西武×ヤクルト “伝説”となった日本シリーズの記憶(39)

【リードオフマン】ヤクルト・飯田哲也 前編

(前回の記事はこちら>>)

 四半世紀の時を経ても、今もなお語り継がれる熱戦、激闘がある。

 1992年、そして1993年の日本シリーズ――。当時、黄金時代を迎えていた西武ライオンズと、ほぼ1980年代のすべてをBクラスで過ごしたヤクルトスワローズの一騎打ち。森祇晶率いる西武と、野村克也率いるヤクルトの「知将対決」はファンを魅了した。

 1992年は西武、翌1993年はヤクルトが、それぞれ4勝3敗で日本一に輝いた。両雄の対決は2年間で全14試合を行ない、7勝7敗のイーブン。両チームの当事者たちに話を聞く連載19人目。

 第10回のテーマは「リードオフマン」。前回の辻発彦(「辻」は本来1点しんにょう)に続いて、現在はソフトバンクの三軍外野守備走塁コーチを務める、元ヤクルト・飯田哲也のインタビューをお届けしよう。


1990年代にヤクルトのリードオフマンとして活躍した飯田 photo by Sankei Visual

【「日本シリーズはお祭りだから、緊張しなかった」】

――スワローズとライオンズが激突した1992(平成4)年、翌1993年の日本シリーズ。飯田さんにとっては、どんな思い出が残っていますか?

飯田 すごいメンバーがそろっていたあの西武との対戦でしたから、1992年に最初に戦った時には、「無様な試合だけは見せられない。とにかく0勝4敗だけは避けたいな」と思っていたことはよく覚えていますね。

――野村克也さんも、「4タテを食らうことだけは避けたかった」と話していました。当時のライオンズについては、どんなイメージを持っていましたか?

飯田 本当に「強い」というイメージだけでしたね。名前を聞いてもすごいピッチャーしかいないし、対戦したこともないし、初めての日本シリーズだったのでどうやって戦えばいいのかもわからない。だから、さっきも言ったように、「ワンサイドゲームだけは避けたい」という思いだけでした。とにかく、「シーズン通りの戦いをしたい」という思いが強くて、「西武がどうこう」という感じではなかったですね。

――1992年シーズンは阪神タイガースとのデッドヒートを制し、10月10日にセ・リーグ優勝。一週間後の17日に日本シリーズ開幕というスケジュールでした。ある意味では、シーズンの勢いをそのまま持ち込むこともできたのでは?

飯田 そうですね。この年のシーズンはとても苦しかったし、日本シリーズまでの準備期間もそれほどなかったから、そのままの流れでシリーズに臨めたかもしれないですね。ただ、僕自身はとくに緊張もしなかったです。「日本シリーズはお祭りだ」と思っていたので。

――スワローズサイドは、ほぼ全員が「とても緊張していた」と話していましたが、飯田さんはまったく緊張しなかったのですか?

飯田 僕の中では「リーグ優勝がすべてだ」と思っているので、先ほども言ったように、「日本シリーズはお祭り」という感覚なんです。”おまけ”というか、「日本一」ということに、あまり重点を置いていなかったんですよね。もちろん日本一にはなりたいんですけど、それまでのリーグの戦いが厳しすぎて、すぐにシリーズに向けて気持ちの切り替えもできなかったですし、まったく緊張しなかったです。

【コーチの指示を無視して、ホームに突入】


当時を振り返る飯田氏 photo by Hasegawa Shoichi

――広沢(克己/廣澤克実)さんも、池山(隆寛)さんも、「初戦は緊張で足が震えた」と口をそろえていましたが、飯田さんはそうではなかったんですね。

飯田 だって、お祭りですから(笑)。野村監督もよく言っていたけど、「勝負事はやってみないとわからない」と思っていました。でも、野村さんはよく「初戦は様子見だ」とか、「初戦は勉強だ」って言っていましたけど、本心は「初戦は絶対に勝ちたい」と思っていたはずです(笑)。

――では、1992年の初戦で、代打の杉浦(享)さんがサヨナラ満塁ホームランで初戦を勝利したのは、とてもうれしかったでしょうね。

飯田 ホッとした部分はありましたね。勝って当たり前の西武が初戦に負けてしまった。「おっ、もしかしたらいけるかも?」って思うじゃないですか。

――では、具体的な場面を伺います。1992年のシリーズ初戦、3回裏。ワンアウト二塁で、二塁走者が飯田さんでした。飯田さんのタイムリー二塁打で、1−1の同点とした後の場面です。

飯田 はい、あの場面ですね(笑)。バッターが二番の荒井(幸雄)さんでしたから、「ワンヒットで返ろう」という意識しかありませんでした。

――そして、荒井さんがライト前にヒット。ここで二塁走者の飯田さんは、サードコーチャー・水谷新太郎さんの「止まれ」の指示を無視してホームに突入し、見事にセーフ。2−1と逆転に成功します。

飯田 この場面、スタートがものすごくよかったんです。サードコーチャーが止めていたのはもちろんわかっていたんですけど、勢いがつきすぎて止まれなかったというのが本当のところです。

 ライト・平野(謙)さんの送球はチラッと見えました。(キャッチャーの)伊東(勤)さんが捕球態勢に入っているのが見えたので、体当たりしても負けちゃうので、「回り込むしかないな」と思いながら、ホームに突っ込んでいきました。伊東さんをかいくぐりながら右手でベースにタッチしたんですけど、自分でも会心のスライディングでしたね。

【野球人生で「もっとも思い出したくないプレー」】

――続いて伺いたいのが、1992年シリーズの、3勝3敗で迎えた第7戦。スワローズが1−0でリードしていた7回表、ツーアウト一、二塁。打席に入ったのはライオンズ先発の石井丈裕投手でした。

飯田 よく覚えています。打者が投手だということで、前進守備を敷いていました。かなり前に守っていましたね。そして、石井さんの打球が飛んできた。「あぁ、捕れるな」って思いましたね。で、「よし、追いついた」と思ったら、そこからもうひと伸びがあったんです。そして、落としました……。

――さらにもうひと伸びがあったのは風の影響なのでしょうか?

飯田 ライト方向に吹いていた風の影響もあったかもしれないですけど、ちょっと詰まっていたので、変な回転がかかっていたのもありました。結果はヒットだったけど、あれは僕のエラーです。僕のミスです。この時点では僕はまだプロ6年目でしたけど、現役を通じて「もっとも忘れられないプレー」で、「もっとも思い出したくないプレー」になりました。1992年シリーズの敗戦は、間違いなく僕の責任です。

――このプレーで同点となり、延長戦の末にスワローズは敗れ、ライオンズが日本一になりました。この年のシリーズをどのように振り返りますか?

飯田 チームとしては、本当によくやったと思いますよ。ただ、僕のあのプレーがなければ、結果は違っていたかもしれない。そういう思いはありますね。

――この結果を踏まえて、「打倒ライオンズの意識が強くなった」と多くの方が口にしていました。飯田さんはいかがでしたか?

飯田 僕はまったく「打倒西武」の意識はなかったですね。さっきも言ったように、僕にとってはペナントレースがすべてだったので、日本シリーズのことを考えるより、「まずはシーズン優勝」という考えでしたから。そもそも、ペナントを勝ち上がらなければ日本シリーズにも出られないわけですから。

――そして、翌1993年日本シリーズも前年同様、スワローズとライオンズの一騎打ちとなりました。ここでも、飯田さんは印象的なプレーで主役となりました。

飯田 もちろん、よく覚えています。「あのプレー」は、僕にとって「生涯一のベストプレー」ですからね……。

(後編に続く)