先頃、来年中の引退を宣言した長州力は「リングに上がるのが怖い、トレーニングがつらい」と、その理由を語った。
“革命戦士”として一世を風靡。日本プロレス界の中心に立ち、さまざまなストーリーの主役を担ってきた昭和のビッグスターが、また1人リングを去ることになる。
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 高校時代の数々の実績から、長州力(本名・吉田光雄)はレスリングの名門・専修大学に特待生として入学した。
 大学3年生でミュンヘン五輪に出場。4年になるとキャプテンを務めて、全日本選手権(1973年)のフリースタイルとグレコローマン100㎏級を同時に制覇している。

 まさにアマレス界のスーパーエリートであり、大学を卒業すると鳴り物入りで新日本プロレスに入門する。
 やはりミュンヘン五輪に出場し、先にプロレス界へ入ったジャンボ鶴田が全日本プロレスの次期エースと目されたように、長州もまた入団時から将来を嘱望されていた。

 デビューから5年ほどで、当時、アントニオ猪木、坂口征二に次ぐ3番手という評価だったストロング小林から、シングル戦で勝利を収め、さらには坂口のパートナーとして北米タッグ王座を獲得するなど、着実に格上げしていった。

 だが、この頃の新日では猪木の人気が飛び抜けており、2番手格の坂口ですら活躍の場は少なく、その次位とあってはさらに注目度は低い。

 デビュー時からサソリ固めというオリジナルホールドはあったものの、無骨なルックスと時代錯誤のパンチパーマゆえか、30歳手前にして早くもファンからは“地味な中堅どころ”と見なされていた。

 その一方でグングン人気を高めていたのが藤波辰巳(現・辰爾)だった。猪木とは異なるジュニアヘビー級というジャンルの先頭に立ち、スピーディーで華やかな闘い模様は多くのファンを魅了することになる。

 この時期の長州は、猪木と藤波の影で完全に埋もれていた。'82年のメキシコ遠征においても、団体としては再浮上のきっかけづくりの思いもあったろうが、長州本人にはまったくその気がなく、メキシコでの最大の目的は“国際運転免許の取得”であったという。

 同じ五輪代表の鶴田は、この時期にはすでにUNヘビー級王座を獲得しており、NWAやAWA王座にも挑戦するなど完全にメインイベンター格となっていた。また、新日の内部でも藤波がヘビー級への転向を宣言。WWFインターナショナルヘビー級王座を獲得するなど、着々と次期エースの座に近づいていた。

 「2人に比べてくすぶっている自分に嫌気が差した長州は、この頃、本気で引退まで考えたそうです」(プロレス記者)
 転機となったのはメキシコから帰国直後、タッグを組んだ藤波に対抗心をあらわにした、いわゆる“噛ませ犬事件”である。

 「俺はおまえの噛ませ犬じゃない」というのは、長州の雑誌インタビューでの発言を拾った実況・古舘伊知郎によるいわば造語であったが、それが本音であったことには違いない。

 「猪木が『辞める前に一度、自分の思うがままにやってみろ』と焚きつけたとも言われるこの一件。長州にしてみれば常々“アマレスエリートの俺が、練習生上がりの下でなんてなれるか”という意識を強く抱いていたのでしょう」(同)

★名勝負か凡戦か己の気持ち次第

 受け取りようによってはマンガやドラマの敵役のような高慢さにも映るが、これを境に長州人気は爆発することになる。
「実況で“下剋上”と称されたことで、長州への判官びいきが生じた部分もありますが、それ以上に生の感情を爆発させたことがファンの心に響いたのではないでしょうか」(同)

 この“生の感情”というのが、実のところ長州最大の特徴であった。同じく感情をさらけ出すタイプの猪木や天龍源一郎は、それでもファンの目線を意識しているが、長州の場合はあくまでも自分の気の向くままに、己のスタイルを貫き通す。