タワマン住みの専業主婦が、息抜きバイトで男と出会ってしまって…
感染症の流行により、私たちの生活は一変してしまった。
自粛生活、ソーシャルディスタンス、リモートワーク。
東京で生きる人々の価値観と意識は、どう変化していったのだろうか?
これは”今”を生きる男女の、あるストーリー。
▶前回:28歳独身女が始めた憧れの鎌倉生活。素敵な男性との出会いに浮かれるが、思いもよらぬ落とし穴が…
Act11. ちょっとくらい、いいよね
2019年12月
週末の0時前。
松代夏奈は、新婚の夫・仁哉からの『今から帰る』というLINEを眺めながらため息をついた。
都内テレビ局の報道部で働く仁哉は、多忙で毎日のように帰宅が遅い。18時のニュースを主に担当している彼だが、責任者という立場なので深夜の帰宅はいつものことだ。
彼の希望もあって、夏奈は結婚を機に家庭に入っている。
湾岸にある高層マンションの上層階で、最初こそ悠々自適な専業主婦生活を満喫していたが、ここまで夫が忙しい人だと時間を持て余してしまう。
新卒以来勤めていた航空会社で、グランドスタッフとして慌ただしい日々を過ごしていたのが、遥か遠い日々に思える。
活動的だった夏奈は、この優雅な生活に不満はないが、満足もしていなかったのだった。
◆
「ねえ。仕事、したいんだけど…バイトでいいから」
夏奈はある日、思い切って帰宅した仁哉にそう訴えた。
「…お金は十分、渡しているはずだけど?」
「そうじゃなくて」
いい顔はしていなかったが、夏奈がうつろな目で日々の空虚を訴えると、知人の会社ならばと許可が下りたのだ。
「だけど、万が一のことがあったら、いつでもやめてくれよ。色々心配だからさ」
「うん…」
彼は、毎日仕事で忙しい人ではあるが、深い愛情は感じている。夏奈は彼の猛アタックの末、結婚した。
家庭に入ることを彼が求めたのは、多忙ゆえのすれ違いを避けるため。だが、そこには独占欲もあることを夏奈はうっすら理解していた。
閉塞感のある生活が続く夏奈。さらに追い打ちをかける事態が…
2020年2月
夏奈は、仁哉の知人が取締役を務める六本木のウェブ関連会社で事務手伝いをすることになった。
若いスタッフが中心の職場。仕事は雑用であったが、空虚だった生活が幻だったかのように夏奈の毎日に活気を与えてくれた。
― やっぱり、外に出るって楽しい。
だが…。
「え、仕事をやめろって…そんな」
程なくして猛威をふるいだした感染症――
報道に携わる仁哉は、その神経質な性格も相まって異様にピリピリしていた。
「仕方ないだろう。通勤で電車にも乗るし、不特定多数の人とも会うんだから」
「そうだけど…」
夫の言うことは理解できる。仕事柄、人一倍気をつけなくてはならないことも…。
だが、やっと掴んだ自由な時間を夏奈は手放したくなかった。
夏奈が苦悶の表情で言葉を選んでいると、仁哉は諦めたかのようにこう提案した。
「じゃあ…落ち着くまで、僕は職場近くにウイークリーマンションを借りることにするよ。万一のことがあったら大変だからね」
夏奈は驚いたが、彼が言うには、落ち着くまで数ヶ月我慢すればいいだけだということ。それだけ、彼のこの状況への覚悟を感じた。
仁哉はとてもまじめな男だ。
約束の時間に3分遅れるだけで連絡をくれるほどきっちりとした性格をしている。夏奈はそんな彼の誠実さに惹かれたところもある。
「わかった…」
夏奈はしぶしぶOKする。自分のワガママを許容してくれたその申し出に、彼の優しさを感じながら。
― 少しの辛抱。彼も頑張っているんだから私も…。
2021年1月
だが、その後も状況は収まる気配はなかった。
一度落ち着いたと思えば、また次のさらなる波がやってきてしまう…。
「いい加減、もう苦しい。気分転換にどこか近場でもいいから旅行いかない?」
別居生活を始めて1年近く経った頃、週末に帰宅した仁哉に夏奈は思わず弱音を吐いた。しかし、彼は強い口調で反論する。
「本気かい?まだ一人ひとりが耐えるしかない状況だよ。苦しいのはお互い様だからさ」
…当然だ。彼は間違えたことなど何も言っていない。
そんな正論を放った仁哉は、相変わらず夏奈と2メートルほどの距離を置いている。食事の時も横並びで、もちろん一緒に外出や外食はもってのほかだ。
そして月曜日。仁哉はバスルームで自身の身体を丁寧に洗ったあと、再び別の住処へ戻って行った。
― 私も仕事以外、まったく外出していないのにな…。
どこか腑に落ちない思いで、彼を見送る。
バイトをやめれば、彼は家に戻ってくれるのか?
しかし、仕事は息抜きの意味もある。絶対に、このひとときの自由は手放せない。
夏奈は寂しさや不安、閉塞感に引き続き耐える。彼も、みんなも同じ想いだから、と…。
◆
「松尾さん、最近なんか上の空ですね…」
ある日、退勤間際に同じバイト社員の大学生・祥太郎に話しかけられた。
マスク越しであるが、いきなり顔をぐいと近づけてきたので、慌てて距離を取る。
「え、私は今まで通りのはずですが」
「そうかな?入社した時は、もっと元気だったのに」
だいぶ年下で、特に仲がいいわけでもないのに、指摘されるということはよほどのことなのだろう。
自分の表情をオフィスの壁にある鏡で見る。確かに少々やつれているかもしれない。
「はぁ…」
夏奈は大きなため息をついた。すると、退勤時刻の17時と同時にオフィスの電話が鳴る。
電話の相手が突然…!?夏奈は気力が限界に…
それは、顧客からの問い合わせ電話だった。
担当者が不在だったこともあり、慣れた口調で明日のかけ直しを依頼する。だが、その対応が顧客にとってはぞんざいな印象だったようで、烈火のごとく怒り出してしまったのだ。
「も、申し訳ございません…」
何度も謝罪しても、相手の怒りは収まらなかった。罵声どころか人格否定の言葉を投げつけられる始末。社員に代わろうにもタイミングを与えてくれなかった。
「ありがとうございます…失礼いたします」
1時間程で相手側よりやっと電話が切られたが、夏奈は憔悴してしまった。
「大丈夫?」
心配してずっと見ていてくれた祥太郎から優しい言葉で慰められたが、他人との接触は短時間で済ませたかった。
夏奈はそのまま静かに帰宅する。だが、会社のすぐ外で、自分の肩を掴む強い力にそれを阻まれた。
「松尾さん、一緒に帰りましょう!」
…祥太郎だった。夏奈を追いかけて来たのだ。
「ヤバいオーラだったので。あ、ちょっと甘いものでも食べて帰りませんか」
「ごめんなさい。感染が心配だし極力外食はしたくないの」
「大丈夫ですよ。少しくらい、いいじゃないですか」
祥太郎は強引に夏奈の手を握り『アマンド』へと誘った。夏奈は、なぜか抵抗する気は起きなかった。
疲れていたからなのか……知らぬ間に、彼に自分の行動をゆだねてしまっていたのだ。
― 本当に、いいの、かな?
若い男子と一緒にいること、お店で飲食をしていること、マスクを外していること…。様々な背徳感に揺らぎながら、夏奈は祥太郎とスイーツを口にする。
「…美味しい」
「僕のプリンアラモードも美味しいですよ。食べてみます?」
祥太郎はスプーンですくったプリンを差し出した。さすがに夏奈は断ったが、彼のその大胆さに驚く。
「いきなりすみません。夏奈さんはすごいですよね。出社するとデスクを消毒してるし、いまでも職場の皆から距離を取っているし」
「それ、バカにしてるの?」
「あ…いや、本当に尊敬しているんです。マジで」
その慌てように夏奈はプッと噴き出した。気がつけば話は弾み、心が弱るほど電話で責められたことは忘れていた。
― 信じられない。こんなことしている、私…。
店を出たあと、もう少し彼と一緒にいたいと思った。
だが――時間は20時近くになっている。2軒目に行くことはできない。
わかっていながら「もうちょっと話したかった」と夏奈はつぶやく。すると祥太郎は、屈託のない笑みで言ったのだ。
「じゃ、ボクか夏奈さんの家はどうですか?」
会社では身の上をまったく話していない夏奈。彼は年齢以外、自分のことをなにも知らないだろう。
― 少しくらいなら、いいかな…。
一度ゆるんだ感覚は、もう止められなかった。
夏奈は、ずっと息苦しかったのだ。
「これくらいいい」と、誰かが言ってくれるのを待っていた。
「いいよ。うちにおいで」
これは息抜きだと、自分に言い聞かせる。
夏奈は、今度は自分から祥太郎の手を掴み、彼に寄り添ったのだった。
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