提供:週刊実話

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 「田中(角栄)はわが子同然とかわいがっていた小沢(一郎)に離反されたことが、一番こたえたのではなかったか。小沢は小沢で、田中を守るためには田中派が政権を握ることが不可欠という認識で、二人の間には“竹下(登)政権”をめぐっての大きな乖離があったということだ。結局、田中が再起不能の病に倒れたことで、二人の乖離が埋まることはなかった」

 “物言わぬ”病床の田中を尻目に、小沢を含めた田中派の大多数が推したかたちで竹下が政権を執った。しかし、竹下自身がリクルート事件に関与したことが露見、竹下政権はわずか1年半余で崩壊してしまう。

 一方、政権は崩壊したものの、竹下派経世会は100人超の自民党内最大派閥を維持、その後の政権にニラミを利かせた。いや、ニラミ以上に“カイライ政権”を誕生させたのだった。「ポスト竹下」では、竹下と関係のいい、当時、渡辺(美智雄)派の幹部だった宇野宗佑を推した。しかし、この宇野が女性問題などで退陣を余儀なくされると、今度は河本(敏夫)派の幹部だった海部俊樹を担いだ。海部は早稲田大学雄弁会で竹下の後輩にあたり、政界では派閥は違えど、竹下の“子分格”として知られていたのだった。

 こうした中で、徐々に竹下派に亀裂が入り始めることになる。大きく、二つの確執が表面化した。一つは、派閥オーナーの竹下と派閥会長の金丸信(元副総裁)のそれ。もう一つは派内の「ホープ」とされた小沢と橋本龍太郎のそれであった。橋本は宇野政権で、小沢は海部政権でともに幹事長を務め、両者は竹下派内の世代交代をめぐる「一・龍戦争」として火花を散らし合ったのだった。

 さて、小沢は幹事長となると「独善」ぶりをエスカレートさせた。イラク軍のクウェート侵攻に始まった“湾岸危機”では、海部の消極姿勢を押しのけて国連平和協力(PKO)法案を推進したほか、予算案での社会党の国会対応に大ナタを下したり、自民党都連、都議団の反対を無視して東京都知事選に独自候補を担ぎ出すなど、もはや竹下も金丸も、誰も止められない“猪突猛進”ぶりだったのだ。結果、都知事選は敗北、その責任を取って幹事長辞任を余儀なくされた。

 そうした動きは、海部政権の“あと釜選”でもあった。竹下派が支持した者が総裁になることが動かせぬ中、幹事長辞任後、狭心症の発作を起こして1カ月余の入院生活を終えた小沢は、竹下派会長代行となったが、この「ポスト海部」選びで世間の猛バッシングを受けたのであった。

 なんと、小沢は後継に名乗りを挙げた宮澤喜一、渡辺美智雄、三塚博の3者を自らの事務所に招き、“面談”試験に及んだのだった。結果、宮澤を「指名」したが、3者はいずれも小沢より年長、「経世会支配」の生々しさと同時に、小沢に対する「剛腕」評価の一方で、あまりの「非常識」な振る舞いが、強く世間に焼き付けられたのだった。

★波乱の“政界遊よく史”

 そうした一方で、竹下派は派内の世代交代、派の運営をめぐり、今度は竹下と金丸が衝突した。小沢は金丸と手を握ったが、竹下、金丸、小沢の良好なトライアングルが崩れたことで、竹下派の崩壊は早かった。

 以後、小沢は羽田孜らと竹下派を離脱、自民党を離党のうえ、新生党を結成した。やがて社会、公明、日本新党、民社、新党さきがけ、社民連ら8党派を糾合して、「非自民」の細川護煕内閣をつくり上げ、その細川政権が潰れると改めて新党結成、連立を“模索”したうえで、ついには政権交代を実現させたのだった。そんな民主党政権を幹事長として取り仕切ったが、この政権はあまりの未熟さゆえに3年で潰れた。

 そしていま、小沢は自由党代表として国民民主党との合併を視野に、再び野党結集のうえで、政権交代の秘策を練っているところにある。まさに、これ以上、波乱多き“政界遊よく史”を刻んできた実力政治家も珍しいが、小沢をよく知る元自民党議員がこう言ったことがある。