東京オリンピック代表、阿部詩のアスリート人生を変えるほどの転機とは【写真:長谷川明】

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アスリート人生の転機は「勝てるだろう」という期待のなかで負けたインターハイ

 人は誰しも、人生の転機となった出来事がある。あのとき、あの選択をしていなければ今の自分はいない。あの出来事があったからこそ、今の自分がいる。アスリートにもまた、人生を変える転機があった。アスリート人生を変えるほどの転機とはいったいどんな出来事だったのだろうか。

 柔道女子52キロ級で東京オリンピック代表の阿部詩に尋ねると、一瞬考えて「高校1年生で出場したインターハイで1回戦で負けたこと」を挙げた。そして、まもなくやってくる東京五輪で表現したい女子アスリート像についても明かした。(文=THE ANSWER編集部)

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 阿部には2人の兄がいる。

 兄たちが先に始めた柔道の練習に付いていったことがきっかけで競技に出会った。当時、まだ5歳。柔道の魅力は「あまり感じていなかった」が、年上のお兄さんやお姉さんたちが優しく接してくれたことや道場全体の雰囲気が気に入った阿部は「私もやりたい」と道場の門を叩いた。

 その才は今に通じるのか、「大会に出ても入賞したりしていた(笑)。逆に兄は負けてばかりだったので、それと比べれば自分は勝っていたほうですね」と振り返る。ただ、「優勝という1番はあまりなかった」。小学校高学年になると次第に「勝ちたい」「1番になりたい」と思うようになり、柔道に対する取り組み方も変わっていった。

 中学3年のときに出場した全国中学校柔道大会で念願の初優勝。「2位と3位の時の感情とは全く違ったものがあって。1番になったんだってうれしかった」。高校に進学してすぐに行われた大会でも優勝を飾り、出場した夏のインターハイ。周囲からも「勝てるだろう」という目で見られていた。

 しかし、阿部は1回戦で敗れた。

「負けた瞬間は訳が分からなくて。『あれ、なんで負けたんかな?』『本当に負けたんかな?』と。同級生が勝ち上がっていくにつれて、自分がその場にいないことで現実を受け止めた。だけど、最初は自分でもちょっと何が起きたのか分からず、負けを受け止めるのには時間がかかりました」

 反則負けだったこともあり、「本当にそういう行為をしたのかな」という考えが頭のなかを巡ったが、「1日中泣いて、先生と話して、しっかりと自分の試合映像を見て、やっと自分の負けを受け止めることができた」という。

 10代の頃から柔道界で活躍してきた阿部にとって、この敗戦を転機に挙げたのにはどんな意味があるのだろうか。

「それまでは、自分にちょっと過信していたというか、慢心があったというか、すごく勝負を甘くみていた自分がいたんです。でも、この敗戦を機に、どんな勝負であっても一つひとつ気を抜かずにやろうと考え方が変わったかなと思います。1回戦負けは初めての経験だったので、今思えば、これまでの人生のなかでいい経験をしたなと思います」

勝者として追われる者の苦しみを味わいつつ目指す東京五輪の金メダル

 その後の阿部の活躍は言うまでもなく、彼女の戦績には毎年「優勝」の二文字が並んだ。そして追う者から、追われる者へ。

「追いかけるときは勢いや上り調子で追いかければいいけど、いざ自分が一番になったとき、私も今、経験しているんですけど、追いかけられる立場というのはこういうことなんだと。それまでは高校生だったし、感じたことがなかったんです。ずっと挑戦者で、追う立場で柔道をしてきたので。

 でも、今はなんていうんですかね……。大きな壁が自分の目の前に立っている感じがして。でも私には、それを乗り越えている兄がいるので、本当に心強い。もちろん私の壁は自分で乗り越えないといけないんですけど、追いかけられる立場って本当にきついなと思っていますね」

 世界大会で優勝しても、五輪出場を手に入れても、勝負の世界はそれで終わりではない。もしかしたら、頂に立ってからが本当の戦いの始まりなのかもしれない。阿部は今、頂点に立った者のみに与えられる追われる者の勲章と戦っている。それでも最高のお手本となる心強い存在がいる。

「兄は本当に尊敬する柔道家であり、私の前をいつも走ってくれている存在。どんなときも、私より先に経験していることが多いので頼りになるというか、心強い存在です」

 10代の頃は、先を走っていた兄の後ろで「阿部一二三の妹」と称されていた。当時を振り返り「一人ひとりを見てほしかった」と吐露したが、もはや昔の話だ。今では「52キロ級の阿部詩」として、多くのメディアに取り上げられるようになった。そして、来たる7月25日。66キロ級の兄・一二三と一緒に東京五輪の畳に立つ。

「私が優勝することによって、今まで支えてくれた方、関わってくれた方、全員に恩返しができると思います。むしろ、優勝することでしか恩返しはできないと思っているので、勝って、感謝を伝えたい。でも、それができるのは自分しかいないので、しっかりと東京五輪で優勝して関わってくれたすべての方に感謝の気持ちと、勇気と感動を伝えられたらと思っています」

 これまで、スポーツの世界は男性アスリートを中心に語られることが多かった。「スポーツといえば男性という意識が強かったと思うのですが、女性は女性ですごく魅力的な部分があると思うので注目していただきたいですし、逆に男性に負けてられないなという反骨心みたいなものもあります」と当事者としての思いもある。だからこそ、女性アスリートとして伝えたい思いがある。

「女性は弱くないんだぞ、というのを伝えていきたい。そこは自信を持って発信していきたいです」

 阿部詩、20歳。

「『本当に強い』という表現を超えた『怪物だな』っていうふうに言われたい」

 そんな強い女性像を求めて、まずは東京五輪で52キロ級の頂を目指す。(THE ANSWER編集部)