男と女の、珠玉のラブストーリー。

秋の夜長、「その先」のことを語りましょうか。

この物語の主人公、あなたの知り合いだと気づいても、
どうか、素知らぬフリをして―。

▶前回:「息子は、私の作品なのに…」田園調布妻がどうしても赦せなかった、若い彼女が犯したタブー




第6夜「溺れる男」


「…その本、いつまで読んでるの?」

MacBook Airをわざと音を立てて閉じ、バーカウンターの横で本を読んでいた彼女に声をかける。するとチラとこちらを見た。

計算通り。

すかさず、体を向けて彼女の顔を覗き込んでから、手にしていた本に目をやる。

「『モンテ・クリスト伯』か。とっても『現代的』なセレクトだね」

年季の入った文庫の表紙には覚えがあった。学生時代に読んだ復讐モノの金字塔。

「他人の読書傾向に口を出してくるなんて、品のない男」

彼女はゆっくりとメガネを外し、意外なほどに大きく潤んだ目で、こちらを見た。

化粧気はない。必要がないくらい、肌が冴え冴えとしていた。シンプルだか、洗練されたシャツにタイトスカート。言葉にトゲはあったが、声質は驚くほどに柔らかく甘く、なぜか懐かしいような気持ちになる。

「今日はもうフラれたんでしょ?僕と一杯どう?」

僕がカウンターでクライアントにメールをしている小一時間、彼女はずっと本を読んでいた。僕がすかさず席をつめて隣に座ると、彼女は頬杖をついて、また本に視線を移した。まるで視界に入ってもいないと言いたげに。

狩猟欲というのか。久しぶりに、何が何でも落としにいきたいと、その時思ってしまった俺を、今となっては本当に馬鹿だったと思う。


つかみどころのない女の魅力に、男が夢中になった「人に言えない理由」とは?


天下の軟派会社の不文律


大手広告代理店勤務という肩書は、僕のような男にとって最高の得物が手に入ったようなものだった。

持って生まれた才覚とルックスに、上等のパッケージが加わったのだ。

どういう訳か、僕は昔から人付きあいが苦にならず、自分も楽しい、相手も楽しいという状況を簡単に作り出すことができたから、広告代理店の営業は天職と言えた。

何より居心地がよかったのは、この会社にはモテるは正義、という価値観があるということ。

男にしてはちょっと垂れた目と、唇がセクシーだと、昔から女の子に騒がれた。女の子は次から次へと寄ってきて、それに肩書がついたことで無双状態に突入。




入社して5年もすると、クライアント先でも「翔平さんはワルイ男だからな」などとからかわれていた。プロジェクトによってはほぼ毎日出入りし、連日の接待やキャンペーンのクリエイティブ打ち合わせもあって、客先とべったり懇意になるのが僕の営業スタイルだったから、とうぜん「武勇伝」も耳に入ってしまうのだ。

たまにちょっとやりすぎたり、会社にお店の女の子が公私混同してやってきたりもして、一部の会社の地味な女の子たちは白い目でみてくることもあった。

しかしなんといってもウチは天下に名だたる軟派会社。

しょせん男社会、しょせん人たらしが正義なのだ。

むしろ女の子に人気がない広告マンなんて、どんな価値があるんだろう?

人を魅力で惹きつけまくることが仕事。その「サイクル」が早いと、どうしても昔からちょっとした不具合はあったけれど、仕方ないことなのだ。

そんな風に自分のスタイルをかっちりと確立した35歳の秋に、僕は彼女と出会ってしまった。



彼女の名前はユキ。麻布十番に住んでいて、仕事はフリーでライターをしていると言っていた。

初めて会った夜は、結局相手にされず、連絡先はおろか、名前も教えてもらえなかった。

そのバーはともと会社帰りによく寄っていたから、それからは毎日のように通っていると、10日ほどもした頃、再会することができた。

その時はもう、決めていた。絶対にモノにすると。

驚いたことにユキはこちらが真剣に口説くと、誘いに乗ってくれた。

しかし地獄はそこから。僕はユキを抱いてから、ユキのことが頭を離れなくなってしまったのだ。そんなことはまったく初めての経験だった。

いつも何かに怒っているような表情のユキが、腕の中では驚くほど煽情的な顔を見せる。

今までのほかのどんな女とも、まったく違う。

掴んだかと思うと、洋服を着るとともに、ぴったりとまたいつもの表情に戻ってしまう。

一体、何に怒っているんだろう?

まるで男を憎んでいるかのように、ユキはいつでも挑戦的な目をしていた。

…その理由を、もっと考えてみるべきだった。そうすれば間に合ったはずだ。怒りの理由は、誰よりも、僕自身が知っていたはずなのに。


次第に溺れ、沼にハマる翔平。やがてある事件が起こり、ユキが衝撃の行動を…?


巌窟王


ユキはどんな高価なプレゼントも、素敵なレストランも、一切の関心を示さなかった。

むしろそういう風にお金をかけるほど、その程度かと蔑まれているような心地がする。僕は躍起になった。

しかし贅沢なプレゼントやお店に連れていっても、誰もが羨むようなイベントに誘っても、驚くような素振りはない。手元の本から目を上げて、そしてまたすぐにもとに戻ってしまった。

「モンテ・クリスト伯」はとっくに終わり、僕の知らない古典をよく読んでいた。僕はそんな大昔のどうでもいい小説にさえかなわない。

ユキにのめりこんでいくうちに、たくさんいたどうでもいい女たちへの対応がなおざりになっていった。

「翔平さ、ちょっとこの頃どうかしてるぞ。水商売の女に会社に乗り込まれるくらいはみんな話のネタにしてくれるけど…この前クライアントの担当とイベントで会ったら、あんまりいいこと言ってなかったぞ」

同じ大学出身で、同期の村尾は、そう仲がいいというわけでもないが、僕とはタイプが違う実直で馬鹿正直な営業スタイルで一目置かれていた。

20代で早々に家庭を持ち、上司世代からは「うちにもそんな新人類が」などと揶揄されていたが、今となっては人柄と一体となったふるまいで頼られている。

村尾は、声をひそめて、なおも僕の腕をとった。

「接待や交際の経費、切りすぎじゃないか。聞いたら、最近はそんなに豪勢なことはしてないって先方が言ってたぞ。数十万なら会社もうるさいこといわないが…」

僕は口うるさい同期をにらみつけた。こいつの嫁は社内の経理部門にいるのだ。そこから何かきいたんだとしたら、規定に反しているのはお互いさまだ。

「ほっとけよ。…会っちまったんだ、運命の女にさ」

大学時代からの、僕の行動をよく知っている村尾は、気味が悪そうに僕を見た。本気なのか冗談なのか判断が付きかねるといった顔つきだ。

おそらく社内結婚してさっさと子供を2人つくり、郊外の家に住むようなこの男に、僕の気持ちはわからないだろう。

平凡とは対極。周りにいる中から選んだ女なんかじゃない。運命の糸を手繰り寄せ、たった一度の邂逅を引き寄せる力が、僕にはある。




「ユキ、一緒に住もう。十番が好きなら、このあたりで一緒に住める広い家を借りるよ」

11月の夜、パティオを歩きながら、僕は衝動的に申し込んだ。

「一緒にいたいんだ。君みたいな女は初めてなんだよ」

必死で彼女の手を掴むと、薄着のせいだろうか、ぞっとするほど冷たかった。

「初めて?私みたいな女が?」

こちらをまっすぐに見た瞳の奥が、かすかに、揺らいでいる。もう一押しだ。

「ああ。今まで会ったどんな女とも違う。僕、女の人を見る目だけはあるんだよ。君を一目見たときにわかった。僕のたった一人のひとなんだ」

その瞬間、ユキはあでやかに笑った。ベッドの上以外で、そんな風に感情をあらわにするのは珍しいことだった。承諾ととって、僕はユキを強く抱きしめた。

そしてその夜を境に、ユキは僕の前から永遠に消えた。



ユキと連絡がつかなくなって1週間。

はじめはフリーライターの仕事の取材でも入ったのだろうかと自分を無理矢理納得させようとしたりもしたが、電話が解約され、メッセージも既読にならないことがわかると、恐怖がじわじわと心を侵食し始めた。

ユキは、もしかして僕を捨てたのだろうか?

そんなことができるはずがない。僕はもうユキなしでは生きていけないほどに溺れていたし、ユキもクールを装ってはいたが、あれほど情熱的に愛し合った男を、そう簡単に忘れられるはずがないのだ。

僕はどうにか会社には行っていたが、夜はベッドに入らず酒を飲みながらソファでうたたねを繰り返しているうちに体調を崩し、ついには欠勤してしまった。

「おい、大丈夫か。『十番右京』のテイクアウト、持ってきてやったぞ。どうせ何にも食べてないんだろう」

村尾が会社の帰りに、芝公園の僕のマンションにやってきても、取り繕う気力がなかった。ミネラルウォーターのペットボトルを彼に放ると、ソファにぐったりと身を沈める。

「これさ、昨日の夜いつものバーにお前がいないかと寄ってみたら、バーテンから預かったぞ。翔平の連れの女性の忘れ物なんだけど、二人とも最近来てくれないからって」

僕は、はっとして勢いよく村尾が手にしている本を奪った。『モンテ・クリスト伯』。ユキと初めて会った時に読んでいた本だ。中を開くと、裏表紙に走り書きがあった。

“あなたがもし思い出したら、私はやめたのに。川原優希子”

―エドモン・ダンテスは、復讐の相手が、自分を見て過去の仕打ちを思い出してくれたら、きっと復讐をやめたのにね。

ある夜、ベッドの中で本を読みながら、独り言のようにユキは言った。

川原優希子。いつだったか若い頃、ほんの1か月ほど楽しんで捨てた女。おぼろげな記憶が、フルネームや暗示的な言葉の力を借りて、すこしずつよみがえってくる。

しかし優希子は、当時20代前半の若さだったこともあるが、ユキとは似ても似つかない、男に従順で弱気な女だったはずだ。

まさか、僕のせいで、変わったとでもいうのか。エドモン・ダンテスがモンテ・クリスト伯として復讐相手の前に現れたように?

「…明日、経理の主任が、お前を呼び出すらしい。交際費の使い方について、弁明できるところがあれば、できるだけ準備しておけ」

村尾が、目をそらしながら言った。ユキのために不正に切った交際費や本来クライアントのための便宜供与は、数か月でいつの間にか膨らんでいた。

優希子。孤独で美しい巌窟王。

きっと僕は、10年前、君をこんな風に傷つけた。心を奪ったあとに刺す残酷さ。恋をすると、こんなにも脆く無防備になるのに。

長い間、僕に執着したり、非難したりする女たちを不思議に思っていた。今はじめて、その気持ちがわかる。

いつか僕も、君に復讐するために立ち上がるのだろうか?

夜はまだ、明けそうにない。

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