純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

写真拡大 (全8枚)

/ヨーロッパ中世を終わらせたのは、1348年の黒死病(ペスト)の大流行だった。わずか三年で人口は半減し、その後、社会は元に戻ることなく、大きく転換していく。/

黒死病以前

ヨーロッパ中世、それは「暗黒時代」とされるが、経済的には大きく発展していった。ローマ教会の一元支配「ヒエラルキア(神聖管理)」の下、各地の領主(王や公)と、その農奴たちという社会身分制が安定し、鉄製農具による大開墾時代を迎え、三圃制(夏大麦・冬小麦・放牧地を循環させる)で生産性が向上。この結果、人口もまた二割も増大した。

この繁栄に目をつけたのが、北欧の貧しいノルマン人だった。彼らは、九世紀ころから、底平で前後にも進める独特のヴァイキング船で、海岸から河を遡って内陸部の町を襲撃略奪。とくに誘拐した女子供をイスラムの連中に奴隷として売り払い、暴利を得た。さらに、イングランドやシチリア・南半イタリアを奪い取り、ここに住み着いて、支配を確立してしまう。

これらの急激に増大した過剰人口の集団植民(棄民)として、教会は1096年、「十字軍」として、黄金時代を謳歌していた東方イスラム世界の侵略を提起した。これは当初、成功し、東方や地中海沿岸からさまざまな珍しい物資がヨーロッパにもたらされた。くわえて、生産力の向上したヨーロッパ内各地からも余剰物資が広く売り出された。こうしてヨーロッパを縦断する交易路が作られ、ローマ大帝国以来の「商業(貨幣経済)の復活」となる。

しかし、このことはヨーロッパ内の勢力バランスを大きく変えた。イタリアでは地中海貿易に関わるアマルフィ、ジェノヴァ、ヴェネチア、フィレンツェなどの富裕市民(ゲルフ)が教皇を担いで、皇帝(神聖ローマ帝国の領主連合)支持の封建領主勢力(ギベリン)を追放し、共和国として次々と台頭。また、トゥールーズ伯国からアキテーヌ公=イングランド王国、ミラノ公国からブルゴーニュ公=フランドル伯国という商業ルート上の地方領主が力を持つ。また、貿易の実質的な担い手(輸送・警備・保険)として圧倒的な力を持つようになった十字軍騎士団(聖堂・救院など)を市中に抱え込むことによって、地方領主と対抗する富裕市民都市も各地に現れてくる。

ところで、ルネサンスというと、古典復興として、東ローマ帝国が滅び、フィレンツェが栄えた15世紀が注目されがちだが、文化復興という意味では、14世紀の方が劇的だった。商業の復活とともに地方荘園領主連合体から都市富裕市民共和国へとヘゲモニー(勢力)が移り、略奪帰還十字軍騎士たちとともに東方から先進の文物が大量に流入し、ミンネジンガーのような娯楽、さらにはアヘンのような怪しげなものまで流行して、なんでもありの状況になる。


モンゴル帝国と黒死病大流行

中央アジアに突如として出現したモンゴル帝国が、1241年、ポーランドに侵攻。東方の十字軍を北上させ、これに向かわせざるをえず、東方では敗退が続く。勢力回復のために、教皇と仏王は、ヨーロッパ内の富裕なトウールーズ伯領を異端としてアルビジョワ十字軍で攻撃し、1271年、仏王領に併合。しかし、1291年、東方海岸の要塞アッコが陥落して十字軍の失敗が決定的になると、仏王は、もはや教皇の十字軍を見限り、東西隣地のフランドル・アキテーヌ奪還を図って、戦費調達のために教会に課税。これに抵抗する教皇を、1303年、仏王はローマ郊外のアナーニ村に追い詰めて憤死させ、07年、教皇十字軍の主力、聖堂騎士団も異端として壊滅、09年、旧トゥールーズ領南仏のアヴィニョンに傀儡教皇を幽閉。そして、39年、アキテーヌ=イングランドとの百年戦争を開始。

くわえて、ここに襲いかかったのが、疫病だった。共通言語と統一規則で、西端アフリカのモロッコから東南アジアのインドネシアまで、赤道半周の長大貿易圏を持つイスラムは、もとより大きな疫病の危険を抱えていた。これを、一日五回の礼拝前の徹底的な手洗い、顔洗い、足洗いという宗教習慣でかろうじて押さえ込んでいた。一方、ヨーロッパは、ゲルマン人も、ノルマン人も、もともと移動民族であったために、領主や教会の下に定住しても、入浴はおろか手洗いの習慣もなく、糞尿は窓から投げ捨て、死体も町の中心広場に土葬して、その上で食品市を開くような衛生観念しか持ち合わせていなかった。このために、汚染された東方の船舶、文物、そして帰還騎士たちや遊行者たちによって、さまざまな疫病が持ち込まれた。

だが、人々は、当初、これらを呪いや祟りとして捉えた。時代が時代で、全滅した街は記録も残らず、追放された人々は森や荒野で亡くなり、疫病の正体さえ、よくわからない。おそらくインフルエンザから、梅毒、ハンセン病、赤痢、チフス、コレラ、天然痘など、ありとあらゆる伝染病がさまざまに入り交じり、散発的に各地で小規模の流行を繰り返していただろう。

しかし、決定的となったのは、1348年から三年続いた黒死病(ペスト)だった。疫病は、死の淘汰の結果、耐性を持つ人々と共存し、見えない防衛網として、村を守り残すことがある。伝承によれば、中央アジア、キルギスのイシククル湖の近くに黒死病で守られた村があり、騎馬のモンゴル帝国は、その場で罹患死滅するより速く、ここを走り抜けてしまい、その版図拡大とともに病原菌を全世界に撒き散らしたのではないか、と疑われている。

いずれにせよ、前年の47年末、すでに東ローマ(ビザンチン)帝国コンスタンチノープル市、ヴェネチア、マルセイユなどの港町で、奇妙な疫病が流行し始める。ただ、腿の内側や脇の下に腫瘍ができたり、高熱や嘔吐、咳が続いたり、手足に血黒いアザの斑点が出たり、病態があまりに多様で、一つの同じ疫病とは認識されなかった。しかし、死ぬ、ということは同じで、死体が血アザで黒いことから、やがて「黒死病」と呼ばれるようになった。

この黒死病は、48年1月には教皇の幽閉されているアヴィニョン市に入り、4月には繁栄するフィレンツェ市、そして秋にははやくも、百年戦争中のアキテーヌ=イングランドのロンドン市まで至る。ボッカチオの記すところによれば、人口三万人のフィレンツェでは中下層の人々、千人もが毎日、罹患していき、ついには死体がうち捨てられたままになった、そして、残る人々は死を待つ間とばかり、ただ消費に明け暮れ、死者は、周辺を含め、7月までに十万に達しただろう、という。この絶望的享楽を「死の舞踏」と言い、ヨーロッパ各地で歌や絵の題材として採り上げられることになる。

治療法はもちろん、原因さえもわからないまま、流行はロシアまで広がっていく。各地で迫害を受け、多様な疫病の淘汰に晒され、また、狭隘な特定地区に隔離されながらも、清潔衛生を徹底する宗教生活習慣を持つユダヤ人の中には感染を免れた人々もいたが、逆に、彼らが井戸に毒を入れた、とデマを流され、攻撃されることもあった。たとえば、ライン河の交易の要衝、マインツ市では、一万以上のユダヤ人が一般市民に焼き殺された。また、この黒死病の大流行は、モンゴル帝国を瓦解させ、かつて十字軍を撃退したイスラムのマムルーク朝(エジプト)にも拡がり、代ってオスマン朝が台頭する。


黒死病以後

三年の後、いったんは流行は収束した。もはや罹患する生きた人間が残っていなかったからだろうか。この災厄で、ヨーロッパの人口は半減した、とされる。しかし、その後も、散発的に各地で感染は続いた。このため、廃村だらけとなって、農奴を失った地方領主も没落。投げ売りされた農地や都市を生き残った農民や市民がカネで買い取り、新しい自営農民や自由都市が登場してくる。

疫病に無力だった教会は、いよいよ低迷し、アヴィニョンとローマに二人の教皇が出て、対立する事態に。とはいえ、大量の死者を前に人々の信仰心は深まり、教会とは独立に、鞭打ち行進などの熱狂的な宗教運動も盛んになる。また、イスラムの先進科学を採り入れたフィレンツェのメディチ家などが医薬販売で急成長し、魔女の薬草術のようなものも民間療法として人気を得る。これらに対し、離反を恐れる教会は、中世以上に、魔女狩りなどの威嚇で引き締めを図る。

教会の付属機関としての神父大学、同語同郷の学生組合で運営されていた中世大学が衰退し、神学を超えた光学などの近代的実証研究が新しく興った。同様に、都市も、統一教皇のヒエラルキアや同語同郷のナショナリズムが失われ、独立自治、それどころか相互敵対的となり、傭兵を使って周辺諸都市を支配下に置いて、地方の中心として君臨しようとするようになっていく。

だが、ときには、その傭兵が君主や市民を裏切って街の独裁者となり、近世的な絶対地方君主へと成り上がる。たとえば、傭兵上がりのミラノ・スフォルツァ家はルネサンスに名を馳せ、スペイン・ヴァレンシア出のボルジア家は教皇位の世俗世襲化を企み、ニュルンベルク城代伯にすぎなかったツォレルン家も、ドイツ騎士団を足がかりに、着々とドイツ全体の乗っ取りを目指す。宗教家のフスやサヴォナローラも、似たようなもの。

このように、国際社会はもちろん、国家や都市、一族や親子兄弟の間でさえも、マキャベリやホッブスの言う、人が人に対して狼となる「万人の万人に対する戦い」が日常となる。集団や連合、盟約を結んでも、数年と持たず、でたらめな合従連衡の組み替え、組み直しで、大小の紛争が永遠に続く。将来の不確定性が高すぎて、ちょっとの変化が大きな断絶を連鎖的に派生してしまうために、それぞれの主体がそのときどきの最適化を求めて平然と手のひらを返す。そして、この近世的エゴイズムは、強大な独裁者ナポレオンの下での奇妙なナショナリズム復興まで、時代の基調となっていく。