浅草寺の五重塔(著者撮影)

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多くの外国人観光客が集まる東京・浅草。現在のウリは「江戸下町」だが、実は浅草は1970年前後まで最先端のイメージにあふれ、近代技術に染められた街だった。宗教社会学者の岡本亮輔氏は「その代表例は『浅草寺の瓦』だろう」という。1973年に再建された浅草寺五重塔の瓦が土瓦ではなくアルミ合金である深い理由とは――。

■最先端のアミューズメント施設だった「浅草十二階」

2月9日、東京都台東区浅草2丁目の工事現場で「凌雲閣」の遺構が見つかり、話題になった。凌雲閣は、1890年に浅草に建てられた塔である。高さは約50メートルで当時としては日本一。東京有数の繁華街だった浅草に、満を持して登場した最先端のアミューズメント施設だった。「雲よりも高い」という名にも、その意気込みが感じられる。

今から考えれば、「浅草十二階」という通称通り12階しかなく、高さは50メートル程度と、それほど巨大なものではない。現代の東京であれば、どこにでもある高さだ。しかし当時は、駿河台の高台に建てられたニコライ堂(高さ約35メートル)が東京一の眺望を誇っており、人の手による建築として、凌雲閣は圧倒的な高さであったと言ってよいだろう。

浅草の歴史を振り返って見ると、浅草寺五重塔をはじめ、凌雲閣以外の塔も登場する。そして現代では、川向こうではあるが、対岸の押上に東京スカイツリーが建てられている。これはある種の必然だったかもしれない。浅草の塔の盛衰をたどると、近代的な文化と技術に支えられた繁華街であった浅草が、「江戸下町」の象徴となったプロセスが垣間見えてくるのだ。

■なぜエッフェル塔はパリの象徴なのか

そもそも、塔とはなんなのだろうか。『塔の思想』(河出書房新社、1972)という異様にマニアックな本を書いたマグダ・レヴェツ・アレクサンダーによれば、塔は極めて異質な建築だ。なぜなら、塔は「内部空間の確保」という通常の建築の目的を放棄しているからだ。

たしかに、現実の多くの塔には巨大な内部空間がある。凌雲閣の内部には、故障がちではあったが日本最初のエレベーターが設置され、展望台へのぼる階段には美人芸妓たちの写真が飾られて人気投票が行われ、足元には演芸場もあった。

しかし、アレクサンダーによれば、塔の内部空間は上を目指した結果の「副産物」にすぎない。塔の目的は高さそのものだ。したがって、塔は一見実用的だが、実は「建築以前のもの」であり、非現実的かつ精神的な目標を持つというのである。

そして、塔の視覚性に注目したのが、フランスの哲学者ロラン・バルトである。バルトは、どこからでも見えるし、どこまでも見えてしまう塔を、能動性と受動性の双方を兼ね備えたもの、つまり「視線の両性を具有する完全物」として論じている(『エッフェル塔』ちくま学芸文庫、1997)。

いずれも格調高い議論だが、要するに、塔の最大の性質は高さがもたらす視覚的インパクトということだろう。塔はどこからでも見えるがゆえに、製作側にそのような意図がなくとも、その足元の街を象徴してしまうのだ。

浅草最初の塔は浅草寺五重塔だ。伝説では、平公雅(たいら・きんまさ)が建てたとされる。公雅は、将門の親戚だが、将門を鎮圧する側にまわった人物だ。その後、武蔵守に出世し、そのお礼として将門の乱で荒廃した浅草寺を復興し、942年、本堂・五重塔・雷門などを寄進した。これ以降、浅草寺は何度も火災にあうがその都度再建され、戦前は、徳川家光が寄進した本堂や五重塔が旧国宝に指定されていた。

明治期には、外務省の火事を見るために群衆が五重塔に殺到し、その時だけ入場料が値上げされた。外務省までは直線距離にして、およそ7キロメートル。今ならば、目の前の浅草ROXにさえぎられて、何も見えないだろう。

■五重塔は関東大震災でも倒れなかった

浅草寺の五重塔は重要な科学実験の対象にもなった。耐震実験だ。背景にあるのは、五重塔不倒神話である。浅草に限らず、五重塔は全国にあるが、地震で倒壊したという記録がないのである。

不倒神話の解明に先鞭をつけたのが、東京帝国大学地震学教授の大森房吉(1868〜1923)だ。1921年、大森は論文「五重塔の振動に就きて」を発表する。法隆寺・東大寺・寛永寺・池上本門寺・日光・浅草寺にある五重塔で耐震実験を行い、その結果を報告したものだ。その中で大森は、浅草寺の五重塔には地震の揺れと同調する重りで振動を制御する構造があることを指摘したのである(河合直人「五重塔振動調査」2006)。

そして1923年、関東大震災が発生する。凌雲閣はこれによって上部が崩壊し、展望台にいた十数人の見物客が亡くなる惨劇となった。後日、凌雲閣は陸軍によって爆破解体された。一方、浅草寺五重塔は大震災にも見事に耐えた。ちなみに、大森は同年に亡くなっているが、死因は地震ではない。国際学会のために海外出張中で、大震災を経験すらせず、脳腫瘍で亡くなった。地震学者としては、無念だったかもしれない。

浅草寺は関東最古の寺院である可能性が高い

地震に強い五重塔だが、1945年3月10日の東京大空襲で焼け落ちる。本堂や雷門なども焼失するが、これが貴重な発見をもたらした。伝承では、浅草寺は推古帝の時代に創建され、前述の通り、平安期に公雅が再興したとされる。だが、仏教伝来間もない推古の建立というのはさすがに信憑性に欠け、学術的には漠然と鎌倉以降の創建と考えられていた。

しかし、本堂の焼け跡から布目瓦(ぬのめがわら)が発見され、それをきっかけに発掘調査が行われると、土師器(はじき)・須恵器(すえき)・中世陶器・和同開珎などが見つかった。これにより、浅草寺の創建年代は平安から奈良にまでさかのぼりうることが分かったのである(坂詰秀一「浅草寺創建年代考」1970)。

こうして浅草寺が都内だけでなく、関東最古の寺院である可能性が判明したのだが、終戦後の浅草からは塔が消えてしまう。最初に再建されたのは仁丹塔である。仁丹塔は大阪の医薬品会社・森下仁丹の広告塔だ。関東大震災後の1932年に、雷門通りと国際通りの交差点に建てられたが、戦争中、金属類回収令のために撤去されていた。

1954年、凌雲閣を模して約45メートルの仁丹塔が再建される。戦前と比べ3倍の高さになったが、あくまで広告塔だ。窓もあったが、一般人が入ることはできなかった。1950年代には、広告塔の高さを土台の3分の1までとする条例ができ、仁丹塔を短くするという話もあったが、地域住民の陳情で残された。アレクサンダーとバルトが論じた通り、非実用的でありながら、どこからも見えるという塔が、自然と街のシンボルになっていたことを示すエピソードである。仁丹塔は、1986年に老朽化のため解体された。

■フジ社長が解体を即決した「ポニータワー」

1967年、仁丹塔に続いて、浅草寺境内でも塔が再建された。だが、それは五重塔とは全く異なるものだった。塔の名は、開業当初は「東京スペースタワー」だったが、間もなく「ポニータワー」に改称された。株式会社ポニーキャニオンの前身の会社が出資し、その名が冠されたのだ。ポニータワーは110メートルあり、スイス製の回転昇降式の展望台が上下するという近代的な塔であった。

しかし、当初からポニータワーは「むき出しのコンクリートが景観を乱す」と評判が悪く、経営もすぐに行き詰まる。凌雲閣の倍はある高さが売りだったが、実は10年も前に東京タワー(333メートル)が完成していた。さらに、ポニータワーの開業翌年には、日本初の超高層ビル・霞が関ビルディング(147メートル)も竣工した。完全に高さとタイミングを見誤っており、展望塔としてのインパクトは弱く、業績不振となったのだ。

そして1973年、浅草寺五重塔が再建されるが、この時にはポニータワーはすでにない。親会社であるフジテレビ社長が浅草寺を参拝した際、ポニータワーのあまりのみすぼらしさに驚愕し、五重塔の完成前に解体工事が始められたのである。

■土瓦とアルミ合金の大論争

五重塔の再建時には興味深い論争が起きている。再建された五重塔は、デザインは伝統的なものだが、鉄筋コンクリートで造られ、多くの新技術が取り入れられていた。高さも15メートル高くなった。

論争の原因になったのは屋根の素材である。当初、屋根には伝統的な土瓦が用いられるはずだったが、軽量で耐久性のあるアルミ合金が候補に挙がったのだ。はたから見れば、どちらでも良いような気もするが、浅草寺内部は土瓦派とアルミ合金派に二分された。

土瓦派の主張は、「飛行機や食器に使われるような新素材を伝統的な寺院に用いるべきではない」というものだ。一方、アルミ合金派は、「そもそも寺院はその時の最高技術を集めて造られてきており、現代ではアルミ合金こそふさわしい」と反論した。実際、関東以北の寺院には銅で屋根を葺(ふ)く寺も多く、「金属蔑視は不当だ」と主張したのだ。

本当にどちらでもいいが、理屈としてはアルミ合金派のほうに分があるように思われる。屋根瓦問題委員会まで組織されて論争は続いたが、結局、見た目は土瓦と遜色ないアルミ合金の瓦が新たに開発され、それが採用された。要するに、さらに最先端の技術が用いられることになったのである。

最新技術の採用という考え方は、その後の浅草寺にも引き継がれている。地元の人はたいてい知っているが、2007年には宝蔵門、2009年からは本堂の大規模改修が行われた。この時、屋根を葺くのに用いられたのはチタン製の瓦だ。通常の瓦よりも頑丈で、軽いために建物への負担も軽減されるといった多くのメリットがあり、現在では、他の神社仏閣でも採用されるようになっている。

■浅草は近代技術で染められた街だった

当初、凌雲閣こそ浅草のシンボルであったが、これは30年程度で姿を消してしまった。浅草の塔として存在感を放ったのは、やはり五重塔と仁丹塔だろう。そして、その合間に現れたポニータワーは浅草という街のイメージ転換を示している。

戦前、劇場・映画館・演芸場・カフェが立ち並んだ浅草は近代文化の発信地であった。日本初のエレベーターを備えた凌雲閣、耐震構造の五重塔、土瓦よりもアルミ合金瓦というように、浅草は近代技術で染められた街であった。そして、この近代的なイメージとの関係でいえば、実はポニータワーこそが凌雲閣の正統な後継だったのかもしれない。だが上述のように、当時でもポニータワーは最先端ではなく、それがこの塔の短命をもたらしたと言える。

戦後、浅草は斜陽の街となり、徐々に下町情緒や江戸文化を売りにするようになる。五重塔が再建され、ポニータワーが解体された1970年前後はまさにその転換期であった。そして、江戸回帰によって浅草は復活する。だが、江戸イメージに基づく浅草人気を支えるのは入念な観光マーケティングだ。2012年には雷門の向かいに隈研吾設計の浅草文化観光センターが作られた。再建された五重塔と同じく、伝統的な姿形でありながら、浅草は、最新の技術やデザインによって支えられているのである。

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岡本 亮輔(おかもと・りょうすけ)
北海道大学大学院 准教授
1979年、東京生まれ。筑波大学大学院修了。博士(文学)。専攻は宗教学と観光社会学。著書に『聖地と祈りの宗教社会学』(春風社)、『聖地巡礼―世界遺産からアニメの舞台まで』(中公新書)、『江戸東京の聖地を歩く』(ちくま新書)、『宗教と社会のフロンティア』(共編著、勁草書房)、『聖地巡礼ツーリズム』(共編著、弘文堂)、『東アジア観光学』(共編著、亜紀書房)など。

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(北海道大学大学院 准教授 岡本 亮輔 写真=時事通信フォト)