中村 修治 / 有限会社ペーパーカンパニー 株式会社キナックスホールディングス

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東日本大震災の時に、もう新聞の購読を止めるね!?と言い出したカミさんが、昨日、ボソッとつぶやいた。”最近の「ほぼ日」がウザい”と。32年くらい前の宣伝会議のコピーライター養成講座で知り合った糸井重里信者でもある、あのカミさんが、ウザいと。

薄々、感じてはいたのだ。いや、それを言い出すと自己否定にもなる。コピーライターブームに乗っかってこの業界に飛び込んだワタシの居場所もなくなる。でも、そろそろ総括しなくちゃいけない気分になってきた。ワタシの内にある『糸井さん的なるもの』と決別する勇気を持たなきゃと決意した。

久しぶりに開いた「ほぼ日」の「今日のダーリン」には、こんなことが書かれていた。『歴史的に何度も「大感染」を経験してきた人類だけれど、そこで悲劇的な大打撃を受けたからといって、「人が集まり、人が親密になる」という価値観が逆転するようなことにはならなかった。』『人が本来持っている「よろこび」や「うれしさ」の感覚は、そうそう変わっていないはずだ。ぼくらは、ぼくらの「いいところ」を捨てないようにね。』

これが『糸井さん的なるもの』である。御尤もである。普遍的なポジショントーク。これを書き切れることが、羨ましい、美しいし、尊敬もする。でも、なんかウザいし、ズルイし、悔しいし・・・。

当事者感がないという才能は、広告に携わる者にとっての武器だ。クライアントのことも、消費者のことも、バランスよく俯瞰ができるから、名コピーなんてものは生まれるのだ。そんなことを業界の大御所たちからは、教えられてきた。

でもね!? 『糸井さん的なるぼくら』は、新型コロナウイルスが見せようとしている未来の『ぼくら』とは、決定的に違うような気がするのですよ。

『糸井さん的なるぼくら』が消費を前提とする大衆だったコロナ以前は、その言質を賞賛した。しかし、withコロナとなってしまった『糸井さん的なるぼくら』は、なんか違う。その『ぼくら』は、戦わざるを得なくなってしまった大衆の代弁をしてはいない。

withコロナは、広告業界のプレイヤーも、ゴロッと変わるはずだ。ワタシはと云えば、ワタシの内にある『糸井さん的なるぼくら』を否定し、反省することしかできない。戦う人たち自身が『ぼくらの「いいところ」』を創り変えていくのがこれからだ。

「広告批評」という専門雑誌に憧れて、その出版元であるマドラグループに入社した。宣伝会議の養成講座にも通った。バブルの波にも乗った。『糸井さん的なるぼくら』として喰ってきた。昔の「ぼくら」は、もう「ぼくら」ではない。

これからが、これまでを決める。