井上和香

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 グラビアアイドル時代に“ワカパイ”の愛称で親しまれたタレント・女優の井上和香。現在は4歳の娘の母親として奮闘する毎日を送っているが、その彼女の人生を語る上において外せない人物が女優であった母親だ。芸能人として、そして母親として、井上に影響を与え続ける母への想いを、自身の芸能人生を振り返りつつ、話してくれた。

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 井上和香の母親も以前は女優をしていた。そんな母の存在がなければ、“井上和香”という女優・タレントはいなかったかもしれない。

「実は幼稚園の頃から女優になりたかったんです。女優をやっていた母。その母の話を聞いているうちに、いつしか女優という仕事に憧れ始めました」

 21歳になった彼女は事務所提出用の履歴書が付いている雑誌『De☆View』(オリコン・エンタテインメント刊/現在はwebに移行)を探しに本屋へとむかった。だが、それがたまたま見つからなかったため、かわりにアルバイトに応募する用の履歴書を購入。それでは“写真の枠が小さい”と思った彼女は、30枚もの自身の写真を入れ、分厚くふくらんだ封筒を事務所へと送った。この“偶然”が彼女の人生を左右する。

「30枚も写真を送ってくる人なんていなかったらしく、それが印象に残ったみたいです(笑)。合格は本当にうれしかったのですが、その後の面談で“水着になれる?”といわれました。“モデルさんや女優さんがいる事務所だし、グラビアをやっている人がいなかったから大丈夫だと思って履歴書を送ったのに……”と、当時は後悔しかけましたね(笑)」

 これが後の“ワカパイ”誕生秘話だ。胸が大きいのは彼女にとってコンプレックスだった。中学時代、可愛いクマのTシャツを着ても「胸のところでとんでもなくパツパツのクマちゃんになっちゃうんです」と井上。胸を隠すためにどんどん猫背にもなってしまう。なので、ましてやビキニになる気などはさらさらなかったという。

喧嘩ばかりの母親と

 だがこれが大ヒットする。グラビアアイドルとして大人気になった彼女は『愛のエプロン』(テレビ朝日系)や『笑っていいとも!』(フジテレビ系)などバラエティ番組でも引っ張りだこに。男性からの人気がすさまじく、“癒やし系”としてお茶の間に浸透していった。しかしここでまた一つの大きな壁が。

「本来の私はよく喋り、よく笑い、そして割とハッキリものを言うタイプ。例えば『いいとも』で共演した青木さやかさんは女子アナなどに強めに絡んでいく芸風で、私もそれに対して言い返すというのをやっていました。そのやり取りを見て “すごくキツく見えます”と言われてしまって……。もう考えすぎて積極的に話せなくなったこともありました」

 そんな彼女がバラエティー番組で“ありのままの”自分を出そうと思ったのにはきっかけがあった。当時を振り返り「同性からあまり好かれてないことに気づいたからですね」と笑う。

「今思えば、壇蜜さんのように“女”を貫き通しておけばよかったのかもしれません。最近だと、田中みな実さん。彼女も自分を貫いた結果、女性の方からも“キレイ”と憧れる存在になっていますし、きっと私には彼女たちのような、覚悟や度胸が足りなかったのだと思います」

 彼女の活躍の場はバラエティーだけではない。2004年には24歳にしてドラマ『WATER BOYS2』(フジテレビ系)で念願の女優デビューを果たす。その2年後には『黒い太陽』(テレビ朝日系)でドラマでは初めてのヒロイン役に抜擢。数々の話題作に出演し、2012年公開の映画『荒川アンダーザブリッジ』で夫となる映画監督・飯塚健と出会う。同年、結婚。

 いよいよ順風満帆かに思えた。だがその2年後の2014年。井上は、夢の“源”だった母を亡くしている。「泣きました。本当に、すごく泣きましたね」と彼女は当時を振り返る。

「母とは昔から喧嘩ばかりしていました。姉に言わせると、私と母は顔も似ているし、性格も似ている。だからぶつかっていたんだろうと。似たもの同士だったんですね。でも普段はとても仲良しでした」

「母は、永遠のライバル」

 現在、自身が母になったことで、母親という存在への向き合い方も変わってきた。

「私が3歳のころ、母と姉とでディズニーランドへ行った写真が今も残っています。その時の母は娘2人を連れているにも関わらず、女優然としたオシャレをし、“女性”としての美しさをしっかりアピールしていました。かたや私は子育てに追われ、リュックを背に髪を振り回し、スッピンで走り回る毎日……。歳を重ねるたびに私と母の似ている部分が増えていったのですが、女性としては確実に負けていると思いました。キレイでしたし、“女の部分”では、もう何をやっても敵わないなと」

 そこで井上は唯一、“母親の部分”で、母に絶対に勝とうと決意した。母が料理だけはあまり得意ではなかったからだ。

「私にとって母は、永遠のライバル。亡くなった今でも、こうやって母と張り合っている自分がいます」

ライバルである母に“母親”としては勝ちたい。「とはいえ、完璧には出来ないんですけど」と謙遜もするが、これが、彼女が家事・子育てに力を注ぎたい理由だ。

「振り返ると、20代〜30代……とくに30代はもがき苦しんでいた時代だったと思います。私は周囲と自分とを比べてしまう一面もあり、芸能界をやめようと思ったことも何度もありました。でも悪いことばかりじゃなかった。コンプレックスだった大きい胸も、厚い唇も、──これは事務所の社長が言ってくれたのですが“コンプレックスというのは人と違う部分ということ。その『違い』がいいんだよ”と。そんな周囲の温かい言葉に励まされて今までやって来られたように思います。

 そして私も40歳。老いることには抗えませんし、抵抗は当然あります。ですが逆に、これからはもう、肩肘を張って生きることもないという予感もあるんです。自然体のまま、自分の決めた道を歩んでいく──。40代が、私の人生のなかで一番楽しかったと言えるよう、健やかに過ごせれば」

 母への憧れから始まり、歩んできた女優という“夢”。もがきあがいた時代を乗り越え40代。母親として、そして女優・タレントとして、彼女は心にある“母の姿”とともに、これからも自分の人生を歩んでいくのだろう。

(構成・文/衣輪晋一)