なんて話が出てくるよね。

ボランティアが段々と減っていくのは仕方ないな。時と共にモチベーションの移ろいもあるだろうし、その後も熊本を含め災害は頻発しているしね。だけど、もちろん各地でまだまだボランティアの力を必要としている場所に必要なボランティアが充たされたらと思っているよ。

スーパーボランティア・尾畠春夫さんを見世物にしたマスコミ

そんな中で、昨年は尾畠春夫さんって人が現れたよね。ああいう根っからのボランティア生活をしている人が幼い命を救い出すというニュースがあって、スーパーボランティアと呼ばれて日本中がその名を知ったわけだ。尾畠さんに刺激を受けて、自分もボランティアをしてみようとか、いつかやってみたいなとか、ボランティア精神に目覚めた人も多かったと思う。尾畠さんが日本に与えた刺激と効果は大きいよ。

その尾畠さんがさ、1月に都内で講演したあと東京を出発して自宅のある大分まで1100キロを徒歩で帰るって歩き始めたよね。「世界の子どもたちの幸福を願う」っていう目的を掲げて。で、結局、約一ヶ月過ぎて周りが騒がしくなってさ、浜松で旅を断念したわけだ。

あの尾畠さんをひと目見たい、握手したい、写真を撮りたい、サイン欲しい、そんなギャラリーがわんさか集まって現場が尋常でなくなってしまったんだな。尾畠さんいわく「歩道にも車道にも車を止める人がいて、人も歩けない自転車も通れない状態となり“これは異常事態”だなと」「来てくれた人が悪いとか、なんだかんだじゃないんです。総合的に見て“交通事故になるな”と思ったから。人の命にはかえられないから。幼い子ども、高齢者の命にしても。もう、今回はこれで打ち切ろうと思いやめました」って振り返ってたよ。

そりゃそうなるよ。やる前からそうなるってわかってたよ。ハナっからテレビカメラが追っかけてただろ。あれは何が悪いってテレビが悪いよ。今どこにいますなんて追っかけて逐一放送してたらさ、直接そうは言ってなくても「さあお近くの皆さん、あの尾畠さんが歩いてますよ!行けば会えますよ!」って暗に宣伝しているようなもんだもの。煽り運転ってあるだろ、尾畠さんにテレビがしたことは煽り放送だよ。テレビが煽ったことで、現場が変わっちゃったんだ。

尾畠さんが昨年夏に山口で2歳の子を助け、最初に注目された時はニュース性のある「報道」だった。それがどんどん変容して、今回は興味本位の見世物になっちゃったんだな。テレビが尾畠さんを見世物におとしめた、って言ってもいいよ。

語弊があるかもしれないけど尾畠さんは「スーパー」な人で、いい意味で「変人」だよ。だから凄いんだと思う。やってることは一般人から見たらケタの違う相当変なことだよ。だから伝え方によっては「スーパーボランティア」にもなるし「スーパー変人」にもなる。今回はテレビが尾畠さんの「スーパー変人」な姿を追いかけて、その実、見世物としての視聴率を追いかけてたんだ。だから物事の本質からどんどん離れていったんだな。

そんな尾畠さんがリヤカー引っ張って坂登ろうとしたら、後ろからそれを押す人がいたよね。そのことに対して黒鉄ヒロシさんが番組で言ってたけど、「その行為自体を悪いとは思わないけど、もしもそれを、自分はいいことやってるなって感じてるのだとしたら、それはどうかと思う」って言ってた。

同感だよ。尾畠さんのリヤカーを押すってことは、尾畠さんに対する本当の応援ではないからね。尾畠さんがしていることに手を差し伸べたり、物を差し入れて渡そうとしたりっていうのは、単なるファン行為であって、あの人が本来、本意としているボランティア精神とはまったく異なるものだもん。

尾畠さん自身を助けるのは、いいことでも何でもない。尾畠さん自身が「きついから手伝ってくれ」って助けを求めたら話は別だけどね。それに尾畠さんからしたら、次から次に人が寄ってきてさ、挨拶されてその場の相手を続けてたら疲れると思うよ。あの人がやりたいこととは違う方向で、周りの人達が尾畠さんのエネルギーを奪っていたと思う。あんなふうに周りがワイワイと取り囲むのは尾畠さんのためにはならない、「贔屓(ひいき)の引き倒し」だよ。

尾畠さんを真にリスペクトするなら、まず、尾畠さんをほったらかしにすることだ。それが最も尾畠さんの力を発揮させることになるんだから。で、尾畠さんが何かやりたいことをやりきったのなら、その結果をたまに報じてくれるぐらいでいいじゃない。

尾畠さんの精神に共感し、その本質に共鳴するのなら、それは自分自身がボランティアとして何か出来るのだろうか、出来ないのだろうか、って考えてみることなんじゃない?

尾畠さんのように「いい」ことをしている人を応援する、それを良かれと信じて疑わないのは正義感の濫用だよ。正義感の濫用ってロクなもんじゃないよ。「いい」にのめり込むと周りが見えなくなるんだな。善意の押しつけっていうのかな。今回のワイドショーも野次馬も「いい」を盾にして、いつしか周りに迷惑をかけていることを、見て見ぬふりをしていたんだ。その結果、尾畠さんのしたかったことを遮ってしまったんだ。相手の立場を考えずにしてしまう、今の日本人のいちばん良くないところだよ。

結局、そこにあったのは自分を満足させるためだけの正義感だったんじゃないか? そのあたり、もう少し冷静に考えないとな。

頼まれてやるのはボランティアじゃない

ボランティアってたしか、ラテン語かなんかで、任意って意味だよな。え? 語源はラテン語の「ボランタス(Voluntas)、自由意思」、フランス語の「ボランティ(Volunte)、喜びの精神」あたりだって? 

まあ、みずから進んでやるってことだよな。頼まれてやるもんじゃない。自分で進んでやるのがボランティア。だから本来は周りから評価されるものでもないんだよ。ボランティアやってて偉いですね、っていう称賛もボランティア本来の意味からすれば不必要なものなんだ。自分がやりたいことが結果として周りのためになっている、自分の力が余っているからそうしている、そういうものなんだ。

古い話になるけど、俺のおふくろがね、俺が高校生の頃に日本善行会っていうところから表彰されたんだよ。これ、ボランティア活動のようなことをしている人を東京都で各区から二人ぐらい選んで表彰するんだ。うちのおふくろにね、この表彰を受けてくださいって話が来たんだよ。

なぜかっていうと、近所に新木さんっていうおふくろと同い年ぐらいのおばさんがいて、その人は全盲なんだ。おふくろは毎日ずっと20年ぐらい、新木さんの手を取って近所の七福っていう銭湯に連れて行ってたの。当時は家に風呂も無いし、庶民はたいてい銭湯通いなんだ。

それを知ってた誰かが推薦したんだろうね。それでもって品川区の代表でうちのおふくろを表彰したいと。表彰のセレモニーが首相官邸で行われるっていうんで、俺はせっかくだから行こうよって言ったら、おふくろは「行かない」って首をタテに振らないの。「私は行かないよ、冗談じゃないよ」って逆に怒ってんだよ。

なぜ怒ってんのかっていうと、「私は表彰されるためにやってるんじゃない」と。それに「こんなふうにされたら私はやりづらくなる」と。「私は目が見えるから、目の見えない新木さんをただ毎日連れてっただけ。無理してやってるわけじゃないんだ、私に余力があるからやってるだけなんだ」って。

これを、昔こういうことがあったんですって日野原重明先生に話したらね、「それがボランティアの本当の精神ですよ」って日野原先生に言われたよ。ボランティアや奉仕活動なんてのは、自分の生活が成り立ったうえでその余力でやることなんだ、と。自分の生活もいっぱいいっぱいなのに背伸びしてまですることじゃない、って。

「する」ほうも「される」ほうも、お互いに負担を感じないのがいいんだ。おふくろが新木さんを毎日銭湯に連れてったのは、むしろ一人で行くよりも二人で行くほうが、きょうはこんなことがあった、あんなことがあった、って喋りながら過ごせる日常のひと時だったんだと思う。仲のいいご近所さんがたまたま目が不自由だったっていうぐらいの。

それが急に表彰したいって仰々しくなったもんだから面食らったんだね。「行かない」ってなったんだけど、俺と兄貴でおふくろをなだめてさ、まあ話の物種に行くだけ行ってみようって当時の首相官邸におふくろ引っ張って行ったよ。昔の首相官邸でね、2.26事件の弾の跡があったな・・・。そこで表彰を東京都知事がするんだけど、昭和30年前後・・・都知事誰だっけ、安井さん? そうだったかな。

首相官邸の庭でお茶会が催されてね、おふくろなんか正式なお抹茶なんか見たことないし飲んだことないからさ、ごくっと飲んで「おかわり」だって(笑)。あれは、おかわりなんて出来ないのにな。

思えば当時は「ボランティア」なんて言葉はまだ一般的でなかったし、「奉仕」とか「善行」なんて言われ方してたけど、おふくろは自分がしていることにそういう名前がつくとも感じてなかったな。おふくろの中にあったのは「ご近所づきあい」ぐらいの日常だった。

自分に余力があって、困ってる人の支えになりたければなればいい。正義感を取り違えて濫用したり、無闇に押しつけたりしないでね。そういうことを皆で心がけて持ちあわせていくと、世の中はもう少し住みやすくなると思うよ。

(取材構成:松田健次)