純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

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こういうご時世だし、大学の講義なんてネット中継でもいいだろう、と思うかもしれない。だが、機材よりもっと根本的な教育上の問題があるのだ。それは、古代以来、なぜ大学というものあるのか、その存在意義の根幹に関わる。

まず最初に、講義と授業とを分けて考えなければならない。中等教育(中高)の授業においては、教科書や問題集が確固としてある。授業において、教師は、学生が自分で教科書を読み、問題集に取り組むのをサポートする。つまり、教師は学生たちの側にいて、それをリードしていく立場だ。だから、教師は、学生たちの様子を見ながら、逐次、話を前に進めていく。つまり、教師は、学生たちといっしょに教科書や問題集をやっていく。これは双方向のメディア環境さえ整えば、比較的、オンライン化しやすい。

一方、初等教育を考えてみよう。たとえば、習字や鉄棒。大人の英会話教室なども同じだ。ここでは、主体は絶対的に個々の学童本人で、教師は、その学習をサポートする立場にある。中等教育のように、教師がいくらやってみせたとしても、学童はできるようにはならない。実際に個々の学童本人にやらせて、その良い点、悪い点を指摘しながら、学童本人がスムーズにできるようにしてやる。これもオンライン化できないことはないが、何人も同時につないだところで、実質的には個別指導。だれかを指導している間、他の学童たちを待たせることになる。しかし、同じ場、同じ時にやってみる学校であれば、その間に学童同士が相互に学び合って、コツをつかむところがある。教師だけが全体を見ているタイプのオンラインでは、それが欠ける。

さて、高等教育、大学だが、じつはむしろ初等教育に近い。経済学などのように国際標準の教科書があり、それを体系的に学ぶ中等教育的な学科もないではないが、ゼミ(演習)や卒論指導は、個々の学生本人にできるようにさせるのが目標で、教員の立場は、あくまで学生本人が主体的に進める研究のサポートにすぎない。これをオンライン化したところで、ふつうのテレビ電話のようなものにしかならない。むしろ、古い通信教育のようにメールでやりとりして、赤の添削指導をするほうがましかもしれない。

もちろん大学には、大教室で行われる「一般教養」というものもある。その中には、中等教育と同様に、既存の教科書をなぞるだけの教員もいないではない。しかし、大学水準の一般教養というのは、ただ広く雑学知識を増やす場ではなく、あくまで上記のような学生本人の研究能力のための土台だ。本人自身が自分で研究に取り組む前に、これまでその専門分野周辺の研究というものがどのように行われてきたか、そこでどんな試行錯誤があったか、その意義を学び習うことに眼目が置かれている。

このような講義をオンラインにできるか。かなり難しいと思う。実際、これまでの大学ですら、この「一般教養」、中等教育から高等教育への切り替えで、多くの大学生が脱落し中退している。高校までと同じ感覚で、ただ漫然と大学の「一般教養」の講義に出ていただけでは、研究する意義が理解できず、本来の高等教育である、みずから研究能力を身につけるゼミや卒論に滑り込めないのだ。このため、入学試験より卒業試験が厳格な世界の大学と違って、少なからぬ日本の大学では、ガキの感想文のようなものでも、とりあえずなにか書いたモノを出せば大卒、というような現実がまかり通ってきた。

古来、世界中で若者たちを集めた「大学」が創られてきた。人間、とくに若者は、そこで、精神の骨格、「人格」を形成した。なんのために学び、なんのために働くか、そして、なにを生きてなしとげるか、教員たちの指導によるだけでなく、学生相互に切磋琢磨して、新しい時代を模索してきた。それが、学生はバラバラ、教員たちは画面の中でかってに話しているだけ、というので、身につくのだろうか。

世間も、この機会に、いろいろな物事がリストラされる。大学も、その荒波に洗われるだろう。社会全体の貧困化とともに、名目ばかりの「大卒」の肩書を量産してきただけのマスプロ高等教育は淘汰され、若者の「人格」形成の場としての本来の大学が少数精鋭で再生してくるだろう。だが、それまでの移行期では、大きな混乱があるだろう。

たとえ明日、世界が滅びるとしても、私は今日、リンゴの木を植える、と、ルターは言った。また、革命と疫病が荒れ狂う時代にあって閉鎖された大学からの避難を余儀なくされたニュートンは、疎開の地にあってなおも研究を続け、そのリンゴの木から万有引力を発見した。「大学」の本質は、キャンパスにあるのでも、オンラインにあるのでもない。リンゴの木だ。学生が学ぶ意欲さえ持てば、そこがリンゴの木の下。上を見上げれば、学ぶべき先人たちの偉業は多い。時間と余裕のあるあいだに、すべきことをしよう。肩書だけでは勝負にならない、人間の本質、「人格」が問われる試練が、これからやってくるのだから。

すみおかてるあき:大阪芸術大学哲学教授/美術博士(東京藝術大学)、東京大学卒、同大学院修了。マインツ大学客員教授などを経て現職。専門は哲学、メディア学。みずからも作曲、小説、デザインなどを手がける。