能力はあるはずなのに…ネガティブな性格ゆえに能力を活かしきれなかった戦国武将・毛利隆元

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戦国時代における毛利家で名が上がるのが毛利元就や毛利輝元、毛利両川(吉川元春、小早川隆景)かと思われます。

しかし、元就の嫡男だった毛利隆元(もうり-たかもと)のことを忘れてはいけません。
隆元は先に上げた人物たちよりは知名度は低いですが、隆元無しでは毛利家が結束できなかったと言っても過言ではないくらい裏で毛利家を支えていました。

それくらい毛利家に多大な影響を与えたのですが、実は隆元は非常にネガティブでマイナス思考の強い性格の持ち主でした。

今回は毛利家を支えた大黒柱である隆元の性格を示すエピソードをご紹介したいと思います。

周りとの比較でネガティブな性格に…

隆元は大永3年(1523)に生まれます。そして天文6年(1537)には、大内義隆(おおうち-よしたか)のもとに3年間人質として身を寄せました。

大内義隆/Wikipediaより

大内家の下では武士として扱われ、尚且つ西の京都と呼ばれた大内家の領土内で公家風な文化に触れたことがあってか、武芸ではなく芸事に関心を持ってしまいました。

実際に元就からは「芸事はやめ、武芸や調略に専念することが大切なことだ」とお叱りを受けています。
追い打ちをかけるように元就は、「隆元は優柔不断な部分があり、武将としての素質に欠けている」と厳しい評価もしていました。

毛利元就/Wikipediaより

隆元もそのことを自覚しており、さらに優秀な父と武勇と知略に富んだ元春と隆景の弟たちが周りにいたことにより、何かと自分を卑下するネガティブな性格になってしまいました。

ネガティブな性格が災いし…

隆元のネガティブな性格が災いし、毛利家の方針が変わることもありました。それは天文15年(1546)に元就が隠居を表明した時のこと。

元就の隠居で隆元が当主として毛利家を引っ張っていくのかと思いきや、「父が隠居するならば、私も輝元(隆元の嫡男、この時まだ10歳未満)に家督を譲って隠居します」と書面に残し、実権を握ろうとしませんでした。

毛利輝元/Wikipediaより

隆元自身、父が築き上げてきたものを壊したくない思いや自分の無器量さを嘆いて、そのようなことを記したのでしょう。

元就も隆元の性格を理解していたので、実権は隠居の身である元就が隆元の後見人となりながらも握り続けました。

意外と兄弟仲は悪かった

このような毛利家の体制に兄は頼りないと感じてしまったのか、弟の元春と隆景は毛利家ではなく自身が身を置く吉川家と小早川家を優先するようになり、悩み事があると父の元就に相談しました。

吉川元春/Wikipediaより

これにはさすがの隆元も怒りを示し、「弟たちが私を除け者扱いしていて、非常に腹がっています」と元就に不満を漏らしました。

元就もこの一件を通して兄弟仲の悪さを痛感し、三矢の教えのモデルとなった三子教訓状を作成するに至ったといわれてます。

隆元の死で気が付くもの

そんな隆元でしたが、永禄6年(1563)に40歳で父より先に亡くなります。元就は隆元の死を大いに悲しみ、隆元に従っていた家臣たちを暗殺容疑で切腹に追い込んでいます。

また、隆元の死後には毛利家の収入が減少し、財務能力の高さによって毛利家が支えられていたと思い知った元春と隆景は、隆元の残した毛利家と輝元を支えるべく一層尽力するようになりました。

小早川隆景/Wikipediaより

最後に

誰もが認める功績を残した元就の後を継ぐ隆元の気苦労は計り知れないものだったと思います。隆元は元就の功績を自分が駄目にしてしまうことを特に恐れ、厳島神社に自分の命と引き換えに元就の長生きを願うほどでした。

それくらいのことをしてしまう背景には性格もありますが、隆元は元就のことを神のように見ていたように思えます。

隆元自身能力はあったので、もう少し長生きして元就から戦のイロハをとことん鍛えてもらえれば、大きく化けていたのではないかと思ってしまいます。

参考:長谷川ヨシテル『ポンコツ武将列伝』