新中野の路地裏に店を構える「居酒屋もんし」。家庭的なおつまみから鍋料理、主人の手打ち蕎麦まで楽しめる店だ。

「2009年から演劇集団キャラメルボックスの真柴あずきさんと坂口理恵さんの3人で朗読演劇ユニットARMsを組んでいます。公演前の稽古後は必ずここに通い、長い時間を過ごして演技の話をしていました」

 そう笑顔で語るのは声優緒方恵美。『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジ役などで知られる緒方の原点は演劇だ。学生時代から役者として活動。専門学校卒業後は劇団に所属し、舞台やミュージカルに出演していた。

「腰を痛め舞台で踊ることに限界を感じていた時期に、少年を演じた私を見た方に『君の声は声優に向いてる』と言われたんです。それなら『一から声優の演技を勉強しよう』と青二プロの養成所に1年通ったんです」

 緒方は1992年の声優デビューと同時に大きなチャンスを掴む。『幽★遊★白書』の蔵馬役に抜擢されたのだ。主要男性キャラの担当声優で女性は緒方のみ。当時、第二次性徴期の少年の声を、女性声優が担当するという例はなく、異例のキャスティングだった。

「収録が始まり男性声優と一緒に演技すると、私の声は収まりが悪く、現場から『もう少しなんとかならない?』という指示がありました」

“男性らしい声” の獲得のため、どの声優もまねできない方法を選ぶ。

「耳鼻咽喉科で喉を診てもらうと、私の声帯は珍しく長い声帯だったのです。声帯は弦楽器のように、短いとバイオリンのように高い音、太くて長いとコントラバスのように低い音が出るのだそう。私はレンジが広い声帯なので腹筋、背筋、横隔膜などを男性並みに鍛えれば、高音域だけでなく低音域も出せると……。収録以外の週6日ジムに通い、肉体を鍛えました」

 このトレーニングによって緒方の声は変化した。

「低い声というか、声の腰が据わる感じ。筋肉の支えで、上に抜けていかない太くて強い声が確立できました」

 蔵馬役でブレイクし、第3次声優ブームの中心的な存在となった。

声優という裏方のはずが、歌を出し、声優雑誌の連載やグラビア写真集まで……。今の声優には当たり前の活動ですが、当時の声優にはそんな前例はなく、写真集の撮影にヘアメイクもスタイリストもいないという状況でした。『この環境を後輩に残してはダメだ』という思いで、事務所に意見も言い、必死で戦ってましたね。振り返ると、けもの道を一人で切り開いていたような日々でした」

■『エヴァ』は声優にとっても画期的な作品

 人気声優として10本以上のレギュラー仕事を抱えていた緒方は、『新世紀エヴァンゲリオン』の庵野秀明監督と出会う。だが、当時の所属事務所は多忙を理由に『エヴァ』のシンジ役のオーディションを断っていた。

「庵野さんは『セーラームーン』で私が演じたセーラーウラヌスの変身シーンの画コンテ・演出担当でした。スタッフ旅行の飲み会で庵野さんに『主人公を受けてほしかった。なぜ断わったのですか? 僕が嫌いなのですか?』と。もちろん嫌いなわけありません!(笑) 後日、あらためてオーディションを受けさせていただきました」

 こうしてアニメ史に残る作品の主人公を演じることに。「傑作の予感は最初からあった」という。

「驚くようなクオリティの画が収録時に出来ていたんです。先輩声優方も『とんでもない作品が始まる』と確信していました」

『エヴァ』の作画や物語は高く評価されているが、「声優の演技」的にも画期的な作品だったという。

「それまでアニメ声優は舞台出身の役者さんが多く、舞台発声で朗々としゃべるのが普通。この作品で庵野監督から『とにかくナチュラルに心で起こったことをそのまま台詞にしてほしい。

 シンジはナイーブな少年なので、声を張る必要はないし、何を言っているのかわからなくてもかまいません』と指導していただいたんです。これは当時としては画期的でした。歴史的に見ても『エヴァ』を起点に、ナチュラルな芝居が日本のアニメで増えていったと思います」

 2007年から公開された『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』シリーズは2021年『シン・エヴァンゲリオン劇場版:‖』でついに完結。緒方はなぜ26年もの間、ずっと変わらずに14歳の碇シンジを演じることができたのか。

「私が過去に演じた『ガラスの仮面』の北島マヤは演技の天才少女。彼女は一千の役に一千の仮面をつける。私はその逆で、本物の演技は仮面というか鎧をいかに剥ぎとるかだと思う。人は生きる以上、皆、実生活の中でなんらかの演技をしています。大人になるほど仮面や鎧は増えていく。年を取るほど、若い演技は難しくなっていきます」

 緒方はシンジを演じるため、たんに若い声を出すのではなく「14歳の目線まで意識的に自分の鎧を剥いで捨てるという作業をしてきた」という。

「物の見方や感覚を、常に14歳の目線で保つ。そういった地味な作業をふだんからずっと自分の中でやっています。自分は器用な役者ではないので、シンジを演じるにはそれしかなかったんです」

 そんな緒方とシンジのシンクロ率はテレビ版の時期よりも高まっていた。『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』(2007年)の収録では驚愕の出来事が。

「エヴァが使徒の攻撃を受け、エントリープラグ内のシンジがダメージを受けるシーンがありました。庵野総監督から『L.C.L.が沸騰し、シンジの肺の中まで焼かれているイメージで声を出して』と言われ、演じた翌日、喉が痛くなり、医者に行くと『気官の中が軽い火傷状態になっている』と言われました。火災現場にいた人のような状態の喉になっていたんです」

 そういった緒方のシンジであろうとする試みを、すべてわかってくれていたのが庵野総監督だった。

「『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』(2009年)の収録後『14年間、14歳の心を保ち続けてくれてありがとう』と庵野さんが私の手を取ってくださった。2人で手を取り合い、泣きながらお礼を言い合っていました」

 26年演じた碇シンジを緒方はこう振り返る。

「もう同化してしまいました(笑)。指先や髪の先までシンジを全身で覚えている。もうひとつの青春時代として自分の中にシンジがいて、この感覚がなくなることはないと思いますね」

 12月24日に公開される『劇場版 呪術廻戦0』で、主人公の乙骨憂太を演じる。

「テレビシリーズで確立した『呪術廻戦』の新作に参加できるのは光栄です。憂太はとにかくポンコツで優しい高校生。彼が呪術高専の人々と出会い成長していく姿を演じさせていただきました。シリーズの原点というか前日譚なので、後の世界観に繋げられるよう努めたいと思います」

 来年3月には、緒方主催でアニソンフェスを開催予定。

「女性アニソンシンガーを集めた音楽フェスで、全世界に無料配信予定です。コロナ禍で苦しんでいる世界中のアニソンファンの皆さんに元気を届けたい」

 声優として「けもの道を切り開く」という緒方の姿勢は変わらない。来年で緒方は声優生活30周年を迎える。彼女の原動力はなんなのだろう。

「単純に自分の場合は声優として演じ、その場にいることが、人と繋がれる唯一の方法だから続けているのかも。一緒にお仕事する方はもちろん、作品を観て笑ったり楽しんでいただき、いろいろな人と繋がるのが好きなんです」

写真・野澤亘伸
ヘアメイク・杉浦なおこ

おがためぐみ
1965年6月6日生まれ 東京都出身。東京声専音楽学校卒業後「ネヴァーランド・ミュージカル・コミュニティ」に劇団員として参加。1992年、声優に転身し、『幽★遊★白書』の蔵馬役を務める。1995年から『新世紀エヴァンゲリオン』(テレビシリーズ・劇場版)、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』4部作(2007年〜2021年)で碇シンジ役を務める。

12月18日には東京・神田明神ホールにてLive Tour「劇薬 -Dramatic Medicine-」を開催。2022年3月に自身が主催する音楽フェス『Precious Anime & Game Song Festival』のクラウドファンディングを12月3日より実施

【居酒屋もんし】
住所/東京都中野区中央4-1-8 富士シャトー 1F 
営業時間/16:00〜24:00 
定休日/月曜 ※新型コロナウイルスの感染拡大の影響により、営業時間、定休日が記載と異なる場合があります。

庵野秀明氏がアニメーターとして参加した過去の作品や、監督、プロデューサーとして活躍する最新の仕事までを網羅した「庵野秀明展」は12月19日まで東京・六本木の国立新美術館にて開催中