資産家の娘と結婚、土下座…ノーベル賞受賞者たちはいかに研究資金を獲得してきたか

写真拡大 (全2枚)

今年のノーベル賞の自然科学系3分野(生理学・医学賞、物理学賞、化学賞)の受賞者が出そろった。まず発表されたノーベル生理学・医学賞に、東京工業大学の大隅良典栄誉教授(1945年生)が選ばれたことはすでに周知の通りである。

今回の受賞決定に際しては、3年連続で日本人ノーベル賞が出たことが大きく報じられる一方で、大隅が記者会見で「いま、科学が役に立つというのが数年後に企業化できることと同義になっているのは問題。役に立つという言葉がとっても社会をだめにしている。実際、役に立つのは十年後、百年後かもしれない」と発言したことがクローズアップされた。これは応用研究とくらべて、基礎科学研究には予算がつきにくい現状を訴えるものであった。


不況の長期化にともない国の財政状況が厳しくなり、研究費獲得競争も熾烈になるなかで、「役に立たない研究こそ役に立つ」と声をあげられるのはもはやノーベル賞受賞者しかいないとの見方すらある(五島綾子『ブレークスルーの科学――白川英樹博士の場合』日経BP社)。実際、今回の大隅と同様の発言は、これまでにも歴代の日本人受賞者から出ていた。2000年のノーベル化学賞を受賞した白川英樹(1936年生)は、基礎研究だけでなく応用研究もじつは世間には十分理解されてはいないとしたうえで、次のように意見を述べている。

《基礎科学に関する世論の支持をもっと科学者自身が取りつけなければならない。そうしなければ、そのために税金を出していないといわれかねない時代である。学術の大切さを世の中に訴えていくのは科学者の役割である。今まで科学者にその意識が欠けていた。日本学術会議も相当活躍しだしたが、役に立たない研究を支える世論の形成をどのようにやっていくかについては、ジャーナリストも協力して考えてほしいと思う》(五島、前掲書)

欧米はじめ他国とくらべても日本の大学の科学研究費は著しく低いと指摘される。ここ数年、ノーベル賞では日本人の受賞があいついでいるとはいえ、受賞対象となった大半は数十年前の研究であり、現状がこのまま続けば将来的に日本からノーベル賞受賞者は出てこなくなるのではないか、といった悲観論まで出ている。

ただし、近年の受賞者の数をもって、昔は研究費がふんだんに国から出ていたというのも間違いである。ノーベル賞を受賞した学者たちにも、資金繰りに苦心したというエピソードは少なくない。この記事では彼らその壁をいかに乗り越えたか、歴史をさかのぼって見てみよう。

日本初のノーベル賞受賞者のスポンサーとは?


日本人最初のノーベル賞受賞者は、敗戦直後の1949年に物理学賞を受賞した湯川秀樹(1907〜81)である。二人目の受賞者は1965年に同じく物理学賞を受賞した朝永振一郎(1906〜79)だった。湯川と朝永は、旧制第三高等学校、京都帝国大学(現・京都大学)の同窓生であり、いずれも理論物理学の道に進んでいる。

理論物理学とは文字どおり物理現象を理論的に研究する学問で、実験や観測に重点を置く実験物理学と対比される。さまざまな装置や器具を要する実験物理学とくらべれば、理論物理学は「紙と鉛筆さえあればできる」と言われるように安上がりだ。日本でこの分野が早くから世界レベルに達し、ノーベル賞学者が輩出されたのも、昔から研究費が乏しかったという事情によるとも説明される。

もっとも、理論物理学の研究にだってまったくカネがかからないわけではない。湯川たちの時代には、インターネットで過去の論文やデータが公開されていたはずもなく、研究書のたぐいはすべて欧米から取り寄せなければならなかった。

湯川秀樹の場合、大学卒業後、母校で無給副手を3年、さらに理学部講師を務めながら研究を続けていたものの、当時の給料ではとても本代をまかないきれなかった。それを援助したのが、開業医だった義父・湯川玄洋である。妻のスミは、夫が本を買って帰るたびに、請求書を受け取ると自分の父のところへ行き、その分のカネを出してもらっていたという。

なお、湯川の旧姓は小川で、湯川家には婿養子として入っている。名うての医者の娘で美貌のスミをまず気に入ったのは、湯川の実父の小川琢二(地質学者)だったという。湯川の次兄の貝塚茂樹(中国史学者)もまた良家に婿入りしたが、その縁談が持ち上がった際、琢二は教え子に《学問にとって金がいかに大事か、考えてみたまえ。とにかく金がある家なら、オレのところは貧乏だから、婿にでもやろうと思っている。相手が美人であれば、息子も我慢するだろう》と言って聞かせたとか(本田靖春『現代家系論』文春学藝ライブラリー)。

「相手が美人であれば、息子も我慢する」とは、いまの感覚からすればちょっとひどいとも思うが、湯川にかぎらず、学者の卵が資産家の娘と結婚することは、この当時珍しいことではなかったらしい。《マクロにみるとき、それが明治以来の学術水準の向上に寄与していることも認めないわけにはいくまい》と、ノンフィクション作家の本田靖春は書いている(前掲書)。

国からの援助があてにならず、アメリカにおけるロックフェラー財団のような存在もない日本にあって、若い学者たちは金持ちの娘と結婚してでも、自らスポンサーを見つけなければならなかったのである。

予算を引き出すための小柴昌俊の策略


もっとも、湯川秀樹が理論物理学の道を選んだのは、経済的な理由ばかりではない。彼は自伝のなかで、実験物理学に進まなかった理由について、不器用ゆえ実験で使うガラス管を扱うのが苦手だったこと、さらに実験用の機械などを購入するには外部の人間とも商談をしなければならず、自分にはその才能がないと気づいたことをあげている(湯川秀樹『旅人 ある物理学者の回想』角川ソフィア文庫)。

湯川とは反対に、理論は苦手だが実験は得意とし、外部との折衝でも手腕を発揮したのが、2002年のノーベル物理学賞受賞者の小柴昌俊(1926年生)である。ニュートリノという宇宙から飛んでくる素粒子を観測するための大規模施設「カミオカンデ」の建設に際しても、当時東大教授だった小柴は国から予算をとるべく策をめぐらした。

このころから基礎科学は国から冷遇されていた。素粒子の観測施設をつくりたいと言ってもきっと理解を得るのは難しい。だが、こんな状態を放置しておけば、日本は必ず世界の基礎科学の最先端分野から置き去りにされる――そんな危機感を小柴は抱いていた(NHKプロジェクトX制作班『プロジェクトX 挑戦者たち 衝撃のカミオカンデ地下1000メートルの闘い――情熱が奇跡を呼んだ』)。

そこで小柴がとった策は、国に予算を要請する前に既成事実をつくってしまうことだった。まず、ニュートリノをとらえる光センサー(光電子増倍管)の開発を浜松テレビ(現・浜松ホトニクス)という会社に頼み、1979年に完成させる。

さらに観測施設の建設地を、小柴が以前から目をつけていた岐阜・富山の県境にある神岡鉱山の地下1000メートルに決め、施設の構想を一晩で書き上げてしまう。この直後、アメリカが小柴の構想の倍以上の巨大観測施設をつくると発表したのを受け、彼は「量でかなわないなら、質で勝負だ」と、浜松テレビに新たに、より大きく高感度の光センサーの開発を依頼した。

光センサーの開発と並行して、観測施設の建設のため、小柴から命を受けた部下が、神岡鉱山の所有者である三井金属に掘削許可を申請する。まだ国から予算が下りていない段階でカネの約束はできなかっただけに、部下たちは土下座までしながら懸命に説明して、どうにか許可を得たという。

1981年、巨大光センサーが完成すると、小柴はすぐに観測のための予算を国に申請、総額5億7千万円の予算を獲得した。こうして着工されたカミオカンデは、難工事の末に83年に完成する。87年には超新星からのニュートリノの観測に成功し、これが小柴のノーベル賞へとつながった。受賞時に彼は「僕の研究は役に立たない」と語ったが、これは「役に立たない研究」をまんまと国に認めさせた自負からの言葉ではなかったか。

1996年には同じく神岡鉱山跡に建設された「スーパーカミオカンデ」が稼働を開始した。この建設にあたっても小柴は一計を案じ、世界中の知人のノーベル賞学者たちに応援を頼むと、直接日本の文部大臣に手紙を送っては内政干渉になるからと、政府に発言力を持つ当時の東大総長・有馬朗人(物理学者。のちの文相)に自分の構想を評価する手紙を書くよう頼んだという(高橋繁行『日本の歴代ノーベル賞』アスキー新書)。

この甲斐あって実現したスーパーカミオカンデでの観測データにもとづき、小柴の教え子である戸塚洋二(1942〜2008)や梶田隆章(1959年生)はニュートリノに質量があることを実証する。戸塚は惜しくも早世したため受賞はかなわなかったが、梶田は昨年、ノーベル物理学賞に選ばれている。


南部陽一郎は「日本人受賞者」か?


小柴のもとから梶田が輩出されたように、小柴はかつて東大で朝永振一郎に学んでいる。成績はかんばしくなったが、それでも宇宙線の研究がしたいとアメリカ留学を志す小柴のため、推薦状にサインしたのも朝永だった。

朝永はまた、小柴と前後して、自分の推薦により新設の大阪市立大学の教授を務めていた南部陽一郎(1921〜2015)を、1952年にはアメリカのプリンストン研究所に推薦している。このあとシカゴ大学の研究員となった南部は同大で教授、特任教授を歴任、1970年には米国籍を取得した。南部に対してはいくつかの業績により早くからノーベル物理学賞の呼び声も高かったが、受賞は5歳下の小柴に遅れること6年、2008年だった。

ところで、南部は受賞時にはアメリカ国籍だったため、彼を「日本人ノーベル賞受賞者」に入れることには異論もあろう。ただ、南部の受賞理由となった業績は、アメリカに渡ってからのものだが、その時点ではまだ米国籍は取得していない。だから「日本人による業績」に賞が与えられたと解釈すれば、間違いではないともいえる。

南部のなかでは恩師ともいうべき朝永と湯川に対する思いは終生変わらず、日本という国にも誇りを抱いていた。もっとも、それでも南部にとって国籍は意味のない色あせたレッテルにすぎず、特定の国籍に縛られない生き方があくまで彼の望みだったという(後藤秀機『天才と異才の日本科学史―開国からノーベル賞まで、150年の軌跡―』ミネルヴァ書房)。

南部のように国籍は変えないまでも、日本人ノーベル賞受賞者のなかには海外での研究が受賞対象となった学者も少なくない。利根川進(1939年生)は、アメリカで本格的に分子生物学を学び、スイスのバーゼル免疫学研究所での研究が1987年の生理学・医学賞の受賞につながったし、化学賞を2008年に受賞した下村脩(1928年生)も、2010年に北海道大学の鈴木章(1930年生)らと受賞した根岸英一(1935年生)も、それぞれアメリカでの研究が実を結んだケースだ。

こうして、それぞれの研究の内実を見れば、国という単位でノーベル賞の受賞者数を数えるのはほとんど意味がないようにも思えてくる。何しろ、オリンピックとは違い、ときにはひとつのテーマについて、国をまたぎ、共同研究の有無にかかわず複数の研究者に賞が贈られることさえあるのだ。昨年の生理学・医学賞に、アメリカと中国の研究者とともに選ばれた大村智(1935年生)のケースがまさにそうだった。先にあげた南部陽一郎の「国籍に縛られたくない」との望みも、いわば、日本人でもアメリカ人でもないボーダーレスな「科学人」としての立場に由来するものではなかったか。

仮に日本で国からの科学研究費が大幅に削られたとして、それによって「日本人ノーベル賞受賞者」が出る可能性がなくなるとは私には思えない。ここまであげたようなケースから考えれば、意欲と才能のある研究者は、母国がだめとなれば、きっと外国に渡って研究を続けるはずだからだ。ただ、科学の分野で頭脳流出が一般化したとき、日本という国の国際的な地位が下落することは間違いない。

そうならないよう国がやるべきことは何か。それはやはり、できるだけ多種多様な研究が出てくるため、それなりの予算を確保して裾野を広げておくことだろう。さらにあわせて、大学や研究機関の門戸を広げ、外国人留学生や研究生をより受け入れやすい体制がつくられるのが理想ではないか。研究者の国籍にかかわらず日本国内からノーベル賞級の業績が出てきたときこそ、日本の自然科学が真の意味で欧米に肩を並べ、成熟を迎えたといえるような気がするからだ。
(近藤正高)