ファイトマネーをもらっても金銭感覚が麻痺することはない、と井上尚弥氏。彼にとってお金の価値とは?(写真:共同通信)

世界WBAスーパー&IBF世界バンタム級王者・井上尚弥氏は高校生のとき、父親のアドバイスから時給850円の工場で半年間働いてみたという。彼がそこで得た経験が、今どのように生きているのか?

自身の「勝利を引き寄せるための思考術」を記した『勝ちスイッチ』から一部抜粋、再構成してお届けする。

家を買った。物欲はそうあるほうではないが、生まれ育った座間に約300平米の豪邸を建てる。ここまで戦ってきた自分へのご褒美であり、リングに上がるための新たなモチベーションの1つになる。スポーツ新聞ふうの表現で勘弁していただきたいが、推定金額として「ン?億円」くらいの大きな買い物である。満額ローンを組んでの購入だ。

サラリーマンと違い、将来の保証のないプロスポーツ選手は「ローンが組めない」のが定説で高額年俸をもらうプロ野球選手でもローンを組むことは難しいらしい。

なぜ僕がローンを組めたのかというと、父が経営している「明成塗装」の社会的信用のおかげにほかならない。事業実績に加えて、父は、投資物件としてのマンション、アパートなどの不動産を数棟持っている。その恩恵にあずかったわけである。

父は、「20代のうちにわが家を建てる」を目標に、独立後、仕事を頑張って、本当に29歳で今の実家を建てた。僕は、父より3年早く「わが家」を持つことになったわけだが、幼い頃から、何不自由なくボクシングに専念できる環境を作ってくれた父には改めて感謝だ。

井上尚弥が負けられない理由

家は現在設計中だ。外観は打ちっ放しのコンクリート、石などで固める予定で、明成塗装に外装をお願いする予定はない。間取りもざっくりと決めている。最初は、地下に秘密のトレーニングルームを設置しようと考えていた。だが、地下を掘る作業は大変のようで見積もりを取ると、それだけで4000万〜5000万円もするらしい。マンション1室分の金額を見て、僕は、泣く泣く、それを諦めて1部屋をトレーニングルームにする設計計画に変えた。

設計する作業は楽しいが、キッチンをどうする? 内装のクロスはどうする?と、決めることが山ほどある。一生に1度の大きい買い物。完成してから「ここをこうすればよかった」という後悔をしたくない。完成予定は来年末。時間をかけて念入りに打ち合わせをしている。

また1つ負けられない理由が増えた。

ファイトマネーは戦うモチベーションの1つを占めている。1試合1試合、結果を出すにつれファイトマネーが上がる。わかりやすい成果主義。デビューからどんどん上がっていっているのだ。職業・ボクサー。当然、モチベーションは上がる。試合のファイトマネーの金額は、試合が決定すると同時に、大橋会長から父を通じて知らされる。

「今回いくら?」

「××××だよ」

そんな会話で終わり。

ここまで、父も僕自身もファイトマネーに対しての不満はいっさいない。「プロボクサー・井上尚弥」の価値を十分に評価していただき、今現在の僕の実力に相応の金額をもらっていると思っている。プロ転向以来、大橋会長との信頼関係が崩れないのも、お互いに何もクエスチョンがないからだろう。

父も、「尚の商品価値どおりの金額。オレも大橋会長もお互いに欲がないから、これまで1度も、いざこざがないんだろうな」と言っている。

時給850円のバイトで汗を流した理由

ファイトマネーの話をするのは、試合が決まったときだけ。そこから試合に向けてのトレーニングが始まり、試合が終わるまでファイトマネーについて考える機会は、まずない。ファイトマネーは、決戦への準備を始めるヨーイドンの号砲みたいなものかもしれない。

現在は、父のアドバイスで法人を設立してあるので、ファイトマネーはジムから会社への銀行振り込みだ。記帳したときに、その数字の桁を見て、「よく頑張りました」と実感することになる。昔は「ファイトマネーの重みを知っておきたい」との理由で、紙袋に札束をごそっと入れて現金でファイトマネーを持って帰ったボクサーもいたらしいが、僕にその趣味はない。

「ファイトマネーには手をつけるな」

「無駄遣いをするな。将来のために貯蓄しろ!」

それがプロになってからの父の教えだった。

社会常識から外れていない金銭感覚と経済観念はある。小学生の頃は、家事を手伝った際に、その報酬として「100円」「200円」のお小遣いをもらっていた。高校生のときには、半年間、アルバイトをした経験がある。

父に、「社会常識を知る、社会勉強のつもりでアルバイトをしてみなさい。決まった時間に決まった仕事を毎日して、自分でお金を稼ぐ大変さを経験してみなさい」と言われ、知人を頼って自分で仕事を見つけた。時給850円の工場での仕分け、梱包などの流れ作業。焼酎のビンが詰められた重たい荷物なども運ぶのだが、「それなら筋トレ代わりになる」と、働かせてもらった。

初めてのバイト代をもらったときはうれしかった。そのバイト代を使って母にリクエストされていたスニーカーを買ってプレゼントした。8000円ほどだった。家族全員で焼肉に行き、ご馳走もした。

そういう経験があり、お金を稼ぐことの大変さを知っているからファイトマネーをドンともらっても金銭感覚が麻痺することはない。ごくたまに衝動買いはあるが、無駄遣いはほとんどせず経済観念はある。誰よりも、お金の価値はわかっている。だからこそ現状に満足せずに上を目指すのである。

軽量級ボクサーの固定観念を破壊したい

ボクシングの世界でビッグマネーを手にできるのは海外のリングだ。「WBSS」や「SUPERFLY」といったイベントが誕生してきたが、世界のボクシングビジネスの世界では、軽量級はまだ市民権を得るに至っていない。中量級、重量級とは人気もファイトマネーの桁も違う。


ミドル級の統一王者、サウル“カネロ”アルバレス(メキシコ)は、有料のスポーツ通信メディアである「DAZN」と、5年11戦で総額3億6500万ドル(約390億円)のメガ契約を結んだ。

僕もWBSSで優勝できたら(編集部注:12月7日優勝)、世界的なプロモーターの1つであるトップランク社との契約交渉が本格化する予定で、今後の活動の幅が広がってくる。他競技のことはよく知らないが、世界で戦うプロアスリートの垂涎の年俸は、その選手のブランド価値となり、憧憬の念を持たれ、夢を語れる。

これまでの日本のボクシング界の常識の壁を超えていく金額を稼がねばならないが、現実問題として、カネロが結んだ単位での契約はバンタム級では難しいだろう。

しかし、世界で軽量級ボクサーに持たれている固定観念を破壊していかねば面白くない。スーパーバンタム級以上に階級を上げたとき、スポンサーフィーも含め、1試合の総収入の10億円超えは目標に掲げたい。