あの田中角栄が全幅の信頼を置き、自民党内でも長く多くの議員から畏怖、敬意を持たれた後藤田正晴には、「名補佐役」「名参謀」の名が残っている。トップリーダーに推されながらも、自らの分際を知り、補佐役に徹した数少ない稀有な人物でもあった。

 現今の社会、企業などの組織でも、ある時期までは名アドバイザーなどとの声の中でナンバー2を守っていた人物が、突如、おだてに乗ってトップの座を目指すというようなことも多々あるが、後藤田は筆者のインタビューにこう答えてくれたことがある。補佐役としての「心得」が、浮かび上がるのである。

「私も警察庁長官として二十数万人の警察を率いた一国一城の主でもあったわけだから、大将になれないと考えていたわけでもない。しかし、よく考えてみると、人間にはおのずと“格”というものがある。トップになって輝く人間と、そうはいかない人間には、明らかに差があるのだ。
 その補佐役の重要な役目の一つは、いかに情報を集め、それを処理し、トップに伝えるかということにある。しかし、これにはトップとの絶対的な信頼関係が不可欠になる。
 なぜか。ある程度のポジションに就くと、とかく情報は耳ざわりのいいものだけが集まりだす。これをそっくりトップに上げたら、大変なことになるということだ。だから、悪い情報も入るような体制をつくっておく必要がある。
 たとえトップにとって好ましくない話でも、情報として伝えておかないと、あとで取り返しのつかない問題に発展してしまう。トップに耳の痛い話を上げられるかどうか、その勇気がないと補佐役は務まらないということだ」

 つまり「黒子」「匿名」としての自覚、情熱がなければ、真の補佐役、参謀的役割に徹することは難しいとしていたのだった。

 さて、若き日、議員と官僚との関係から予算陳情をきっかけに気脈を通じていた田中と後藤田だったが、田中は政権を取った昭和47(1972)年7月の第1次内閣で、一方的に後藤田を口説き、ノーバッジで事務担当の内閣官房副長官に据えてしまった。

 もとより、田中は後藤田の見識、ピカ一の実務能力、原理原則に厳しく物事の判断の座標軸に一切のブレがなく、加えて高潔の士であることを買ったということだが、当時の官邸詰め記者にはこんな証言もあった。

「田中の中には、後藤田の人物、能力を買う一方で、後藤田を官邸に引き込むことで、ひとたび事があったときに警察を抑えられるかもしれない、また決して自分の“寝首”をかくことはない人物であるとの思いも、チラとはあったと推測される。
 一方で、日本列島改造計画をレールに乗せるためには、各省庁間の利害調整もクリアしなければならず、その任を後藤田ならまっとうしてくれるという読みもあった。
 田中からノーバッジでの官房副長官就任を懇請された一方の後藤田は、当初、固辞した。対して、田中はなお『内政、そして役所の人事は君に任せる』と、言わば全権委任を伝えて口説いた。結局、後藤田は、辞めたいときはいつでも辞めさせてもらうと条件を出し、引き受けることになった。
 当時、田中内閣の人気はピーク、それをバックに後藤田は各省庁の次官、局長クラスを官邸に呼んでは、次々と田中のうかがう政策推進に与させていった。官邸の内閣官房には、二階堂進官房長官、山下元利・政務担当官房副長官はいたが、官房を事実上、取り仕切っていたのは後藤田だった」

★「この内閣は君で持っているのだ」

 田中としては、この後藤田官房副長官人事は図星だったが、一方の後藤田は、官邸入りからわずか2カ月あまりでノーバッジの限界を感じ始めていた。ために後藤田は、その年(昭和47年暮れ)の総選挙に郷里の徳島からの出馬を決意、田中に申し出たが、このとき田中はこう言った。