リバウド、ロベカル、ロナウド(当時の登録名はロナウジーニョ)……。その後、サッカー王国の屋台骨を支える面々が集まったのがアトランタ五輪ブラジル代表。

 それでも日本はワンチャンスをものにして勝ち、世界は「マイアミの奇跡」と呼んだ。当時の監督は、ロシアW杯でも監督を務める西野朗氏だ。

「相手センターバック2人の足が遅く、彼らの裏に唯一の弱点があると西野さんは分析していた。練習ではサイドから早めにクロスを入れ、僕が突っ込み、2列目がフォローすることを繰り返した。得点はまさにこの形から。だから奇跡というより、分析の勝利だった」(城彰二氏)

「アトランタ五輪の予選では攻撃的にいって、僕もボランチとしてほぼフル出場していた。でもブラジル戦はスタメンではなかった。当然ショックだったし、当日のミーティングもいちばん後ろの席で、全然話を聞いていなかった(笑)。ただ、守備的にいくなら仕方がなかったのでしょう。西野さんは自分がこうと決めたら迷わないと思います」(廣長優志氏)

 しかし、続くナイジェリアには敗れ、窮地に立たされる。

「議論のうえ、最終戦でヒデ(中田英寿)を外す潔さが西野さんにはあった。攻めたいけどしっかり守らなければいけない、と敗れてあらためてわかったんです。意見は言い合えたので、チームの士気は落ちなかった」(前園真聖氏)

 最終戦、ハンガリーに勝利したが惜しくも決勝トーナメント進出はならず。だが、この活躍は人々の記憶に強く刻まれた。