江戸時代、タイで国王になってしまった山田長政のサクセスストーリーが凄すぎる!

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日本と昔から交流のある国、タイ。以前はシャムと呼ばれていたタイでリゴールという一地方の王になるという大出世を果たした人物が江戸時代にいました。

その者の名前は山田長政(やまだながまさ)で、タイに行く前は駕籠を担いで人を運ぶ駕籠者をしていました。

今回はタイで出世した異例の駕籠者、山田長政のタイでのサクセスストーリーに焦点を当ててみたいと思います。

山田長政/Wikipediaより

駕籠者からアユタヤ日本人町のリーダーへ出世

アユタヤ日本人町の跡の碑/Wikipediaより

長政は1590年に駿河国で生まれました。沼津藩に仕えて駕籠者をしていた長政は武士の身分ではありましたが末端の身分でした。

長政は武士として戦に出陣し、出世できるチャンスがあるかと思いましたが、時代は徳川家が治める江戸時代。

泰平の時代となった今では武士の活躍はあまりありませんでした。

そこで、日本ではなくて海外なら武士として活躍できるチャンスがあるのではと思った長政は1612年の朱印船に乗り、タイへ向かいます。

タイの国際都市アユタヤに着くと現地にいた日本人傭兵隊に加わります。

当時のタイはビルマ(現ミャンマー)との戦の真っ最中で多くの戦を生き抜いた日本人傭兵が勝利の要となっておりました。

ビルマの他にアユタヤ港を攻めてきたスペイン艦隊を2度も退けた長政は日本人傭兵隊の指揮を任され、当時の王ソンタムから重用されるようになりました。

また、貿易商としても活躍し各国との経済戦争に打ち勝ちアユタヤでの貿易を一手に引き受けるくらいまで発展させます。

その勢いは世界最大とも言われる東インド会社を撤退させてしまうくらいでした。

このような功績が認められ長政は元和7年(1621)に日本人町の頭領になり、老中、土井利勝と本多正純を介して日本とタイ(当時はシャム)の国交に尽力しました。

絹本著色土井利勝肖像画/Wikipediaより

ついに国王に!しかし……

長政はソンタムの信頼を得ていく内に寛永5年(1628)には官位制度の三位である「オークヤ―・セーナピモック」を任ぜられます(セーナピモックは軍神の意味)。

しかし、翌年にはソンタムが跡継ぎを決めないまま崩御してしまい、王位継承を巡る政戦にソンタムの信任を得ていた長政は巻き込まれてしまいます。

長政は宮内長官であるシーウォラウォンと協力してソンタムの子どもを王位に就かせますが、新しい王の後見人となったシーウォラウォンが長政を排除しようと考えます。

そして、長政はアユタヤから遥か南にあるリゴールという王国の内乱を鎮めるためにリゴールへ向かわされます。

リゴールの内乱を平定した長政はリゴール王(六昆王)に任ぜられました。

リゴール王となったのも束の間、寛永7年(1630)のアユタヤではシーウォラウォンが国王を殺害し国王となっていました。

これを聞いた長政はシーウォラウォンの暴走を止めるためにアユタヤへ向かおうとしますが、侵入してきた隣国のパタニ軍との戦の最中に負傷してしまいます。

傷を癒そうと塗った軟膏に毒が含まれており、それが原因で長政は41歳で亡くなりました。

長政死後の日本人町はシーウォラウォンによって焼かれ廃墟となってしまいました。

山田長政に所縁ある浅間神社/静岡浅間神社より

駕籠者から一国の王になる出世を遂げた長政。日本とタイを繋げるために老中に斡旋する姿勢は日本とタイが好きという証拠でもあると思ってしまいますね。

山田長政